第十一話

一方通行

 どうしてしゅうは来ないんだろう――と小坂こさかは何百回目の思いを巡らせる。


 私たち、付き合ってるよね。……あれ……付き合ってないんだっけ。わからない。どうして修は来てくれないの。告白したのはいつ? どっちから? ああ……私のほうに決まってる。修が私に、ううん、誰かに告白するはずないもん。

 ……愛してるって、言ってもらえた。

 告白して付き合って、好きって言ってもらえた。愛してるって、何度も囁いてくれた。嬉しい……私も愛してる。そう言って抱き合う時間は、どんな一瞬より幸せだった。


 彼の笑顔も真剣な眼差しも、何か言いたそうに引いた唇も覚えてる。私が、好きになってほしいって言ったときの表情だ。

 ホテルの温かなベッドに腰掛けていて、私は寝転んでいて。蜂蜜色のスタンドライトに照らされた彼の横顔が、私の声に反応する。


「修と過ごす時間は楽しいよ。愛されてるし……幸せだなぁって思う。でも、でもね……私……本当の意味で、修と一緒になりたい。修に、心から愛されたい。私のこと……好きになってほしいの」


 修はそれまで浮かべていた笑みを消して「それは……」と残念そうに目を伏せた。


「それは僕との関係を続けられないから? 今月はもう払えないんでしょ、知ってるよ」


 違う……違うの。そうじゃなくて、お金じゃなくて……。

 思わず身体を起こし、修に手を伸ばした。彼はスッと立ち上がり、着替えを持ってバスローブの紐を緩める。私の指先は届かない。


「仕方ないね。別れよう」


 にこりと笑って、戯けたように肩をすくめる。私は全力で首を振った、「なんで?」と。身体は疲れ切っていたけど、眠気も疲れも吹き飛ぶような、それこそ目が覚めるような一言だった。


「なんでって、そういう約束だっただろ」

「お、お金なら払う! もう少しだけ待って、絶対なんとかするから」

「でも……」

「お金も払うし、関係もこのままでいい! ただ私は、修に好きになってもらいたくて――」

「無理だよ」


 一秒も間を開けず修は断言した。


「誰かを好きになったことないから。無理なものはできない、叶えてあげられない。僕にできることならなんでもしてきたけど、できないものを求められてもね。それはほかの誰かに頼んで」


 申し訳なさそうに微笑んで、彼は私の前から消えた。本当にただの頼み事を断るような、軽い口ぶりで。

 愛してほしい。好きになってほしい。それは確かに望んだこと、だけど……頼みではなく願いだった。強制なんてしてない……ううん、するつもり全然なかった。だけどそう捉えられてしまった。


 どうして? どうして私は、修にあんなこと言っちゃったんだろう。悔やんで、謝って、彼に何十件もメッセージを送った。返信はおろか、既読さえ付かなかった……。

 わかってた、ずっとわかってた。

 修の愛してるは上辺だけの、契約上の演技なんだって。まるで台本があるみたいに、彼はいつだって私の求める言葉をくれて、私が喜ぶような完璧な彼氏でいてくれた。

 私は確かに浮ついていた。けど、本当はそうじゃなくて……ありのままの修でいてくれていいよって、そう思ってた。


 嫌いじゃないよ。好きだよ。愛してるよ。あの言葉は全部……嘘とはちがくて、やっぱり契約上の台詞だったんだと思う。

 嘘つきは私のほうだ。彼を引き止めるために妊娠って言って……迷惑かけた。修は二人の問題だって言ってくれた。嬉しかった。不安なら一緒に病院に行こうって、お金は僕が払うよって。

 本当の彼が私をどう思っていようが構わない。思いが伝わらなくてもよかったんだ、修のそばにいられれば。彼のそばにいて、恋人でいられるのなら、私は偽物の関係でも幸せだった。

 でも……。


 嫌われちゃったのかな。だから修は……来てくれないのね。

 付き合ってた頃は、私が何度急に呼び出そうとも、嫌な顔せずすぐ来てくれた。ばちが当たったのかな……嘘をついた罰。それとも、付き合ってた頃っていう認識がそもそも間違ってて、私たちにそんな瞬間はなかったのかな、なんて。


 助けて――って、本当に求めた助けだったんだよ。今までの嘘と違って、ほんとにほんとに来てほしかったんだよ。なのにどうして来てくれないの……どうして、どうして?

