仮面の裏側
――遅い。
放課後になり、C組前で待機していた芽亜凛は、いつまで経っても出てこない響弥に違和感を覚えた。いつもは先にいるか、すぐに教室から出てくる彼が、ホームルームを終えて数分経過しても現れない。
日直という話は聞いていなかったが――教室のなかを見渡しても響弥の姿は確認できず、どころか鞄が置かれたままになっているのを見て、芽亜凛はさらに困惑した。
(いないの……?)
通知が来ていないことを知りながらも、スマホのトーク画面を開いてもみるが、やはり新規メッセージは届いていない。昨日の埋め合わせをする約束を昼休みに交わしたのに、連絡もしないでいったいどこをほっつき歩いているのだろう。考えられるとすれば、昇降口にいるか、職員室に呼び出されているか。
『廊下で待ってますが、今どこですか?』と送信して――五分が経った。画面を見て、既読が付いていないことを確認する。
このままここにいても
今まで見えていた彼の動きが急に見えなくなった。それがこんなにも不安で、恐怖を煽ることなんて、芽亜凛は思ってもみなかった。
昨日あんなことがあったからだ。戸川とのことが引き金となり、彼が変な気を起こさなければいいが――
もしかしたら本当に、呑気に散歩しているか、担任に呼び出されて説教でも受けているのかもしれない。しかし不安は不安である。この心配が徒労に終わってくれたらいいと、芽亜凛は思った。
「ねえちょっと」
一階の踊り場に出たとき、曲がり角から、ピンク色の影が芽亜凛を呼び止めた。
「人探してるんでしょ」
そう言ったのは、染色剤の艶のあるツインテールを揺らしてやってくる、小坂めぐみ。
意外な人物の登場に、芽亜凛の心中は『えっ……』と素直な反応を示した。待ち伏せしていたのかと思うほど、妙なタイミングである。しかし今の発言からして、事実そうなのかもしれない。
「さっき見たよ。黒い跳ねっ髪が連れて行かれるの」
芽亜凛は曖昧に首を傾けた。
「誰と、どこへ?」
「B組の
宮部――宮部
今回は、一番手である響弥を承諾したため、後に告白してきたのは――情報に疎そうな――A組の
小坂は人差し指をつつっと動かして芽亜凛を呼んだ。
「E組の新堂
芽亜凛は呟いた。
「校舎裏……」
脱色した髪と、耳にはいくつものピアスを付けていて、態度も悪く、授業もサボりがちで――不良生徒の看板を首から下げているような生徒である、あの新堂明樹と?
対して宮部陸は、見た目は平凡な男子高校生で、校則違反などもしていない。中身は軽い印象があるけれど、まさか隠れヤンキーだったのか。
「カツアゲされてるかもよ。校舎裏とかベタだし」
「小坂さんがそれ言うのね……」
「え?」
きょとんと呆ける小坂に、芽亜凛は「ううん」と首を振った。
「ありがとう。どうして教えてくれたの?」
これは純粋な興味であった。
小坂めぐみは人を騙せるほど器用な子ではないし、こんなふうに誘導するような子でもない。もし誰かにそうするように言われたとしても、『なんでめぐがそんな面倒くさいことしなきゃいけないの? 自分でやれば?』と跳ね除けるようなタイプだ。それを承知で芽亜凛は尋ねた。
「ムカつくのよ」と、小坂は頬を膨らませた。
「一目惚れだからって馬鹿にするの。すぐ別れるとか、どうせ偽物だとか、そんなの部外者に言われる筋合いないもん。私もそうやって付き合って、今でも……好きな人いるから。だから、あんたたちには続いてほしいわけ」
彼女は――小坂めぐみは、朝霧と別れたことを認めているのだ。認めていて、その上で彼のことを諦めきれずにいる。そして遠回しに、芽亜凛と響弥のことを『応援している』と言っているのだ。
