寝ても覚めても
その世界は、月も太陽も、朝日も夕日も同時に存在していた。
青々しい夏空と真っ赤な夕焼け、月明かり滲む夜闇。多様な空模様の境界が、水に絵の具を垂らしたように混ざり合っている。
「ここは……」
頭に浮かんだ言葉が透明の声となって、喉からではなく額から放たれる。
夢か幻か。現実でないことは確かだった。鮮やかな色々が主張する世界。足元には一面の彼岸花が咲き、石油のような水たまりには白骨が沈んでいる。
ズキ、と頭が締めつけられ、ネコメはこめかみを押さえた。引き出しがすべて散らかって意識が混濁している。ぼやぼやと霞む脳内と相反して、景色は鮮明に揺らめいた。
「死を強く感じたかい?」
ざらつく舌で耳孔を舐められるような嫌悪と恍惚感が同時に降り注ぐ。その声に、ネコメは意識を集中させた。
それは昔の恋人に街で偶然会うような悪寒だった。実際には恋人ではなく、死者と言うほうが正しかった。
「
ネコメは振り向き、その名を呼んだ。
記憶のなかで今も息をし続ける、十年前の榊
「ここはあの世だよ」
数学の問題を解くように、榊先生はたったひとつの答えを導く。彼が歩き、折れた彼岸花の場所で、また新たに彼岸花が咲いた。
「私は死んだのですか」
「死んだよ。金古はそう感じている。だから先生に会えたんだ」
「ここは地獄ですか」
「なぜそう思う?」
「あなたがいるから」
榊先生は笑いながら頭蓋骨を持ち上げる。眼球のくぼみから一匹のベタが飛び出し、石油の水たまりにとぷんと消えた。
岩の上に腰を下ろして黄昏れる。その姿は記憶上の殺人教師より、ふた回りも小さい。自分が大きくなってしまったという、時の証だろうか。おどろおどろしい瘴気をまとうでもなく、先生はひたすらに無防備だった。
頭が痛む。額がじんわりと熱を帯びる。
「先生……」
「痛むかい。どんなふうに」
「……鈍器による外傷。出血している」
「そうだ。ほかには」
ネコメは眉間のしわを深め、瞳を閉じて痛みの種類を辿った。
「締めつけ感。何かを巻かれている……おそらく、手当」
「誰がした?」
「わかりません」
「傷を与えたのは誰だ?」
「っ……さ、」
榊先生です、と答えかけて痛みに阻まれる。榊創は死んだ、もういない。この痛みはあのときとは違う、別の痛みだ。榊創は手当などしない。身体から滴り落ちる血も内臓もすべて楽しむ男だ。
ネコメはズキズキと疼く額を押さえる。懐かしさとともに押し寄せる痛みと障害が、ネコメを不安定にさせた。水が欲しい。落ち着ける場所でゆっくりしたい。
「答えるんだ」榊先生は、苦しむネコメの姿に微笑みを浮かべる。
「誰が傷つけた? 金古は知っているだろう」
「……わかりません」
「また裏切られたんだ」
「違う……!」
「そうだ、奴は最初から味方ではない」
閉ざそうとするネコメの記憶を、榊先生は真っ向から否定してこじ開ける。
思い出したくない。考えたくない。どうしてあの人が――風田班長が、あの場にいたのかなんて。
「死ぬのが怖くて会いに来たのか」
「死ぬのは怖いです……」
「苦しいか」
「……苦しいです」
榊創は手のひらで頭蓋骨を転がし弄ぶ。背中を丸めたネコメの返答はまるでオウム返しだった。
「これからもっと苦しくなるよ」
くるりと回した頭蓋骨は、後頭部にひびが入って割れていた。欠けてできた大きな穴から、榊先生がネコメを覗きこむ。頭蓋骨の穴は、殴られて痛む箇所と同じだった。
* * *
恋人を忘れるには、その人と過ごしたおよそ三倍の時間がかかると言われている。人が最初に忘れるのは声だ。その声すらも、深く鮮明に刻みこまれているネコメは、きっと死ぬまで榊先生のことを忘れられないだろう。
先生のいたあの地獄は、いわゆる三途の川だったのだろうか。脳が死を錯覚して見せた幻。
「ただいま我が家ー!」
高らかな声がネコメの意識を緩やかに覚醒へと導く。
薄目を開けると、両手を天高く伸ばした白い髪の少年が、その場でくるくると回っていた。片手には串刺しのフランクフルトが、遠心力によってケチャップを床に撒き散らしている。彼はネコメを見下ろし、「なんだ、起きてたの」とわざとらしくステップを踏んだ。
「こっちだとはじめましてか。教師もどきの金古刑事。私のことはご存知?」
ネコメは椅子の上で拘束されていた。視界にちらつくのは頭を締めつけている包帯である。死なない程度に延命されているようだった。
「きみは……響弥くん?」
「響弥じゃないよ。知ってるくせに」
言うが早いか、彼はネコメの脛や膝をげしげしと素足で蹴る。
茉結華という人物を探っていることは長海までで止めている。が、偶然身内が耳にしていてもおかしくないし、警察内部に彼の仲間がいては、もはや情報の遮断は無意味だ。
「ねえ、私のこと誰に聞いたの?」
コンクリートに覆われた一室で、茉結華はパイプ椅子に腰を下ろしフランクフルトを頬張る。ネコメは頭の痛みに耐えつつ鎌をかけた。
「風田さんですよ」