 どうして――




 誘拐事件の被害者、小坂めぐみは、閉め切られた窓のカーテンを見つめている。視線の先に綾瀬あやせ灰本はいもとの姿が割って入っても、焦点は一切ぶれずに宙を向いている。

 刑事たちは神妙な面持ちで顔を見合わせ、「また来ますね」と彼女の病室を後にした。


    * * *


 病室のドアに手を伸ばした途端、室内から自分の名前が出されてりんは戸惑った。「凛ちゃんといればよかったんだ」と、低くため息混じりに言ったのは千里ちさとの父親。


「どうせ悪い友達だったんだろう、千里は巻きこまれた被害者だ。こんな目に遭わせて自分は別の病院に移るなんて……金持ちはこれだから」

「そんなんじゃないってばっ!」


 怒気をはらんだ千里の制止が、廊下にいる凛にまではっきりと届いた。

 ――今の……小坂さんのことだよね。

 盗み聞きしたくなる気持ちを抑えて凛はドアから離れる。だが言い争う家族の声は嫌でも耳に入ってきた。


「お父さんいつもそう。千里は悪くない、千里はいい子なんだって嘘ばっかり。ほんとはそう思いたいだけなんでしょ? 理想を押しつけてわたしから目を逸らして、猫可愛がりするのはもうやめてよ!」


 病室の空気は冬の空のように凍りついている。千里の両親が息を呑んでいるのが肌に直接、痛いほど伝わってきた。

 千里と同じ被害者の小坂めぐみは、先週別の病院に移された。警察は反対したようだが、もっと大きな病院で安全にケアしたほうがいいだろうと親がくだした結論だ。彼女の心は、いまだどこか遠くにある。


「帰ってよ……」


 泣きそうな呟きが聞こえて、人の気配が近づいてくる。スライドドアが静かに開き、千里の両親がそろりと出てきた。父親は凛を見て目礼し、母親は横髪が顔にかかるくらい頭を下げる。

 げっそりと痩せこけた頬と、魂の抜けた虚ろな瞳。二人とも前会ったときより銀髪が増えて、十歳ほど老けたように感じた。

 凛は小さくお辞儀をし、すり足で廊下を去っていく千里の両親を見送って扉をノックした。スライド式のドアを開けると、ベッドの上でうなだれる千里の頭部が目に入る。


「ちーちゃん」


 いつものように声をかけて、東崎とうざき先生から受け取ったプリント集をテレビの棚に置く。警察の出入りを考慮した個室は凛一人なら広く感じ、千里の両親にとっては狭い檻に見えるのだろう。

 千里は鼻をすすりながら顔を上げた。充血した目に涙の膜を張って、口元に微笑を浮かべる。


「聞こえてた……?」

「ちょっとだけね」

「……ごめん」

「謝ることじゃないよ」


 凛は丸椅子に腰を下ろし、親友の声に耳を傾ける。学校終わりの放課後、こうして千里の病室に顔を出すことが凛の日課になりつつある。テスト週間の今は十分その余裕があった。


「あと一週間で退院できるんだって。……テストは夏休み中でいいよって、先生言ってくれた」

「退院祝いしないとだね。私と、芽亜凛めありちゃんと、わたるくんも呼んじゃおう」

「……そうだね……」


 千里は弱々しくはにかむ。スタンガンで襲われた際にできた首の傷はもうほぼ消えてなくなっている。まだ犯人が捕まっていないため、退院できても警察の監視下に置かれるだろうが、彼女にとってはそのほうがいいと思える。


「めぐっち……小坂めぐみさんね、ずっと……上の空なんだって」


 少し伸びた前髪が千里の片目を覆った。


「嫌になっちゃうよ。あの人たち、いつも誰かのせいにしてばっかりで。めぐっちはわたしと同じ被害者なのに。責められること何もないのに……」


 千里は布団を握りしめ、ベッドの上にしわを作る。凛は「うん」と頷いて聞き役に徹した。

 凛一人のほうが千里は話してくれるだろうと、芽亜凛が謙遜したとおり。彼女は誰よりも小坂めぐみを心配している。おそらく芽亜凛や渉に会うよりも、小坂と会って話したいと思っているはずだ。


朝霧あさぎりくんに伝えてくれないかな。めぐっちは、朝霧くんのこと待ってるって」

「うん。わかった、伝えておくね」


 千里はそれ以上話さず、凛も元気を出してほしいと強く言うことができず。千里との無言の空間は苦じゃないけれど、凛は手持ち無沙汰で棚の上のプリントを取って今日のテストの感想を話した。千里はそれをおっとりとした様子で聞いていた。

 小坂の状態は先生を通じて凛にまで伝わっている。彼女と同じA組でクラス委員の朝霧はもちろん聞かされているし、知らないはずないのだ。


 彼が動いてくれれば、千里は満足するだろう。だが朝霧は、小坂めぐみを心配していない。

 どうでもいいとさえ思っていそうだった。

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