きみを呼ぶ、くぐもった声

 図書室を出て昇降口へと向かう間、渉と凛も、凛と芽亜凛も各自言葉を交わすことはなかった。靴箱に手をかけて、ようやく凛が芽亜凛を呼ぶ。沈黙がもどかしくて、タイミングを図っていたのだろうと渉は思った。


「芽亜凛ちゃん、勉強はかどった?」

「…………うん、まあまあ」

「う、うるさくなかった? 私たち」

「別に気にしてないわ」

「そ、そっか……」


 辿々しい二人の会話を耳にしながら、渉は靴を履き替える。むろん、介入することはない。

 今までの芽亜凛を見てきたから――渉にはわかる。彼女はほかの生徒や男子が周りにいようと、凛とは楽しそうに話していた。凛とだけは、嘘偽りなく接していた。

 だから気まずそうな理由に、少なくとも渉は無関係。理由はほかにあり、それは凛と芽亜凛二人の問題だ。


「それじゃあ、また明日ね。凛もテスト勉強と、調べ物……頑張って」


 別れる手前、そう言い残して、芽亜凛は昇降口を先に出ていった。彼女の後ろ姿を見つめる凛は、難しい笑みを浮かべていた。




 凛は徒歩で、渉は自転車通学。今年の梅雨明けは七月の中旬頃とされているが、今日の天気は晴れ。にわか雨が通ることもなく、外は夏らしい青空が広がっていた。

 駐輪場に残っている自転車は少なくて、遠目からでも自分の愛車が確認できる程度に空いている。「よし。行くか」鍵を外して、スタンドを蹴った。


 自転車を引いて、凛と並んで歩く。凛の顔を窺ってみるも、口を開きそうな様子ではなく、話すかどうかためらっているようにさえ見えた。


「橘と何かあった?」


 渉は先手で声をかけた。凛は神妙な面持ちで渉を見る。


「何もないよ、ただ……」

「ただ?」

「先週……芽亜凛ちゃんに言われたんだ」


 凛は遠い目をして前方を見た。元気は余っていないが、落ち込んでいるふうではない。

 先週と言えば小坂めぐみの件で奮闘していたときだ。渉は「なんて?」と先を促す。


「私から離れても構わないって――すごく、寂しそうに言ってたんだ」

 思わず眉をひそめて聞き返す。「離れてもって、どういう……」


 あれだけ凛に執着していた芽亜凛が、そんな自虐的なことを言うなんて。どういう風の吹き回しだ。


「たぶん、小坂さんのこと……芽亜凛ちゃんは自分のせいだと思ってる」

「なんで橘が?」

「無断欠席だったこと気にしてたみたいだし、事件のことだって……こうなること予想してたんだと思う」


 話していたのは彼女らが二人きりで図書室にいたあの日だと、渉は察した。小坂めぐみが無断欠席した初日で。そして遺体が見つかったのが、その翌日。


「別に彼女は、何もしてないだろ――」

「してないよ」


 凛は間髪入れずに断言する。


「だけど休みを明けて、何だか気まずくなっちゃって……。芽亜凛ちゃんのこと信じてるって言ったのに……私、最低だよね」

「…………」


 幼馴染の独白に、渉は何も言えない。返す言葉がない。

 何を言ったところで、自分に説得力など皆無だ。散々彼女を疑い、今もその気持ちは払拭されていないのだから。励ましにもならない。

 横断歩道で立ち止まった凛が言う。


「今はとにかく、やれることやっていかないとね。自分たちに何ができるか、考えないと」

「そうだな……」

「明日は響弥くんも呼ぶ? 前もって言っとけば、響弥くんきっと来てくれるよ」

「ああ、メールだけしとくよ」


 ファイルの数は二十近くあった。大勢で調べたほうが、事はスムーズに進む。その上響弥は、寺の息子。渉や凛よりはこういうことには詳しいはずだ。

 とは言え、響弥と芽亜凛を鉢合わせにするわけにはいかないので、彼女がまた図書室にいようものなら、そのときは退散するしかないだろうけれど。


 信号待ちをしている間に、渉はスマホを操作する。『明日の放課後、図書室に行かないか?』と打ち、響弥に送信した。

 当時の新聞記事は貴重な材料だ。一目でわかる切り抜きなんかは特にありがたい。いったい誰が集めたのか知らないが、二年E組の生徒としては事件を知る権利がある。今の御時世、インターネットという便利なツールもあるのだ。家に帰ってからも調べたい。