「……タジロー?」
はじめて聞く呼び方が、頭のなかでリフレインする。だが、疑問は浮かぶ前にパズルのピースとなってぱちりと嵌った。……簡単な言葉遊びだ。
「タジローが話したのは別のマユカでしょ。私じゃない」
不貞腐れたように言って、「一番怪しかったのは井畑さんだよ」と、ネコメの理解が追いつく前に軌道修正する。
「だから殺した?」
「そうだよ。私が殺した」
茉結華はあっさりと、井畑の殺害を認めた。
「トワちゃんまで捕まるとは思わなかったよ。優秀なんだね、刑事さん」
フランクフルトの肉片まで舐め取り、茉結華はネコメの太腿めがけて串を勢いよく突き立てる。手のなかで折れた串が太腿を貫通し、スラックスに黒い血が広がった。
燃えるように赤く血走った茉結華の両目が、ネコメの無反応を覗きこむ。間近で視線が交差し、茉結華は忌々しげに串を引き抜いた。
「教師のふりして響弥に近づいて、うまくいってると思ってた? 馬鹿が」
怒りと嘲笑の感情任せに茉結華はネコメの腹部を蹴る。反抗期の子供のようだと、ネコメは浅い息を吐きながら薄く笑った。それが気に食わなかったのか、茉結華は「殺してやる」と呟き、取り出したナイフの柄でネコメの側頭部を打った。
キィン、と耳鳴りがして視界が極彩色に歪む。ネコメはさらに口角を吊り上げた。
彼が暴れれば暴れるほど、ネコメの身体に手がかりが残る。死の痕跡は犯人を割り出す情報の塊だ。たとえこの身を切り刻まれバラバラにされようと、死体はカメラで切り取ったようにその刹那を教えてくれる。
再び柄で殴られて、視界に細かい星が散ったとき、別の足音が近づいてきた。
「茉結華、足はやめろって言っただろ」
笑みを含んだ、弾むような声。
ぽたぽたと額から流れ出た血が白目を濡らして、ネコメは赤く色づいた視界で彼を捉えた。
「……風田さん……」
「よお、酷い姿だな」
普段の彼からは想像もできない満面の笑みで、風田は「ははは」と声を出して笑う。そして手に持った白いケーキ箱を掲げて、「釈放祝いだ」と、茉結華の前に突き出した。
「やったぁ! ケーキだ! 食べていいの?」
「ああ、全部いいぞ」
「わぁーい!」
茉結華は箱から出した苺のショートケーキを素手で持ったまま貪りつく。口の周りを生クリームでべたべたに汚していくさまは一種の爽快感すら覚えた。
風田は「さて」と言ってネコメに向き直る。
「拷問したか?」
「してなぁい。タジローから私のこと聞いたって」
「嘘だな。本当は誰だ? 井畑にでも聞いたんだろう」
やはり彼らのなかでは井畑による情報漏洩で完結しているようだ。だから拷問するまでもないと。
風田
タジローは、ネコメと同じあだ名の付け方。
「風田さん……あなたはどういう関係ですか」
「茉結華は俺の子供だ」
「……」
「はは、賢いな。そうだ、黙るのが正解だ。お前はもう何も訊くな」
風田は整ったオールバックをぐしゃぐしゃと掻いて前髪を下ろす。ネコメが黙ったのは、そんなはずはないと否定したからではなく、『茉結華』という存在が一本の線に繋がりかけたためだった。
しかし、仮にもし答えを導き出せたとしても、この情報を外部に伝えるすべはない。風田は内ポケットから銀色のケースを取り出した。
「殺すの? 私がやる」
「いや、殺さない」
「なんで? 警察殺しのリスクが高いから?」
「それもある」
だが、と風田は言葉を切り、
「こいつは死にたがりだ」
「死にたがり?」
「死を求めてる。放っておいても勝手に死ぬ」
ふーんと言いつつ、理解できないという顔で茉結華はネコメを見つめる。眉をひそめた薄気味悪そうな目だった。
風田はケースから注射器と小瓶を取り出し、薬品を吸い出す。
「お前には眠っててもらう」
「麻酔ですか」
「ああ、強力な麻酔だ」
「……死ぬことも起きることも許されない」
「仮に目覚めても記憶障害が残る」
「それは怖いですね」
ふ、とネコメは片頬だけで笑う。注射器を構える風田の後ろに、榊先生の姿が見えた。まっすぐネコメを見据えて、『お前はまだまだ弱いな』と憐れんでいる。
……先生のことを忘れて呪縛から解き放たれた自分を想像するのも悪くない。
「でもタジロー、もし憶えてたら?」
「長海を殺す。いいなネコメ」
風田は冷酷に、間髪入れず答えた。
「じゃあ茉結華、何を取る?」
茉結華は手中でナイフを回し、「目かな」とネコメを品定めする。
「髪もムカつくけど、こいつは目」
「慎重にくり抜けよ」
「わかってるって。タジローも顔に傷痕あるよね、いつからだっけ?」
「六年ほど前だ。凶悪犯にな」
「凶悪犯ってタジローが言えたこと?」
あはははは、と歪な親子が声高らかに笑い合う。
ネコメの首筋に注射器の針が刺さって、左目にはナイフの先端が迫った。彼らの背後で、榊先生はにこにこと微笑んでいる。
「これからもっと苦しくなるよ」
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