無数の手

 胸に響くのは花火の音。

 赤青オレンジ、緑に黄。色とりどりの大きな花火が、夜空に打ち上げられてはキラキラと輝いて消えていく。緋色の提灯がぶら下がる夏祭り会場へと、辺り一面が染まっていく。


 ねえ、と誰かの声がした。隣を見れば、モノクロカラーの彼がいた。彼って誰? その顔は、マジックペンのようなぐちゃぐちゃの線で塗り潰されている。


「俺さぁ、ずっと気になってたんだ、たちばなさん。大人しいし、話したこともないけど、部活で泳ぐ姿とか……。知ってた? 俺結構見てたんだ。夏季大会も、本当は橘さんを応援してた。なあ、付き合わない? 付き合おうよ。ね、大丈夫、バレなきゃ平気だって」


 芽亜凛は、ああ、と気づいた。高校一年生の夏休み――夏祭り会場で、一人の男子に告白されている最中なのだと。同じクラスだった彼は、クラスメートの女子とすでに交際していて、相手がいる状態でも付き合おうと申し出てきているのだと。


 ――何を言っているの。

 芽亜凛は必死に否定した。

 ――だってあなたには、彼女がいるじゃない。

 ――はい。お付き合いはできません。

 ――なんで、も何も……相手のかたに悪いとは思わないの?

 ――ごめんなさい、無理です。離してください。……離して!

 強く掴まれた腕を振り払った。

 ――失礼します。さようなら。


 振り返って瞳を閉じる。視界が開けたときには、浴衣姿から部屋着へと変わっていた。

 折り畳んだ膝の上に両手を投げ出し、色のないスマホを握っている。ピコンピコンと音がする。クラスのグループトークの通知音だ。


『カノジョいるの知ってて告ったんだって』

『毎日メールしてくるらしいよ』

『こえー』

『男なら誰でもいいんじゃない?』

『サイアク』

『てかあの子見た目だけだよね』

『お前騙されてんの?』

『ちげーわ』

『でもわかる。見た目だけ』

『見た目だけでヒイキされてる』

 ピコン。ピコン。

 ピコン。ピコン。

『本人来たらどうすんだよ』

『いいじゃん別に。おーい。みってるー?』

『既読付いてる』

『ウケる。マジじゃん』


 アハハハハハ。くすくす。くすくす。

 まるで画面越しに笑い声が聞こえてくるようだった。彼を断った次の日から、夏休みの間ずっと。

 あることないこと流されて、みんなして、揃って同じことを言う。キモい、ウザい、サイテー。マルマルちゃんが可哀想。よくいられるよね。消えてくれればいいのに。溺れて死んじゃえば?

 それは彼からの仕返しだった。彼は輪の中心で、一人だけいい顔をし続ける。


『びっくりだよねぇ。それからもしつこくてさ。でもあまり責めないでやってよ。俺も我慢するからさ』


 スマホ画面の明かりが消える。場面はフェードアウトし、舞台は学校へと変動する。

 夏休みが明けて孤立した芽亜凛は、彼を昇降口へと呼び出した。


 ――どうしてあんな酷いことをするの? 嘘ばっかりじゃない。

「どうしてって、俺のこと傷付けたくせに。忘れちゃったの? 俺フラれたことなかったのによぉ、屈辱だよ。お前がぐだぐだ言うから、仕方なく諦めてやったの。だからこうなったのも自業自得じゃねえ? 大人しく付き合っていればよかったんだよ。でももう遅いからな。縋られたって付き合ってやんねえから。クラスでも話しかけないでね。責任転嫁とか、マジ迷惑なんだよ」


 水面に浮かぶ油膜のように、視界がぐにゃりと歪んでいく。

 机のなかには丸められた紙くずが、溢れんばかりに入っていた。教科書やノートが紛失するようになり、カメラのシャッター音に過剰反応するようになり――たくさんの人の目が、人の笑い声が、全部自分に向けられているような気がしてならなくなった。

