そっちに行ってもいいですか……?

 ルイスという男は椅子に深く腰を掛けていた。前方に囲むようにそびえる六つのモニターはまるで城壁となり、その顔を隠している。接触してくる気配はなく、むしろ人を寄せ付けない雰囲気があった。

 渉はもう一度結束バンドに歯を立てようとしてやめた。まだ茉結華は家のどこかにいて、学校には行っていないのだ。同じ過ちを繰り返すよりも、今優先すべきことをしよう。


(とりあえず、トイレだな……)


 ルイスの様子を窺いながら、膝を擦って引き戸へと向かう。茉結華の言うことを信用したわけじゃないが、調べてみても損はない。利用できるものは利用しなくては。

 洋風の戸に手をかけてそっと開くと、中は本当に洋式トイレとなっていた。壁にはリモコンと、タオルが掛かっている。脇の戸棚にはトイレットペーパーでも入っているのだろう。


(ふーん……普通だな)


 極々一般的な洋式トイレだった。目を留めたただひとつを除けば。

 渉はバランスよく立ち上がり、奥の磨りガラスに顔を近づけた。窓に鍵らしいものはなく、外はこの時期の早朝とは思えない闇色が広がっていた。


(俺を閉じ込めるためにここまでするかよ……)


 おそらく鉄板か何かを外側から張り付けてあるのだ。窓ガラスを割っても脱出できない上に、声や物音まで遮断する。

 この和室にほかに窓はない。可能性としては、部屋自体が防音室であること。叫び声を上げても無駄なことを渉は頭で理解した。


 用を足して部屋に戻ると、ビニール袋を漁る音が聞こえた。コンビニ弁当か。どうやら朝食を取るつもりのようだ。渉はペットボトルの位置まで移動した。その間に爪先移動を試みたがかなり移動しづらかったため、膝を付いての移動に戻した。

 中身が透明のボトルをひとつ手に取る。一見すれば茉結華の言うとおり、ただの水だ。

 しかし、記憶の途絶えたカラオケ店でのことをよく考えるべきだ。響弥はコーラやメロンソーダ、ときにはお茶を持ってきてくれたが、渉は彼がグラスに注いでいる様子を一度も見ていない。印象深くあるのは、『俺が持ってくる』と頑なに言い張っていたこと――


(あれ絶対睡眠薬だ。だから覚えてないんだ。……なぜそんなことを?)


 響弥から恨みを買った覚えはない。だが考えられるとすれば、日曜日の遊園地。


 今月、藤ヶ咲ふじがさき北高校にやって来た才色兼備の転校生――たちばな芽亜凛めあり。渉は彼女と凛と、二年A組の朝霧あさぎりしゅうと一緒に遊園地に行った。

 そこで芽亜凛はたくさんのサポートをしてくれた。凛と二人きりにしてくれたり、それ以前に、追加のチケットを手配してくれたのも彼女だ。凛に告白ができたのも、芽亜凛の後押しがあったからである。


 響弥はそんな彼女に惚れている。転校初日に告白をし、フラれてもなお諦めていなかった。そして四人で遊園地に行ったことを、酷く羨んでいた。


(だけどあれが原因で、ここまでするとは思えない……)


 確かに響弥は遊園地のことを喚いていたが、それ以上に、凛とのことを称賛してくれた。あの喜びが偽りでない限り、動機であるとは言い切れない。


(睡眠薬を仕込んだのは響弥で……ならあの瓜ふたつのあいつは響弥本人……? 仮に俺のことを恨んでいたとしても、あの白い髪は何なんだ? あんな綺麗に、真っ白に染まるものなのか? あの口調も、雰囲気も、やっぱりふざけてるようにしか見えない……)


 もしあれが大真面目で自然にやっている、本気の姿なのであれば――


(まさか、二重人格……なんてな)


 渉はかぶりを振った。響弥とは中学からの付き合いだが、そんな素振り今まで一度も見たことがない。もしくは、見せなかった。

 ルイスは弁当に夢中のようらしい。鼻を突くミートソースの匂いが密室空間に漂っていた。


(あいつもこの人も、信用できる相手じゃない)


 喉は渇いているし、空腹も続いている。だが、用意されたペットボトルの中身がただの水である保証は、最早ない。

 渉の一日の睡眠時間は七時間程度だ。昨日の首絞めのような強制さえなければ、体内時計が狂うことはない。せっかく時刻が聞けて、セットが完了したのだ。また睡眠薬で意識を失っては元も子もない。


(時計のひとつでも置いてあればいいんだけど)


 茉結華がルイスに時刻を尋ねていたように、この部屋には時計がない。確認できるのは、ルイスの前にあるデスクトップパソコンを通じてのみか。


(そう言えば、スマホ――なんて、あるわけないか)


