第二話

気持ち悪いね

 目を開けると、変わらぬ天井が視界に広がった。木製の天井。薄暗い和室。肌で感じる空気も、何ひとつ変わらない。自分のいるべきところじゃない、安心感ゼロの部屋のままだ。


「う……うぅ……あーっ……」


 床で仰向けになっていたわたるは、呻きながら咳き込んだ。重い頭を起こして辺りを見る。居れば早急に声をかけてくるはずの茉結華まゆかの姿は見当たらない。ルイスもいないため、一人きりだ。

 ようやく訪れた孤独に安堵して、渉は再び後頭部を床に預けた。ふうーっ……と長い息を吐き、状態の整理を行う。


 拘束された腕はまた後ろへと回されていた。そのせいで腕の付け根辺りがミシミシと痛み、両手はじんわりと痺れている。まるで時が戻ったかのようなデジャヴに瞳を閉じた。

 茉結華もルイスもいないなら、パソコンの操作ができるかもしれない。そう思いたいところだが、しかし今の渉にそんな余裕はなかった。


(……やばい、吐く……)


 頭が痛い。身体が軋む。気持ちが悪い。

 異変を感じたのは目覚めてすぐだ。これまでにないほどの吐き気が喉元まで押し寄せている。このままでは間違いなく嘔吐する。そう確信できるほどの強い吐き気だ。


「くそ……っ」


 悪態をつき、固まった身を左右によじる。腕を前に回すことは最低限の行いだ。そうしないことにははじまらない。

 下半身を持ち上げて腕のなかに通した。そのあとは膝を深く曲げて、昨日と同じ動作をする。こうしている間も、喉元は悲鳴を上げていた。吐きたい、吐き出してしまいたいと叫んでいる。


 もたつきながらも一連の動作が終了し、渉は手を付いて身を起こした。唾液か何かを飲み込んで、ゆっくりと呼吸を繰り返す。姿勢を変えても、吐き気は治まることを知らない。

 身体に負担をかけまいと意識を集中させて、トイレの引き戸へと膝歩きで向かった。拘束された両手で明かりを点けて戸を開ける。便器に頭を垂れるとすぐに胃液が込み上げてきた。

 キュルル……と水分の逆流する音が喉から漏れて、唾液混じりの吐瀉物がボタボタとこぼれ落ちた。


「うぅ……う……くっ、そ」


 うなだれながら呼吸を整えるも、再びむかつきが生じて嘔吐を繰り返す。汗と涙も、吐瀉物に混ざって便器のなかに落ちていった。

 日常生活はおろか、風邪を引いても嘔吐することはないのに。それなのにこの急激な吐き気である。自分の身に何か起きているのは明白であった。


 最後のほうは空嘔となり、呼吸はやがて落ち着きを取り戻す。乾燥と胃液で荒れた喉がヒリヒリと痛んだ。気分は依然優れないが、吐き気についてはもう大丈夫だと判断する。

 渉は一度水を流してから用を足して、トイレから逃げるようにして出た。部屋は明るくなっていて、部屋の中心に白い髪の後ろ姿があった。


「あ、渉くんおはよう」


 こちらを向いたその顔には、なぜかまた『百井ももいりん』のお面が。手にはペットボトルを持っていて、傍らにはプラスチックの箱が置いてある。部屋の照明を点けたのは彼、茉結華自身だろう。