なんだか身体がこそばゆくなって、芽亜凛はうろたえる。まさか彼女にそんなふうに言われる日が来るなどとは。
「ほら、早く行って。やばいんじゃないの?」
うん、と芽亜凛は頷いた。「ありがとう、小坂さん」ともう一度お礼を言って、校舎裏へと急ぐ。
予想外の協力者は、芽亜凛を見送りながら『あれ?』と小首を傾げた。
「私、名前…………」
教えた覚えがないことに気がついて、へにゃりと口元を緩める。
「私って結構有名なのかな……へへへ」
* * *
神永響弥は後悔していた。せめて芽亜凛と顔合わせして、すぐ戻るよと伝えておきたかったと。
目の前にはB組の宮部陸が、その後ろにはE組の新堂明樹が、植物を観察するような目でこちらを見ている。響弥は頬骨の痛みに顔を歪めた。――どうしようかな。
『神永くんさ、ちょっと来てくんない? すぐすぐすぐ、すぐ済むから。お前のこと呼んでる奴がいるんだって。な、頼む。すぐ済むから』
そう言った宮部に連れられて向かうや、校舎裏にいたのが新堂明樹だった。E組はまだホームルームが終わってなさそうだったため、彼は最初からここでサボっていたのだと思う。
正直関わりたくねえなぁと思いながら、「何?」と尋ねると、新堂明樹は「ジャンプ」と言った。「漫画?」と響弥がとぼけると、宮部がくるぶしを小突いた。
「ボケてんのか? ジャンプしろって言ってんだよ」
「ほーい」
響弥はその場でぴょんぴょんと跳ねた。ついでに躍動感が付くようにと手を翼のようにはためかせる。すると宮部が胸ぐらを掴み、一発目の拳を響弥の顔にあてがったのだ。
――え、顔狙ってくんの? マジで?
後先考えない向こう見ずかよ、と響弥は内心呆れた。野蛮人なのに変わりはないけど、戸川のほうがまだマシじゃん。
時はそうして今に至る。先ほどから携帯電話が通知音を鳴らしているが、きっと芽亜凛からだろうと思った。しかし今は取るに取れない状況にある。
宮部の二発目の拳が飛んできた。スローモーションに見える視界のなかで、響弥は目への直撃を避けるべく顔を斜めに倒した。マッチを擦りつけたみたいな熱が眉尻に走る。流れ作業のごとく、今度は横蹴りが飛んできたので、片膝を曲げて尻餅をついた。当たってもいない腹部を押さえて、「うぅ」と呻き声を上げる。
「よっわ」と、宮部の笑い声が降ってきた。響弥もへらりとほくそ笑む。
「目付けられる覚えないんだけどな……俺何かした?」
宮部ではなく、新堂のほうを見て尋ねた。新堂明樹はただ響弥を見据えるだけで何も答えない。なるほどね、理由はない――と。新堂の瞳はわかりやすく語っていた。
一方、宮部はスラックスからタバコを取り出してふかしている。俺はこういうこともしているんだぜ、という悪行公開に見えてならなかった。しょうもない奴――と茉結華なら堂々と嘲るだろう。
宮部は響弥の胸ぐらを掴んで引き寄せると、顔に煙を吐いた。響弥はゲホゲホと咳き込む。
「お前さぁ、最近調子こいてるみてえじゃん。可愛い彼女ができたからって、ちょっと調子こきすぎじゃねえ?」
「何……嫉妬?」
チッと、大きな舌打ちが鳴った。
宮部は響弥の膝に吸い殻を落とすと、タバコの先を顔へと近づける。ああ、もう、だから顔はやめろっての――響弥はため息を殺して、その手をパシッと掴んだ。
「……は?」
反撃されることには慣れていないのか、宮部の目が大きく見開かれる。響弥の袖から覗く細くて骨張った腕からは想像できないような力が、宮部の手首に圧をかけていた。
――テコの原理ぃーなんてね。不良に言ってもわかんないか。真っ赤な嘘だけど。
