不安の音色
放課後、C組前で響弥と合流し、芽亜凛は廊下をとぼとぼと歩いていた。
響弥と並んで歩くとき、彼は芽亜凛の足取りに合わせてペースを変えているように見える。普段の活発さからして、そういう配慮ができるのは少し意外だと思えた。
「委員会どうだった? 渉と話した?」
芽亜凛は頭を振って否定した。後に続く言葉はない。
響弥は瞬きを二度して、視線を宙に投げ出した。大振りに首を縦に動かし、切り替えたみたいに声を弾ませる。
「まあ渉も人見知りだしな。俺としちゃあ、いつか渉と凛ちゃんとダブルデートしたいなぁ、なんて」
へへっと笑って芽亜凛を見る。だが、芽亜凛の意識は別事にあった。
「……あの、」
「んっ?」響弥は素早く反応する。
「委員会がはじまる前、E組を訪ねました?」
「ううん、行ってないよ」
「詳細を伺ってもいいですか?」
「えーっと」響弥は斜め上に頭を傾けて、「六時間目が移動教室で、俺そのまま三年のほうに行ったから……うん、その後も行ってないな」と記憶を探って答えた。
「……そうですか。そうですよね……」
ごめんなさい、と言いそうになって、芽亜凛は唇をきゅっと閉ざした。
――あの眼鏡ケースを仕込んだのは、彼じゃない。最初から違うと予感はしていたけれど、確信が持てずに聞いてしまった。
響弥を疑ってしまうのは仕方のないことだとしても、罪悪感が完璧にないわけじゃなかった。約束を守ってくれている今、すべて決めつけて彼のせいにするのは、いささか良心が痛むというものだ。
「何か、気になることでもあった?」
「……ううん、なんでもないです、なんでも……」
「そう……」
ふたりの間に、珍しく沈黙が落ちる。いつもは一方的に喋り続ける響弥だが、何か言いたそうに口をもごつかせるだけで、追及しようとはしなかった。
芽亜凛も話す気はなかった。響弥に相談しようとは思わなかった。
恋人で、殺人鬼で、歪な契約関係を結ぶ彼に、悩み事を打ち明けるなんて、やすやすと弱みを晒すようなものだ。話せるはずがない。
(――あれが誰かからの『嫌がらせ』だとしたら)
芽亜凛は昇降口で靴を履き替えるさなか、対処法に思考を巡らせた。
正常な学生なら、親や教師に相談するのだろうか。友人や恋人を頼るのだろうか。芽亜凛には、そのどれもできない。
無理を言って転校の許可をいただいた両親に、悩みを話すことは論外だ。友人――凛に迷惑をかけるわけには行かない。響弥に話すのも無理。先生は――石橋先生は――
「ねえ芽亜凛ちゃん、お腹空いてなーい? 何か食べて帰りませーんか」
ロッカーの影から顔を出した響弥に思考を遮られる。芽亜凛は軽くなった瞼をしばたたかせて、その顔を見た。言葉に反して下心は感じられず、響弥は子供のように純粋な、期待を含んだ丸い目を向けていた。
「いえ、帰ります。持ち合わせもないし……」
もちろん言い逃れるための嘘だ。しかし
「そっか、割り勘派って言ってたもんね。今日のところは俺が奢るから、もしそれで芽亜凛ちゃんが気になるなら、後で返してくれればいいよ――ってのはどう?」
「……今日は帰りも遅いから」
「お、送ってく! それか――」響弥は周囲に目をやりながら早足で歩み寄り、手のひらを口元に寄せ、「また泊まってってもいいし」
「……スケベな人」
「ちちちちが違うからね!? 指一本触れない、約束する!」
「…………」
芽亜凛は腕を組んで考え込む素振りをした。自分の身を案じてではない、それはこないだ一泊したときに証明済みである。
芽亜凛が思ったのは、響弥の好物を知らない、という点だった。焼きそばパン以外に浮かぶものがない。それに一番気になるのは――味の好みは、茉結華と同じか、違うのか。
輸血をすると人格や好みが変わると言うが、解離性同一性障害もそうなんじゃないか、と芽亜凛は考える。もしかしたら、ふたりと食を交わすことで発覚する何かがあるかもしれない。
「お茶くらいなら、いいですよ」
芽亜凛が考え考え言うと、気まずそうに鼻を掻いていた響弥の顔色がパッと明るくなる。
「や、やったーっ! で、デート……超嬉しい」
「別にデートじゃないでしょう。それと、持ち合わせがないというのは嘘ですから」
