こんなの、笑わずにはいられないよ
鍵を開けて部屋に入るや、茉結華はにこやかに言った。
「ただいま」
肩に白のタオルを掛け、髪はしっとりと濡れている。Tシャツにハーフパンツというラフな格好は変わらない。外の雨で濡れたというよりは、シャワーを浴びてきたというほうがしっくりくるか。手にはコンビニ袋を提げていた。
渉の体内時計は午後二時。早帰りと言えばそのとおりである。
「茉結華、おかえり」
相変わらずパソコンを前にしていたルイスはそう言って、茉結華にアイコンタクトで訴えた。何度か瞬きをして眼球をきゅるきゅると動かす仕草に、茉結華は『むむ?』と首を傾げそうになる。辿った視線の先には、渉が。机の隅に隠れるように座っていた。
「えっ、ちょっと渉くん、ルイスさんに近くない?」
やんちゃな子猫を危ぶむように言って、茉結華はコンビニ袋を机上に置いた。
渉は小型カメラの脇で鎮座していた。カメラはほかにも何台もあるため、一台の死角に入ったところで意味はない。けれども、目に見えて正面から撮られるのは癪に障る。だから渉は映らないようにと脇に座っていたのだ。
それともうひとつ、大きな理由が。
「困らせちゃ駄目でしょー?」
茉結華は渉の背後に回って脇腹に腕を通す。渉は「触るな!」と身を縮めるが、「はいはい、こっち行こうね」と、抵抗も虚しく後ろへずるずる引きずられていく。手足が拘束されているとは言え、茉結華の力には敵わない。
少年たちがパソコンから離れると、ルイスはすぐさま席を立った。歩む先を目で追って、渉は露骨に顔を歪める。向かう先は、やはりトイレであった。
(あいつ……! やっぱり我慢してたのか!)
あれから渉は部屋中を探索した。開けられる戸や押入れは片っ端から見て回り、ほかに出入り口がないかと調べた。しかし見つけられたものは、押入れのなかにあった空の段ボール箱のみ。
出口なし、手がかりなしと知るや、渉はデスクに近付いた。いかにも興味なさげというふうを装い、ルイスにプレッシャーを与えるつもりで机の脇に着いていた。彼が席を立つのを今か今かと待ちながら。
また威嚇されるかとも考えたが、スタンガンを見せたのはあれっきり。触れず構わずそっぽを向いていれば、ルイスが反応することはなかった。
渉からしてみれば、席を立つ瞬間は逃したくない。できるだけ近くにいたい。しかし気にしていたのはルイスも同じ。茉結華が帰宅を果たすまで、こうして我慢していたのだ。
トイレへ消えていったルイスを睨んでいると、身体に回った腕が不意に締め付けを強くした。反射的に振り返ろうとした渉の耳元で茉結華の声がする。
「ね? 私の言ったとおり、早帰りだったでしょ?」
「…………離れろ」
うんざりした様子で身をよじる。間近で囁かれるのは鳥肌が立つ思いだった。
「んー渉くん冷たいぃ。おかえりぐらい言ってよ」
茉結華は渉の肩に顎を乗せて甘えた声を出す。湿った髪が肌に触れて、渉は大きく顔を背けた。
「髪、冷たい」
「ねえ、私がいなくて寂しかった?」
「いいから離れろよ、鬱陶しい」
ため息混じりに言っても茉結華は離れようとしない。それどころか背中にぴったりと張り付いてくる。
「だって渉くんいい匂いなんだもん。それに温かい」
「俺は暑い」
「クーラー点いてるよ?」
「お前がくっついてるからだ!」
抱きつく腕を引き離そうとするも、縛られた手ではどうすることもできなかった。磁石のように隙間なく、がっちりとホールドされている。普通の人間なら一定の距離は保つものだろうに。昨日と同様、渉に対する茉結華の身体の距離はゼロに等しい。
「えーっ?」と茉結華が笑うなか、ルイスがトイレから戻ってきた。ふたりを一瞥して、デスクへ迷いなく向かっていく。目が合って、渉は途端にばつが悪くなるのを感じた。
「……離れろよ、もう」
茉結華は耳元でくすりと笑む。
「私は寂しかったよ。渉くんがいないとつまらないね。……響弥も寂しがってた」
「響弥?」
思わず瞳を瞬かせ、渉は茉結華の顔を見た。
「やっとこっち向いた」
茉結華は嬉しいような、安心したような表情を浮かべていた。居心地の悪さに、渉は再び顔を背ける。互いの吐息が口元にかかるほど、ふたりの距離はあまりに近い。
顔を見て満足したのか、茉結華は渉からようやく離れた。「水飲んでないの?」と傍らに置かれた、中身の減っていない二本のペットボトルに目を向ける。