「こいつ……!」
胸ぐらを掴む手が強まったところで、「やめとけ」と新堂が制した。響弥がゆっくり手を離すと、宮部は立ち上がって後ずさる。
新堂はポケットから手を出して、響弥の前にしゃがみこんだ。てっきりナイフでも飛び出すかと警戒したが、新堂もそこまで馬鹿じゃないらしい。
「響弥――!」と、声が割り込んできたのはそのときだった。
宮部は反射的に、そして響弥と新堂は悠然とした動きで、そちらに顔を向けた。
声の主――三城楓は、息を切らして駆け寄ってくる。響弥はやっぱりか、と思った。
「明樹……? なに……何やってんの? なんで響……っ神永に、こんなことすんの?」
三城は、響弥と新堂との間に滑り込み、庇うように片手を広げた。どうしてこんなことをするのか、ぜひとも聞きたい話だが、新堂は答えないだろう。
「そいつモヤシみてえでムカつくじゃん。ウザいんだよ。彼女できて調子こいてるみてえだし。なあ明樹?」
「うるさい。陸には聞いてないから、黙っててよ」
睨みつける三城に、新堂は前かがみで答えた。
「お前のそういうとこ、マジ冷めるわ」
抑揚のない声で言って、新堂明樹は踵を返す。宮部はタバコの火を靴裏で消して、その後を追った。
「答えになってないよ。明樹……明樹!」
三城は呼び止めようとするが、新堂は振り返ることなく校舎の向こう側へと姿を消した。
「ったく、もう……」と独り言のように悔やみ、「大丈夫?」と三城楓は手を伸ばした。響弥はその手を取らずに、
「ホームルームが終わって駆けつけてきたの?」
「う、うん。なんかやばそうな雰囲気で連れて行かれたって聞いて……それが神永かもしれないって聞いて……」
「ふーん。かもしれない、ねぇ……」
そう言って薄ら笑いを浮かべた。――かもしれないじゃなくて、確信してやって来たんだろう?
三城は手持ち無沙汰で伸ばした手をぎゅっと丸める。
「け、怪我してるよ。保健室、行ったほうがいいんじゃない? ほら――」軽やかに立ち上がり、「立てる?」と手を差し伸べる。
響弥は表情を変えずにその手を見つめたが、頼ることなく自力で腰を上げた。
「三城ってさ、あいつらと仲いいじゃん。早く行けば?」
「は……? なんであたしが……」
戸惑う三城に、けれども響弥は降りかかった埃を払うみたいにあしらう。
「俺はいいよ、どうなっても。でもさ、彼女を巻き込むのはやめてくんねえかな」
委員会のあった日の放課後、芽亜凛の様子がおかしかったのは、E組でハプニングがあったからである。それも響弥を疑うレベルの、悪質なもの。それは響弥自身も、察しが付いていたことである。
傷心気味の芽亜凛を問い詰める気はないが、彼女に関わる人間を知っておく必要ができてしまった今、響弥はカースト上位の女子の仕業ではないかと予想を立てていた。
そのなかに、三城楓がいた。今回の件は特にそうである。三城楓による自作自演か、その周辺が怪しいと響弥は考える――
「ちょ、ちょっと待ってよ。それどういう意味?」
「どういうも何も」
「あたしが指示したって言いたいの?」
三城は傷付いたようにくしゃりと表情を潰し、力なく首を振った。あたしじゃない……と否定するよりも、響弥に疑われたことに酷くショックを受けているようだった。でなければ早急に『どうして? いったい何の目的で?』と反論が返ってくるだろうに。だがその反応の鈍さが、響弥には図星のように見えてしまう。
「とにかく、俺と関わると怪我するから、ね?」
「かっこつけないでよ、馬鹿」
三城は寒くもないのに両腕を抱いてうつむく。その場から動きそうもなく、こっちが先に去るしかなさそうだった。