「嘘かよ! 別にいいけどぉ!」
響弥は嬉しさが抑えきれないようで、顔をふにゃふにゃと綻ばせる。素直な人。少しは隠そうとしないのか――そう思うと、芽亜凛の口角が自然と緩んだ。響弥の笑みがはたと消える。
「わ……わ……わら……っ」
「はい?」
「た、あ、なんでもない!」
なんでもないです! と繰り返して、響弥は再び砕けた笑みを浮かべるのだった。
雨の日の響弥はお決まりのように相合い傘を誘ってくる。今日は帰りまで曇り空が継続したため、彼の傘はお役御免だ。元より芽亜凛は常に折り畳み傘を鞄に入れているので、彼の野望が叶う日は遠い先のことなのだろうけれど。
芽亜凛と響弥は、バス停から外れた路地にあるカフェへと向かうことになった。密かに女性人気のある、レトロな外観の喫茶店である。道案内するのは芽亜凛だ。この店を選んだ理由は、藤北の生徒と出くわさないようにするため――今まで学生の姿は一度も見たことがないし、今日は時間帯も遅めなので帰宅部も立ち寄らないはずだ。
「お店詳しいんだね」
「引っ越してしばらくはお店巡りに勤しんでいたので、この辺りのおいしいお店は網羅してますよ」
「へえー。何が好きなの? ケーキ?」
「……スイーツ巡りです」
響弥は意外そうな顔をした。
「芽亜凛ちゃんって甘党なんだ」
「何か文句でも?」
「ううん全然! むしろ、可愛いっです」
小馬鹿にされたと感じて芽亜凛はムスッとしたが、いいタイミングだとも思った。「あなたは好きなものないんですか?」
響弥は「俺?」と自分を指差す。
「俺はねぇ――」
「メアか?」
滑り込むようにして耳を打ったのは、背後からした別の声。
芽亜凛は目を見開いた。恐る恐る振り返った。
「お、やっぱり、メアじゃないか。久しぶり」
見るからに筋肉質で、パツパツのジャージを上下に着た大柄の男が、大きな手をゆらゆらと揺らした。腕まくりをした袖口からは、大根のような太い腕が覗いている。
「知り合い?」と響弥は小さく尋ねる。芽亜凛は答えられずに、ただ瞳を震わせる。
――どうして……どうしてここにいる?
男は豪快に笑った。「挨拶もなしか」と両手を広げ、悠々とふたりに近づく。否、男の目には芽亜凛しか見えていないように見えた。
硬直する芽亜凛の前に響弥が一歩踏み出る。
「おっさん誰っすか?」
自分より十センチ以上背のある大男を見上げ、男もまたゆるりと視線を動かし響弥を見下ろした。顔に、不気味な笑みを貼り付けて。
「僕は
「えっ、それ自分で言うの? ウケるー」
響弥は肩をすくめてくつくつと笑った。戸川は、斜め後ろに佇む芽亜凛に視線を移す。
「男ができたのか。こんなガラの悪い生徒をか。メアらしくないな、いったいどうしたんだ? 髪も下ろして……」
戸川は芽亜凛にぬっと手を伸ばし、空中でビタリと静止させた。触れようと伸ばした太い手首を、「おっさん」と響弥ががしりと掴み取ったのだ。
「彼女俺のなので」
言うが遅いか、ふっと風を切る音がした。響弥の身体が瞬間的に吹き飛んだ。背中を電柱に叩きつけられ、放置されたままの工事看板の上に崩れれば、メキメキと音を立てて壊れる。芽亜凛はハッと身を強張らせた。
「藤北の生徒は口の利き方もなってないのか? あぁ?」
戸川は、無防備な響弥の腹や胸を踏み付けた。化石並の足跡がいくつも付着し、学生服がたちまちのうちに白くなる。芽亜凛はぶるぶると震えた。
「や――やめてください……!」
「くそ、くそ! ピアスなんかしやがって、お前みたいな弱いガキほど偉ぶるんだ!」
「やめて!」
芽亜凛は響弥を庇って飛び出す。戸川は振り下ろしかけた足をすんでのところで止めて、舌打ちを鳴らした。
「こんな弱い奴が好きなのか。ええ? 呆れたものだ。素行不良の落ちこぼれじゃないか」
芽亜凛は土埃で汚れた響弥の顔を覗き込んだ。響弥は頭を垂らしたまま動かない。
「メア、お前も馬鹿だよ。僕の元にいればよかったものを。いいか、こっちの転校生はな、なかなか優秀な生徒だぞ。とても元藤北の生徒には思えない、逸材だ。全国優勝は固いだろうな」
芽亜凛はハンカチを取り出し、響弥の顔や首を拭った。汚れだけで傷はない。見える場所に暴力は振るわれていないという証拠だ。戸川め――醜く稚拙で卑怯な男である。