「喉渇いてるでしょ? 飲みなよ」
「……いらない」
「なんで?」
「信用できない」
渉は疑わしげな眼差しで、はっきりと告げた。別に水に限ったことではない。複数の意味を込めて言ったまでだ。
「ふーん。別にいいけど、どこまで耐えれるかな」
茉結華は試すような口ぶりで微笑する。こうなることは予想の範疇なのだろう。はなから渉に信用されようとは思っていない。
「あ、そうそう」と茉結華は変わらぬ調子で続けた。「昨日さ、朝霧くん休みだったでしょ?」
突然何を言い出すかと思えば学校の話である。
「彼、今日も休みみたいだったよ。無断欠席だって」
遊園地の次の日、つまり昨日――朝霧は学校に来なかった。
誰にでも優しく、誰からも好かれていた学年トップの優等生が、二日続けての無断欠席か。他人の心配をしている場合ではないが、渉は彼の事情に思いを馳せた。
「でもって渉くんは行方不明者扱い。ちーちゃんに続いて三人目だね」
六月に入ってすぐのこと。凛の親友である
「笑える話じゃないだろ」と渉は眉間のしわを濃くした。誰にとっても喜ばしくない話を、茉結華は嬉しそうに話す。それが嫌悪感を誘うのだった。――三件目に関してはお前のせいだし。
だが茉結華はにやけ顔をやめない。
「こんなの、笑わずにはいられないよ」
人を馬鹿にする笑みだった。人の不幸が楽しくて仕方がない、軽蔑に値する笑顔。
「朝霧くんがどうなったか教えてあげようか」
すぅっと目を細める茉結華に反して、渉は自分の目が大きく見開かれるのを感じた。
(どうなった、だと……?)
「お前……二人に何をした?」
驚愕の表情で尋ねた。茉結華は不敵に笑んだまま、渉を見下ろし続ける。
沈黙は――肯定だ。
「答えろ! お前、朝霧とちーちゃんに……」
「いいよ、なんでも答えてあげる」
その代わり、と茉結華は続けて言った。
「渉くんは、私に何をくれる?」
お人形のように小首を傾げ、茉結華はそのまま静止する。ギブアンドテイクか、しかしそこに欲の気配はない。茉結華はただ質問し、相手の反応を待っているだけ。
渉は瞳の奥を震わせた。呆れと動揺によるものだった。身体の内側にある熱が静かに引いていくのを感じる。
「訊けば教えてくれるんじゃないのか」
「教えてあげるよ。でもタダでなんて言ってない」
「人の自由を奪っておいてよく言うな」
「奪う? 私はそうしたつもりないけど」
茉結華は肩に掛かったタオルを取って、濡れた髪を拭きはじめる。
「抗うも抗わないも渉くん次第でしょ。それでたとえ酷い目に遭ったとしても、それは渉くんが選んだこと」
よって何が起きようと自分のせいではない、と。白い髪とタオルから覗く口元は歪んでいる。
(上等だ、この野郎)
「なら、付き合ってやるよ。お前のその悪趣味に、とことん付き合ってやる」
「楽しませてくれるんだ?」
「それが嬉しいんだろ?」
そう切り返してやると、茉結華はピクリと反応した。拍子に白い髪からぽつりと水滴がこぼれ落ちる。「アハッ」と熱のこもった息を吐き、滑らかにタオルを下ろした。
渉は獲物を狙うハンターのように、どこまでも冷静でまっすぐな目をしている。そして茉結華は、大好物を見つけた獣のように、野生的な双眸をあらわにした。
「そうこなくっちゃ。精々退屈させないでよね、渉くん」
静かな青。燃える赤。交差するふたりの瞳は爛々と輝いていた。
沈黙は時間にして二秒余り。先に表情を変えたのは茉結華だった。
「でも今日は疲れちゃったからさ、お話するのは明日にしよう」
踵を返した茉結華の背中に、渉は慌てて問いかける。
「め、飯は?」
「いい子にしてたらあげるよ」
今朝も言った台詞を繰り返し、茉結華はルイスの元へと進む。
「ルイスさーん、録画見せてー。渉くんの様子、ちゃんとチェックしないとね」
茉結華は勝ち誇った顔つきで渉のほうをちらと見た。渉は誰にも知られず唾を飲み込む。その顔はすっかり蒼くなっていた。
映像を確認した茉結華は、机上に放ったままのコンビニ袋を開けた。なかからふたつの弁当が取り出される。片方は自分のもの。もう一方は渉に――ではなく、ルイスのほうに配られた。
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