 教室にいても廊下にいても、学校中、どこにいたって彼らの気配は追ってくる。逃げ場なんてどこにもない。どこにも、ない。


 だから芽亜凛は反動のごとく、水泳部の活動に打ち込むようになった。厳しい練習に耐え抜いて、今まで以上に努力した――だけど、彼らの視線は振り切れなかった。

 更衣室のロッカーを開けると、シャツがびりびりに切り裂かれていた。上履きがなくなり、下着が盗られ、着替えるものがなくて。


 裸足のままで廊下を歩いた。水着の上にタオルを巻き、保健室に向かい――複数の男子に囲まれた。そのなかには、モノクロカラーの彼がいた。

 マジックペンの隙間から、彼らの瞳が揺れ動く。上から下に、舐めるようにと揺れ動く。下心の有無を感知できるようになったのはちょうどそんな頃。


 やっちまえ、と彼が言った。無数の手が伸びてきた。机に身体を固定され、泣き叫ぶように悲鳴を上げた。飛んで駆けつけてきたのは、クラスの担任で水泳部顧問の戸川先生。

 芽亜凛は洗いざらい打ち明けた。縋るように独白した。助けてください、と戸川を頼った。


「よく話してくれたな。先生が守ってやるからな。もう何も心配はいらないよ。ほら、早く着替えなさい」


 先生が手伝ってあげるからね、メア。

 戸川の吐息が額にかかった。




 ピピピピピピ――けたたましいアラーム音が脳髄に降りかかる。

 手探りでスマホを取り、画面をスライドしてアラームを止めて、芽亜凛は思わず額に手を当てた。親指で目尻に触れると、乾いた涙の痕で皮膚が軋んだ。

 起きて顔を洗って準備して、今日も学校に行かなくちゃ。


    * * *


 どうして女子という生き物はトイレに集りがちなのだろう――と椎葉しいばみのりは思う。

 いやきっと、それは言われるまでもなく、みんなわかっていることなのだ。わかっているが、やめられない。その習性を変えようとしない。思えば小学校高学年辺りからそうだった気もするし、自分も便乗して、用もないのにトイレでたむろしていた。


 その習性を利用して、椎葉は今、トイレの個室のなかで息を潜めている。標的は奇しくも、E組で不仲の世戸せと優歌ゆうかたち。こうして立ち聞きするのは今回に限ったわけではなく、椎葉穂はたまにこうして情報を集めていた。


「やりすぎじゃないのそれ」

「いーや、うちらのさやかに手を出すほうが悪いにゃー」


 諌めるような世戸に続いて、楠野英梨が犯行を自供する。「英梨は怖いねー」と瀬川せがわ千晶ちあきがからから笑った。

 何をしでかしたのか、手前の話はトイレ外でされたらしく、その所業は掴めない。だが楠野英梨があの転校生に、何か悪さをしたのは間違いないみたいだった。


「住所なんて職員室に行けばすーぐわかるよ。個人情報の宝石箱にゃあ」

「よく忍び込めたね」

「部活で誰もいなかったからねー。さやかに見張ってもらってちょちょいのちょいよ」


 にゃははと笑う楠野に、世戸は「ふーん」とだけ相槌を打つ。友人の悪行自慢には興味がないらしい。

 三城さんじょうだったら、真剣に相手を咎めるだろう。彼女は卑怯な手を好まないから――


「へえー、そんなことしてるんだ」


 聞き慣れた力強い声が乱入した。三城かえでだ。

「うわっ。また盗み聞き?」と瀬川が喧嘩腰になった。

 三城は、「穂を探しに来ただけ。こっち来たの見てない?」と聞き返す。

「見てなーい」と、楠野と岸名が間延びした。

 当然だ、彼女らが来る前から、椎葉は個室に潜んでいたのだから。用を足さない彼女らが個室を気にするはずもない。そのため、怪しまれる心配は最初からないに等しい。


「あんたは転校生のことどう思ってんの」


 いつもは絡もうとしない世戸が、珍しく三城に口を利いた。三城楓は答える。


「別によくは思ってないよ。でもあたしは、いじめなんてしない」

「嫌味言いに来たのかよ」


 瀬川が反射的に噛み付いた。

 そんなんじゃないけど、と三城は続ける。


「あんたたちが何しようとあたしには関係ないし、あの子がどうなろうと知ったことじゃないよ」


 そう言って、手を洗う音がしはじめる。


「でも、響弥に手を出したら許さないから」


 ――椎葉の瞼がわずかながらに持ち上がった。

「…………」

 水を弾く音が止み、三城の気配が遠ざかる。


「なんじゃあれ。あいつあの男子と名前で呼ぶ仲だった?」

「知らない。交流広いアピールじゃない?」

「変に正義ぶってんのかなぁ」


 けらけらと笑う瀬川に続いて、ほかの気配も消えていく。静まり返った女子トイレに、ロックを外す音が響いた。

 椎葉が個室から出ると、ロックを外すが襲来する。

 目を見開き振り返れば、キィ……と隣の個室が開いて、なかからC組の生徒が現れた。彼女は何食わぬ顔で手洗い場に向かうと、水で濡らした手でサイドテールを整える。


「あのさ」

「わっ!」


 鏡越しに話しかけた椎葉の声に、松葉まつば千里は大げさに飛び退いた。


「あ、あっ、何?」

「……さっきの話、誰かにチクったりしないよね?」


 椎葉は威圧的に語調を強める。こう言えば大抵の人間は自己防衛に回ると知ってのことだ。誤魔化すか、とぼけるか――すぐさま否定に舵を切るか。

 しかし千里は「あー……」ともどかしく視線を下げた。あれのことね、と何もかもを察している様子に見えた。


「さっきE組の子たちが言ってた話? うん、しないよ。わたしのクラスはC組だしね」


 へらっと鏡越しに微笑む彼女は、ただの一ギャラリーに過ぎない。だが椎葉には、クラスまでしっかり把握している点がまるで牽制のように思えた。

「……ならいいけど」と一応返事をしておくと、「まあでも、」とすかさず千里の補足が入る。


「それで凛ちゃんが困ってたら、話は別だけどね」


 さらりと前言撤回し、穏やかな笑みを顔色に灯した。


    * * *


「ねえ新堂しんどう


 人目のばらつく掃除時間。

 椎葉穂はお札を手渡し、人差し指を唇に当てる。


「お願いがあるんだけど」

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