「それに比べてそのガキは駄目だ。みてくれだけで中身がない。弟とそっくりだ」
やれやれ、と。誰にでもなく自分語りを続ける。すると芽亜凛の視界のなかで、響弥の口元がにやりと歪み、「キヒッ――」白い歯が見えた。
「戸川せんせー、兄弟いるんだ?」
「ああ。出来の悪い弟が一人な」
響弥は肩を微震させる。こらえきれず、くくくと笑い出した。戸川は問う。「何がおかしい」
「弱くて、中身がなくて、出来の悪い弟? あんたも大概だよ」
「何だと」
「もうやめてください!」
一歩踏み出しかけた戸川を振り返り、芽亜凛はスマホを出して威嚇する。「……警察呼びますよ?」
戸川は唇を引きつらせ、ふんっと鼻を鳴らした。芽亜凛の言うことなど、痛くも痒くもないみたいだった。
「まあいい、僕も鬼じゃないからな。今日はこれくらいにしておくよ。次に会うときが楽しみだな、メア」
戸川はにんまりと剥き出しの笑みを――仮面を――貼り付けて、回れ右して去っていった。まるで狙って会いに来たみたいな言い草だったが、最初の様子からしてそうではない。ただの脅し文句。彼は本当に、見かけたから話しかけに来ただけなのだ。お気に入りの元生徒が、自分以外の男と並んでいたから――
芽亜凛はため息をついた。
「大丈夫ですか?」
「うん。全然平気。ごめんね……俺、何もできなかった」
芽亜凛は、ううん、と否定した。
「手を出さなくて正解です。私のほうこそ、ごめんなさい」
「芽亜凛ちゃんが謝ることないよ」
響弥が立ち上がろうとするので、芽亜凛は慌てて手を伸ばし、支え合うようにして腰を上げた。響弥の学ランは白く汚れ、芽亜凛のスカートにも砂埃が付いている。響弥は足跡を払うさなか、痛みに耐えるように顔を歪めた。
喧騒に気づく者はいても、みな路地を横目に素通りしていく。助けに来てくれる者はいない。けれど悲しむどころか、芽亜凛は胸を撫で下ろしていた。響弥が何もしなくてよかった。
「あいつ、どこ
「……日龍です」
「ニチリュー……って、強豪校じゃん! 芽亜凛ちゃん、選手だったってこと?」
響弥は驚愕をあらわにした。
「はい……私は、水泳の」
芽亜凛はスカートの汚れを払いながら答えた。響弥は「水泳かぁ」とどこか遠くでぼやき、
「ん? 水泳……? って、藤北にはないよね、よかったの?」
「はい、だから来たんです」
響弥は芽亜凛の顔つきを察して頷いた。なるほどねぇ、と。
「部活入らないのはそのせい?」
それは違う。今は、響弥に合わせて入っていないだけで、それまでは凛のそばにいたくて柔道部のマネージャーを選んできた。自分は主役で動くよりも、誰かのサポートに徹したほうが似合う。芽亜凛はそう思っている。
「さっきの奴、すっげえ馴れ馴れしかったね。暴力教師っつーか……」
「……ですね」
戸川こそが、芽亜凛が転校するまでに至った要因。口先だけの熱血漢。生徒の名前を略して呼ぶ、不愉快極まりない教師。
芽亜凛が石橋先生のことを頼れないでいるのも、前の学校で負った傷が癒えていないからだった。
ネコメ刑事が恩師と称していた、E組の担任――石橋
まさかこんなところで、教師を信じられなくなった原因と出くわすなんて。
「帰りましょう。今日はもう、ゆっくり休んでください」
「俺平気だよ?」
「私は平気じゃありません」
疲れた顔で言うと、響弥は「……うん、わかった」と納得してくれた。
そうして、元来た道を戻ろうと歩を進めた矢先、芽亜凛は響弥の袖を指先でぎゅいと摘んだ。ん? と見やる響弥に芽亜凛は訴えかける。
「殺しちゃ、駄目ですからね」
「へ?」
響弥はぽかんと口を開いた。
「戸川先生のこと、殺しちゃ駄目ですよ」
芽亜凛は再度はっきり告げる。つい身元を教えてしまったけれど、彼だって人間だ。殺されていいはずがない。――いや、あんな奴、殺す価値もない。
響弥はやるせなさそうに微笑んだ。
「大丈夫。俺はしないよ、絶対に」
* * *
その日の夕方、響弥と別れた後も芽亜凛の不安は続いていた。
響弥はああ言っていたけれど、今までの傾向からして容易く信じられるものではない。
