はじめては優しくしたかったんだけどね

 夕方になっても茉結華は渉のそばを離れずにいた。渉が逃げ出すことを警戒し、行動に制限をかけているのだ。

 そんな茉結華を鬱陶しがりながら、渉はここから抜け出す方法を模索した。飯もなし、飲める水もなし。雑誌のひとつでも寄越してくれれば気が紛れるのに、何もない部屋は退屈が過ぎる。どうせ動けないうちは頭を動かすしかやることもない。

 今渉がすべきことは『知ること』だ。朝霧のことも千里のことも。何より茉結華のことも、響弥との関係も……。


 だが何を尋ねても、茉結華は「知りたいことは全部明日教えてあげる」と返すばかりであった。知りたいことも知りたくないことも、明日になればすべてがわかるのだと言う。

 時刻は現在午後八時。ご飯にしようと言った茉結華は、仕切り戸を閉めて部屋を分けた。


「茉結華は本当に寿司が好きだね」

「うん。手軽に買えるし、おいしいからね。ルイスさんも好きでしょ?」


 頷くルイスを見て、茉結華はマグロの握り寿司をあーんと口に含んだ。むろん渉の晩飯は抜きである。ルイスに近付き、スタンガンを取り出させたのだから、茉結華曰く当然の報いであった。

 もちろんスタンガンを持たせたのは茉結華だ。念のためにと渡したそれは、例えるならば子供に拳銃を預けるようなもの。控えめなルイスは自ら歩み出るような男ではない。誰かを傷付けるなんて、とても恐ろしくてできない人間だ。

 そんな彼がスタンガンを突き付けた。突き付けなければならない状況を、渉が作った。ルイスを怯えさせた罪は大きいと、茉結華は考えている。


「ホタテあげるー。卵貰っていい?」

「いいよ」

「味噌汁欲しくなるね」

「ああ……インスタントの切らしてたっけ? 明日買ってくるよ」


 ふたりのやり取りは平和的なものである。傍から見れば、面倒見のいいお兄さんとそれに甘える少年の、日常の一コマに見えるだろう。しかしそれも長くは続かない。

 茉結華は口元を緩め、伏目がちに言った。


「本当はさ、開けられなかったらどうしようとか思ってたんだよね。けど予定通り騒ぎになるんだもん。井畑いばたさんもちゃんと届けてくれてよかった」

「そうみたいだね……」

「使えるよ、あの人は。もちろん、ルイスさんのサポートあってのことだけど。今度ご褒美あげなくちゃ」


 彼らにしか通じない話題に、茉結華はるんるんと肩を揺らす。


「学校周辺の上書きは一時間以内だし、映ってはないと思うけどー。何か見つけたら教えてね、いつもみたいに」


 そう言って微笑む茉結華を見て、ルイスも「ああ」と破顔する。茉結華はいたずらっぽく「えへへ」と笑った。


「みんなすっかり踊らされてたよ。根拠のない憶測が飛び交ってて、まるで高校生だもん。……可愛いものだよ」


 他人事のように言って、羨ましげに目を細める。そして、閉め切られた引き戸を横目で見た。


「けど実物を見るのは警察だけ。嘘か本当かもわからない情報は、噂となって勝手に広がる。――ネットって優秀だね」


 指先をウェットティッシュで拭って、人差し指を唇に当てた。しーっとルイスに合図して、茉結華はそろりと立ち上がる。


「ルイスさんマグロ好きでしょ、食べてていいよ」


 茉結華は引き戸を押さえる棒をガシャンと外した。仕切りを勢いよく開け放つと、聞き耳を立てていた渉がバタリと倒れ込む。


「盗み聞きぃ? 渉くん!」


 茉結華はサッカーボールを相手にするかのごとく、渉の胸部を蹴り上げた。渉は痛みを逃がすように後転し、すぐさま体勢を整えようとする。だがそれよりも早く、茉結華は手にした棒をみぞおちに突き立てた。


「っ……!」


 すんでのところで掴んでも衝撃のすべては抑えられず、渉は苦悶の表情を浮かべる。茉結華は愉快そうに彼を見下ろし、棒を中心にギチギチと体重をかけた。


「動けない?」

「……どうだかな」


 声色で読まれないよう注意して、渉は背中を軸に足払いする。茉結華は片足を上げて軽く避けた。だが棒を掴んだ体勢は維持できず、手放した得物は渉の手に移る。

 渉は反動をつけて身体を起こし、次の瞬間には茉結華の目前に突起物が迫っていた。危うくかわしたその顔から笑みが消える。茉結華は一歩後ろへと足を引いた。


「あー、やだね。それはおもちゃじゃないんだよ渉くん」

「喧嘩を売ったのはお前のほうだ」


 敵意剥き出しといった様子で棒を構える渉に、茉結華は小さく息を吐いた。


「それもそうだね、降参降参。さあ、返して」

「……」

「そんなのあったって、役には立たないよ」

「窓くらいは割れそうだ」


 せっかく手に入れた得物を渉が素直に返すはずもなく、「それじゃ、力づくで」

 茉結華は気怠げに狙いを定めた。一歩近付くだけなのに、茉結華はゆらりゆらりと身を振って動きを予測させない。

 慌てた渉が棒を振ると、茉結華は片手で掴み取り自分のほうへと引き寄せた。しかし意地でも放さない気か、綱引きのような状態に陥った。

 見極めた茉結華はぐるんと棒をひねり上げる。片や自由の利かない身体。力の差は歴然で、渉は呆気なく横に倒れた。無防備になったその身体に二回三回と蹴りを入れれば、握る手の力は弱まった。


「くっ……」

「残念でした」


 奪い取った棒を床に放って、うつ伏せの渉に馬乗りになる。這いずり藻掻こうとする渉の頭を押さえつけて、


「ルイスさーん! あれ持ってきてー」


 今の今まで黙々と寿司を食べていたルイスに向けて茉結華は間延びした。ルイスは立ち上がり、デスク上のに目をやる。

 その間にも渉は畳に爪を立てて暴れていた。「どけ! ど、けっ!」と、陸に上げられた魚のようにじたばたと足掻き続ける。茉結華は渉の背後で小声にした。


「ねえ渉くん。私、渉くんの弱点知ってるよ」


 そう言って渉の耳をギュッとつまむ。それだけで渉の脳天にビリッ――と、電撃のようなものが走った。全身が石になったみたいに硬直して動けなくなる。


「ここ切り落としたらどうなっちゃうのかな」

「……したことあるのかよ」

「ないよ、耳はね」


 引っかかりのある物言いをして、茉結華は傍らまで来たルイスから小瓶とハンカチを受け取った。片手で瓶を開けると、なかの液体を少量、ハンカチに染み込ませる。


「っ、何を……」


 視界外の怪しげな準備に渉は顔を傾けた。そして、突如目の前に現れた白いハンカチに息を呑む。


「……っ!?」

「はじめては優しくしたかったんだけどね」


 茉結華は手にしたハンカチで、渉の鼻と口を覆った。甘ったるいにおいに含まれる強い刺激臭が渉の鼻を掠める。


「んっ! んんーっ!」


 息を止めても込み上げる吐き気は抑えられず、口から空気が溢れ出た。苦しげに痙攣する渉を見ながら、茉結華はカウントを口にする。


「一、二、三、四……」


 そのカウントが十五を刻んだ辺りで、渉の意識はふっと失われた。しかし茉結華は、きっちり六十数えきるまで、渉にハンカチを当て続ける。

 そんな男子高校生の拙い戯れを横目に、ルイスは席に戻った。今日食べた寿司の味は、いつもより格別だと感じた。

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