遠くを眺めて、響弥はようやく気がついた。校舎の影から半身を出し、こちらを窺っている――芽亜凛がいることに。
「芽亜凛ちゃん!」
数年ぶりに再会したような心地で叫んで、響弥は彼女の元へと駆け寄った。憂いを帯びた芽亜凛の瞳が、伏せがちでも強い輝きを宿すアメジストの瞳が、響弥を見つめ返した。
「もしかしてかっこ悪いとこ見られてた?」
へへっと笑う響弥から視線を外し、芽亜凛はその背後を見やった。
「三城さんのこと、いいんですか?」
「いいって何が?」
「だって、あの、助けてくれたのに……」
響弥は助けられたとは思っていない。神永響弥を守ってくれるのは、この世でふたりだけ。望月渉と、茉結華だけである。
響弥は芽亜凛の顔をじっと見つめた。こっちを向いて。俺だけ見ていて。そう伝えるのは芸がないから、だから黙って見続ける。
視線に気づいた芽亜凛が口を開く前に、神永響弥は微笑んだ。
「俺が好きなのは芽亜凛ちゃんだよ」
――芽亜凛ちゃんが知らない以上に、芽亜凛ちゃんのことが好きだよ。悩ましげに揺れる大きな瞳も、何を言うかとドキドキさせてくれる唇も。梅雨空の下でもまばゆい白い肌も、頑なに触れようとしない手も、細い指先も、上品に並ぶ脚も姿勢も、風にたゆたう絹のような長い髪も。そばにいると鼻をくすぐる、果実みたいな甘い香りも。小鳥が唄うような、透き通った声も。全部好きだよ。
三城楓でもほかの誰でもない。響弥が望むのは、橘芽亜凛だ。
「さあーて、帰ろっか。鞄置きっぱなしだ」
あはは、と歯を見せて笑うと、宮部に殴られた頬が悲鳴を上げた。いててて、と頬を押さえると、芽亜凛が心配そうに手を伸ばして――胸の前まで引っ込めた。
「あ、あの……肩くらい貸しましょうか」
響弥は首を左右に振る。
「いいよ、無理しないで。まだ俺と……手繋ぐのも嫌でしょ」
こういうのを謙遜と言うのだろうか。芽亜凛を思って言った、響弥の本音である。
芽亜凛は、胸に滞在させていた片手を開いて、
「手くらい、つっ、繋げます」と、響弥の手を勢いよく取った。
響弥は思わず硬直した。自分よりも低い芽亜凛の体温が、繋ぎ目を通して流れ込む。一方的に握り取られる不格好な手繋ぎ――
「おう……嬉しい」
顔が強張ってうまく笑えないなか、響弥は押し付けるように自分の手のひらを動かした。びくりと跳ねた芽亜凛の手の甲に、素早く親指を回して逃さないようにする。
ちらりと視線を上げて、芽亜凛を見た。その頬は心なしか赤くなっているような気がする。自分もたぶん、きっとおんなじだろうなと響弥は思った。
「校舎のなかじゃ繋ぎませんからね」
「うん……うん、わかった!」
ふたりは手を繋いだまま、その場を後にする。三城楓が見ていることなど、すでに頭のなかにはなかった。
もう離したくない。一生繋いでいたい、と思いながら、響弥は指先に力を入れた。
――全部好きだよ、芽亜凛ちゃん。ちょっぴりミステリアスなところも、厳しいところも、勇気があるところも、甘いものが好きなところも、男子に怯えちゃうところも、好きでもないのに付き合っちゃうところも、主導権を握ってるのは自分だと思ってるところも、そうやってすぐに疑っちゃうところも。
――全部好きだよ。響弥も、私もね。
* * *
その夕方、芽亜凛のスマホにニュースメールが届いた。正午に判明したニュースが、遅れて記事になったのだ。
見出しは、『男性教師が遺体となって発見された』
事故車両のなかで見つかったというその人は、日龍高校に勤める教師――戸川
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