侵蝕
考えるよりも前に凛のスマホに手を添えて、渉はその内容を見た。響弥も画面を注視する。
トークの右側には、凛が送ったと思われるメッセージが連なっていた。千里が行方不明になってからも、彼女は連絡を続けていたようだ。
しかし今見るべきなのは、千里から送られてきたメッセージ。
『今日の午後十二時、坂折公園で待ってる。目印は白い傘』
装飾のない、ただそれだけの淡白な文章がそこにあった。
全員が――ファイルを見ていた時よりもずっと静かに息を殺した。
そんな場所で千里が待っている――?
渉は、画面右上に表示された時刻を確認した。
『午後11:45』
時間がない。そう思った矢先、凛が手を下ろした。
「行かなきゃ……」
「待て……!」
鞄を取ろうとした凛の腕を掴み、「よく考えろ凛! こんなのおかしいだろ……っ」
響弥も頷き、身を乗り出す。「そ、そうだよ……! 人を呼んだほうが……」
「時間がないよ――っ!」
凛は大きく首を振り、声を荒げた。
「会えるのは今しかない。時間を過ぎたらもう……。だから離して渉くん……行かなきゃ」
吐かれる息は、唇は、小刻みに震えていた。握っている手からも、凛の震えは伝わってくる。
罠だ――と渉は思った。どう考えてもおかしい。送ってきたのは千里じゃない。わかっていても、凛を説得しきる自信がない。
それは千里の無事を否定することになるからだ。
渉は凛の手を離して、自分の鞄を掴み取った。
「一人で行かせられない」
そう言うと響弥も鞄を持って、「俺も行く!」
渉と響弥は目で訴えかけた。こうしている間にも時間は刻一刻と過ぎていく。机の上を片付けている暇などない。
凛は震える唇を閉じて深く頷いた。
図書室のクーラーを切るのも忘れて、三人はドアまで一直線。しかし開けた扉の先にいたその人にすべてを託すことになる。
「あ、あなたたちまた……」
「先生ごめん! なかのやつ片付けといて!」
片手を上げて挨拶がてら響弥が告げると、背後から国語教師植田の息巻く声が飛んできた。
生徒は振り返ることなく、廊下をバタバタと駆けていく。
急ぎ坂折公園へと向かう三人。行く手を赤信号に邪魔されて別の横断歩道を渡り、その先の歩道橋を通って小道を抜けて……。
見下ろしてくる空は、憎いほどに青かった。直射日光に焼かれて、額には汗が浮かんだ。
やがて見えてくる公園を目視する。錆びついた数少ない遊具。静寂しきった公園内。近くを通り掛かる車もいない。
園内に設置されたアナログ時計は、十二時を示していた。
渉と凛は手分けをして、公園周りを捜索。響弥は入り口へと向かった。
「白い傘……白い傘……」
仮にもしも千里がいて、傘を差しているならば、すぐに見つけられるはず。そうじゃなくても、白い傘なら目立つはずだ。
――どこだ、どこにあるんだ。
「渉!」と、響弥がなかから叫んだ。ちょうど半周してきた凛と、入り口に集まったところである。
園内に入ってそちらに向かうと、
「あ、あれ……」
響弥の指差すほう――トイレの脇に設けられたベンチの後ろ。何本かの木があって、手入れなく伸びて垂れ下がった枝に、白い傘がぶら下がっている。辺りは緑のフェンスで囲われており、外からじゃ見えづらい場所であった。
彼らが目にしたのは傘だけじゃない。
そのすぐ下――ベンチの上には学生鞄が置かれていた。
「……」
凛はゆっくりと歩むさなか、肩に掛けていた鞄をずり落とした。
「凛ちゃ……」
「凛、待て……凛っ」
呼び止める響弥の声は、凛に続いて横切った渉の声に消される。ふらりふらりと、ベンチに吸い寄せられる友人らの背に、響弥は何も掴めない手を伸ばしていた。
凛は立ち止まり、前方のベンチを見つめ、渉は木に掛けられた傘を見上げる。
傘の先端は黒く――錆び付いて汚れており、繋がった生地部分も黒ずんでいた。
本能でわかる。これ以上は近付けない。近付きたくない。その先は地雷原。足を踏み入れれば、持って行かれる。
なのに凛は、置かれた鞄から目が離せずにいて――一歩、また一歩と足を踏み入れる。渉は幼馴染を制することができず、伸ばした手で空を掴んだ。
ベンチ前で凛は、じっと鞄を見下ろした。視線の先の、鞄のファスナーは少し開いている。
「り、凛……」
渉の口から祈るような声が漏れた。
電柱に止まった一羽のカラスが、止まれの標識を反射させた真っ赤な瞳をギョロつかせる。
――開けちゃ、駄目だ。
(開けちゃ駄目だ……開けちゃ駄目だ……、開けちゃ――)
渉の思いとは相反し、凛は吸い込まれるがまま、鞄の口へと手を伸ばした。
「…………」
「凛…………?」
「あ――あ、あ……っ」
少女は後ずさり、膝から崩れ落ちた。ベンチに縋るように頭を垂れ、声にならない悲鳴を喉から引きずり出す。
「あぁ、あああああ、ぁ……」
「凛――」
一歩近付いたその拍子、ツンと鼻を突くにおいがした。錆びた鉄のようなこのにおいは――
渉は視線を、ゆっくりと下ろす。
鞄のなかから覗いて見えるのは――丸い、ボールのような、黒い――――頭だ。
「く……! っう、う……!」
理解して、けれども思考することを恐れて、首を振る。
嫌だ。違う。何も見ていない。何も――何も……。そう自分に言い聞かせ、渉はうずくまる幼馴染の腕を掴んだ。
「凛、立って、離れ……」
「うっ――」
呻いたのは凛ではなかった。
振り返ると、先ほどまで後方にいたはずの響弥が、すぐ後ろにいた。背中を丸めて、全身はぶるぶると震えている。瞳の焦点は、地面の一点を見つめていた。
「響――」渉が名前を呼ぶ前に、親友の口からゴホゴホと水が溢れた。空っぽの体内から吐き出されたそれは土に染みて、地面を黒く染め上げる。
動かない幼馴染と、嘔吐する親友。
己の冷静さを保つのも限界がある。
「一一〇番……警、察に……」
今すぐここから逃げ出したい気分で、渉はポケットからスマホを取り出し、電源を入れた。最後に頼れるのは警察だけだと思いながら――
ロック画面。
メールのプッシュ通知が一件。相手の表示名は『ちーちゃん』で、
『渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉くん渉く……』
「……………………」
表示しきれていない全文を見るために、渉はトーク画面を開いた。
おびただしい量の自身の名は、左側の吹き出しから新規に表示されたもので――その数、二十行は超える。
ただ名前が連なっているだけの文だ。停止しかかっている頭では、それ以上考えることができなかった。次のメッセージが送られてくるまでは――
『見てくれた?』
「っ――! ふざっけるなあっ!」
込み上げるものに身を任せ、気づけば渉は怒鳴っていた。目を見開き、怒りをあらわにしていた。
画面をホームに戻して、すぐさま一一〇番をタップする。
梅雨明け前の正午過ぎ。呪われた公園で、嘲笑うかのようなカラスの鳴き声が響いていた。
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