「気になってることでもあるの?」

「ん――え?」


 信号が青になったところで凛が言った。


「渉くん、さっきから考え事してる。うずうずしてるでしょ? もしかして呪い人のこと?」


 渉は苦笑した。

 ――どうしてこの幼馴染には、言わずとも伝わってしまうのか。

 凛が首を傾けるので、渉は『うんうん、そのとおりだよ』という意味で首を縦に振った。一拍置いて、口を開く。


「本当に当時は大ごとになってたんだなって思ってさ。呪いとか伝承だって言われるのも、納得した。けど、急になくなったってのがどうも……」

「……そしてまた、それっぽいのが起きてる。なくなった理由さえわかれば、対処できるかもしれないのに」

「なくなった理由か……」


 横断歩道を渡りきって木陰に出ると、夏の暑さも幾分か和らいだ。

 渉は遠慮がちに、


「気になってるのは――それじゃなくてさ」


 そう言って凛を見ると、ばちりと視線が絡んだ。聞きたそうにしているのが手に取るように伝わり、渉は促されるまま続ける。


「二〇一三年、教師が自殺しただろ? あれが妙っていうか……」

「妙……自殺じゃなくて、それすら呪いだったとか?」

「んー、うまく言えないけど、あの教師がいなくなってから、藤北に関する記事はぱったりなくなった――なんつーか、まるで教師が全部仕組んでた、ような……?」


 渉が考えるのはあくまで人の手による災い。その線がぶれることは今のところないに等しい。

 一方凛は、オカルトともオカルトもどきとも選びきれない様子で、訝しげに目を細めた。


「その教師がいつ藤北に来たのかにもよるけど、だとしてもおかしいよ。仮にやばい教師だったとして、生徒はみんな――みんな……」


 そこまで言って、違和感を感じ取ったようだ。渉は頷き答える。


「死んでない。だけど、不審な怪我は負ってる」

「軽くなってる……?」


 うん、と返した。

 災いが起きなくなったのは、二〇〇九年から。しかしなくなったのはであり、藤北の生徒が。原因については――例えば事故ならそうだと明確に書かれているはずだ。だが――何も書かれていなかった。

 凛は調べた記事を思い出しつつ呟く。


「死亡事件が続いて、その後二〇〇九年からは重軽傷者がちらほら……。そして二〇一三年の教師自殺を境に、大きな出来事はなくなった。うん、確かに妙かも。……何か対抗策ができたのかな」


(対抗策ねぇ……)


 渉は眉を歪めた。


「オカルトに対する策か?」

「えっ違うの?」


 凛の素直な反応に渉は『ううむ』と唸った。まさかお祓い――なんて。響弥と同じことを言い出すんじゃないだろうな。


「俺が思うに、二〇〇九年が鍵なんじゃないかな。はじめての死亡者ゼロ……その年の二年生は三年生になって、その対処方法を次の二年生に教える。それが二〇一三年まで続いた」

「それがオカルトじゃなくて……殺人教師に対する策とでも言いたいわけぇ?」

「オカルトなんてありえない」


 そもそも毎年のように新聞記事に載るほうが異常なのだ。つまり二〇一四年以降からが、本当の平穏と呼べる。

 ――たったの五年間だ。それより前は全部、意図的に造られた騒動?

 事件の裏に何があったのか――卒業生に話が聞ければいいのだが、あいにくそんな知り合いはいない。


「明日はもっと前まで調べてみないとな」


 今はオカルトの有無を協議するより、原因と対策を探る。事件を探って、知っていく――それしかない。

 凛は「そうだね」と同意した。


「お昼うちで食べる? 素麺あるよ」

「おー、じゃあ寄ってく……」

「ワタルクン」

「――っ!」


 ビクリと身体を震わせた。

 足を止め、背後を振り返る。電柱、塀、木の後ろ――素早く眼球を動かしてみるも、人の姿はない。


(い、今、確かに……)


 渉の鼓膜を撫でたのは、低くくぐもった、男の声だった。


「渉くん……?」

「……凛、……今、呼んだか?」


 小柄な幼馴染は目をぱちくりさせ、


「よ、呼んだじゃん……」

「いや、そうじゃ、なくて……」

「大丈夫?」

「うん……」渉は弱々しく返事をする。


 辺りは自分と凛以外、誰もいない。気のせい、気のせい、気のせいだ……。だけどはっきりと聞こえた幻聴に、両腕はわかりやすく粟立っていた。

『渉くんに会いたい』

 あのメッセージのせいだ。


「……あ、あのさ」


 渉は嘆息して問う。


「変なこと訊くけど……凛の周りで俺のこと、くん付けしてる奴っている? 下の、名前のほうで」

「渉くんってこと?」

「うん。凛とちーちゃんしか浮かばなくて――」


 口を滑らせ、ハッと凛を見た。凛はじっと渉を射抜き、しかし別段気にしていない様子で、


「いないよ」

「お、おお、そっか……」


 まだ行方不明の、ちーちゃん――千里のことを言うべきではなかったかと、焦った。


「変なこと訊いて、悪い」


 渉はすぐに視線を外したが、凛はしばらく横目で窺っていた。あのメッセージのことは凛に隠したままである。余計な心配はかけまいと黙っているが、明かしたところでどう解決すべきかわからない。

 渉は唇を噛んだ。――夏はこれからだってのに、こんなことで悩まされてたまるか。

 こんなとき、あの秀才がいれば、頼ってみたかったと。青々しい空を見上げた。


 幼馴染の家に着くまでの間、二人はそれまでの出来事を忘れるくらい他愛もない話をした。将来のことや、警察官になったらしたいこと。

 凛は助けたい人がいるらしい。それはいったい誰なのだろうと、渉は密かに思いを馳せる。

 時折背後を気にしたけれど、自分たち以外、気配さえなかった。二人の話し声しかない、不気味なほど静かな帰り道。

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