「き、昨日……っ」と、渉は自分で発した掠れ声に思わず口ごもった。


「まずはお水、飲んだら?」

「昨日、あの後……俺に、何をした」


 ペットボトルを掲げた茉結華を無視して疑問を口にする。

 茉結華はその手を緩く下ろして、「悪いことじゃないよ」と答えた。お面の向こう側は仄かに笑っているようだった。

 妙な薬品を嗅がされて、気絶させられ、それだけでも十分悪行だと言うのに、何が悪いことじゃないだ。渉は眉根を寄せた。


「……下着が変わってた」


 先ほどトイレで確認したことだ。学生服やカッターシャツ、肌着の変化はわからないが、下着は昨日と違っていた。嫌でも目に入ってしまうことである。

 茉結華は肩をすくめた。


「そりゃあ誰かが替えないと……」

「何をしたのか答えろよ」

「気持ちいいことだよ。悪いことじゃないって」


 信憑性の欠片もない言葉に、渉はぎりと歯噛みした。疲れ切った肉体じゃ怒る気も湧かず、ただ呆れたように彼を見据える。


「お前は……眠っている間に身体をいじくられて……それで、どういう気分になる?」

「へ? ……ああー……」


 茉結華は天を仰ぎ考える素振りを見せると、こくりと頷き言った。


「気持ち悪いね」


 ――考えるまでもないことだ。

 はあ、と渉は落胆し、拘束状態でも楽だと感じた体育座りを取った。体内時計を信じるなら、今は深夜のはずである。嘔吐したせいだろうか、疲労感は消えそうにない。


「ほーら渉くん、お水お水。新しいよ?」


 茉結華は顔が見えずとも元気そうである。渉のそばに寄って、視界に入るようにペットボトルを提示する。


「…………」


 奪い取って飲みたいくらいに喉は渇いているが、信用できない代物を含もうとは思わない。飲むか飲まないかではなく、飲めないし飲まない。

 茉結華はストローキャップをポンと開けた。渉は音に釣られて顔を上げる。

 見ると茉結華は、お面を顔の横に付けて、ストローを口に咥えていた。


「うん、冷たくはないけど、ただの水。はい」


 そう言って笑い掛けて、ペットボトルを差し出した。渉はからからの唾を飲み、ちろちろと目を泳がせる。


(本当に、ただの水……?)


 中身は、確かに少し減っているようだ。それを目視で確認して、渉はペットボトルを受け取った。ストローを口にする前に目線を上げる。目が合った茉結華はにこーっと胡散臭く微笑んだ。

 こうなればやむなしだ。渉は恐る恐るとストローに口を付けて、ちゅっ……と一口吸った。口内に広がったのは無味の液体。喉を潤し、胃のなかへと沈んでいく――


(……うまい)


 渇いた喉に沁みる水は、美味と言っても過言ではなかった。こういうとき、人は俗に『生き返った』と言うのだろう。

 渉が五百ミリリットルの水に夢中になっている間、茉結華は一言も発さず、ただその様子を見守っていた。そして渉がわずか数秒で水を飲み干せば、傍らに置いてある二本目を取り出す。


「もう一本あるよ、はい。あ、飲んだほうがいい?」


 茉結華はペットボトルを一度引っ込めて、先ほどと同じく先に一口飲んだ。いわゆる毒見である。こうでもしないと渉が水を飲まないことを、茉結華はよく知っていた。だからこうして見せるのだ。

 渉は二本目も受け取ると、中身が減っているのを確認してから口を付けた。味も色も冷たさも一本目と同じ。水だけが腹に溜まっていく。


 人間は水さえあれば数週間は生き延びられる。すでに絶食状態の渉にとって、水分を摂らないという選択は身投げするようなものである。そんなことは本人も重々承知の上。よってこの水分補給は、大きなセーブポイントとなった。

 なかの水が残り半分程度になったところで、渉はキャップを閉じた。それを見届けて、茉結華はスッと立ち上がる。


「渉くん随分寝てたね。もうお昼だよ」

「昼?」


 渉は間髪入れずに聞き返した。


「学校は……?」

「今日は、休校です!」


 茉結華は嬉しそうにその場でくるりと一回転してみせる。昨日は早帰りで、今日は休校。いったい学校で、何があったというのだろう――


「ね、渉くん。お話聞きたいんでしょ?」


 茉結華は部屋に運び入れたプラスチック箱の横にあぐらをかいた。箱を開けて両手を突っ込み、ガサゴソと中身を漁る。再び外に出された両手には、生徒の誰かを模したパペット人形が取り付けられていた。


「今から人形遊び、しない?」

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