居場所を突き止めて殺しに行くことはないだろうか? 凛に無関係の人間だとしても、自分に楯突いた者を、彼は野放しにするだろうか――
夜八時を回った頃、芽亜凛はスマホの通話ボタンをタップした。三度コールが鳴った後、相手と繋がる。むろん響弥である。けれど、
「あの、もしもし――」こんばんは、と言いかけた声を遮り返ってきたのは、響弥だけれど違っている、彼とおんなじ声だった。
『響弥じゃないよ。こんばんは芽亜凛ちゃん』
茉結華の声だ。響弥よりも落ち着いた雰囲気のある声色に、電話越しでも違いが出ている。
「……こんばんは」
予想外の相手に動揺を悟られないよう、普段と変わらぬ調子で返したつもりだった。
茉結華と話をするのは実に初日ぶりのことである。彼と会ったら聞きたいことが山ほどあったのに、芽亜凛はすぐに切り出せない。
受話器に耳を傾けると、車がすれ違うような音が聞こえてきた。思い切って問いかける。「今、外ですか?」
茉結華は『うん』と肯定した。
『コンビニの帰り。何か用だった?』
「……いえ、特には」
茉結華はくすくすと笑った。正直者だと思われたのかもしれない。
『夜の電話ってさ、ドキドキしちゃうね。なんか、恋人同士みたいで』
「恋人同士でしょう?」
ぶすりと茉結華に釘を刺すと、ふっと小さく笑うのが聞こえた。響弥なら照れて恥ずかしがるところを、茉結華は軽く受け流す。次の瞬間には、よく言うよ、と嘲笑われそうな雰囲気さえ感じた。
『あ、ごめん。ちょっと場所変えないとね』
急にそう言う茉結華を不思議に思うや否や、救急車の音が遠くのほうから――こちらに近づいて大きくなる。
(救急車……?)
ドクンと鼓動が揺さぶられた。不安が一気に募るように、腹の底が重くなる。
考えすぎ、だろうか。戸川とのことがあったから、まさかもう殺しに向かったんじゃないか――なんて……。
救急車なんて、毎日どこかで走っているというのに。茉結華とのBGMにはあまりにも分相応で、不安が駆り立てられる。
『芽亜凛ちゃん、聞こえてる?』
「――あ、ああ……はい」
しばらく無言を貫いてしまっていた。思考がうまく回っていない気がする。茉結華自身を問う前に、今日のことを心配するのがベストじゃないだろうか。身体の調子はどうですか、とか。よし、これにしよう、と芽亜凛は思った。
しかし口を開く前に、部屋のインターホンが音色を奏でる。
「ごめんなさい、誰か来たみたいなので……もう切ります」
『えっ、もう?』
「ごめんなさい、おやすみなさい」
茉結華の返事も聞かずに電話を切る。どっと息を吐いて、座椅子から立ち上がる。本当は後でかけ直すこともできただろうけれど、考えがまとまらないなかで茉結華の相手をするのは、とてもじゃないけど体力が足りない。
「緊張した……」
芽亜凛は呟き、モニターへと歩み寄った。外を映す画面は、真っ暗だった。芽亜凛はぱちぱちと瞬きを繰り返す。――真っ暗?
まるで、壊れてしまったかのような暗さである。いくら夜間だとしても、こんなに暗くなるものだろうか?
玄関に向かう途中で、もう一度インターホンが鳴った。
芽亜凛はドアスコープを覗き込んだ。――おんなじように、真っ暗だった。
何も見えない。光も、景色も、人の影も。すべてが黒一色で塗り潰されてしまっている。暗色が、モニター越しにもドアスコープ越しにも広がっていた。
芽亜凛はドアにチェーンを取り付けて、そっと玄関の扉を開けた。隙間から確認できるのは、誰もいない部屋の前、通路、アパートの手すり。
芽亜凛は意を決して、音を立てぬようにチェーンを外し、顔だけ外へと出した。インターホンのカメラを見て、ぎょっとする。首をひねり、ドアスコープを見ると、同じものが目に飛び込んできた。
色をなくすほど噛み潰されたガムが、べったりと貼り付けられている。芽亜凛は玄関扉を勢いよく閉めた。鍵をかけて、チェーンを付けた。
ざらざらと粟立つ腕を抱き締めながら後退し、段差に尻餅をつき、手の内のスマホを――通話の切れた画面のそれを――強く握り締める。
茉結華と交わした通話機が、今この場で頼れる唯一の代物のように見えた。
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