 思い出したように身体をまさぐってみるが、私物はすべて取られていた。スマホのGPSはオフにしていたし、位置情報を辿って誰かが助けに来ることは望めない。

 考えれば考えるほど憂鬱になるが、行動せずして助けなどないのが現実だ。


 渉はモニターで見えないルイスの顔をじろりと見やった。今のところ危害は与えてこないようだが、こちらが動けば何かリアクションを起こすかもしれない。


(俺がここから出ないとでも思っているのか? 冗談じゃない)


 そのままのんびりと飯でも食ってろ。

 渉は木製の扉に近付いた。ルイスが現れたのも茉結華が去っていったのも、この扉を通じてである。つまりこの先は廊下だ。

 予想の範囲内だが、扉には施錠がしてあった。表面にあるのは鍵穴。それ以外のロック部分はなく、つまみなども見当たらない。


(牢屋かよ……)


 鍵は当然、茉結華とルイスが持っている。渉は舌打ちしたくなる衝動を抑えた。


(探りを入れるしかない、か……)


 後ろを振り返り、ルイスのいる席に目を凝らす。液晶ディスプレイが邪魔で机上は確認できないが、少なくとも見える位置には置いていないはずだ。好意的な雰囲気にはとても見えないが、この際接触するしかない。


「あの……、外に出たいんです」


 渉は膝歩きで近寄りながら堅実を装った。二人きりの空間で、はじめて発された言葉である。

 ルイスの反応を待つが、返されるのはビニールの音ばかり。間もなくして前方に手が伸び、ゴミを収めた袋がディスプレイの後ろへと置かれた。


(シカトか?)


 それとも、ヘッドホンかイヤホンをしていて聞こえていないのか。姿が見えないため判断しきれない。


「俺をここから出してください。俺を助けてください……!」


 渉はルイスとの距離を縮めつつ訴えかける。


「あなたは普通の人なんでしょう? だったら……」


 そのとき再びルイスの腕がモニターの後ろへと伸びた。渉に見えるように人差し指を下へと向けて、何かを示している。一番端のモニターの手前にある機械を指しているようだが――


「……っ」


 それに気づくと、自然と顔が強張った。

 ――小型カメラだ。

 淡い色の机上に付けられた黒の小型カメラ。カモフラージュはまるでなく、隠す気ゼロで主張している。六つの液晶ディスプレイと並んでいるため、一部品のように溶け込んでいたのだ。

 もしやと、天井の四隅に目をやると、飾りのように取り付けられた黒のレンズが光って見えた。そのどれもがデスクにあるものより小さい。


(死角がないようにしてあるのか。こういうのはゴウが詳しいんだけどな……)


 機械やネットに詳しい林原はやしばらごうなら、こういうとき機能面を教えてくれるが、今は会えない友人を思っても仕様がない。監視カメラであるのは明らかだ。


「カメラがあるからあなたは動けない……そういうことですか? あなたはあいつに脅されている、そうなんですか?」


 渉は自己解釈で問うが、ルイスはうんともすんとも言わない。返事の代わりとして、手の位置を戻すだけだった。やがてキーボードの打鍵音が忙しなく聞こえはじめ、それ以上は何も続かない。

 カメラに、モニター。ルイスが前にする画面には、こちらの様子が映っているかもしれない。


(お腹すいた……)


 体内時計は六時過ぎ。食べ物を腹に詰めたのは夕方のカラオケが最後である。先ほど匂いによるテロ行為を受けたのもあって、さすがに身に堪えるものがあった。


(家は、家族はどうしているだろう。学校は……凛に連絡は……)


 外のことを思うと、不安で仕様がなかった。家族はまず、幼馴染の凛の家を訪ねるだろう。警察に連絡は――心配かけたくないが、行っていることを願うしかない。


(待てよ……響弥にだって連絡が行っているんじゃないか? あいつ、どうやって俺を運んだんだ?)


 何も思い出せない。記憶がないのが酷くもどかしい。

 もし響弥が自ら送迎を言い出していたのなら、一番に疑われるはずだ。たとえ周知されていなくても、清水たちは知っているのだ。今日にでも彼らは響弥に問うだろうし、言い逃れるには限界があるはず。それが本当に、響弥のしたことであるのなら。


(それにしても……)


 顔を上げて、ルイスのほうを睨んだ。


(気が散るなあ、この音……。デスクワークか?)


 雨音でさえ苦手な渉には、キーボードの打鍵音は不快の一言に尽きる。カタカタカタカタと……。多少な操作ならまだしも、延々と続くこの音は素直に苦手と感じた。


「パソコンで、何してるんですか?」


 渉は独り言同様に言って、ルイスのほうへとまた少し歩み寄る。

 この場に連絡手段があるとするならパソコンしかない。一一〇番はインターネットを通じてでも可能だ。発信さえできれば、警察は簡単に突き止めてくれるはずである。


「そこに……俺が映ってるんですか? あいつの指示で、あなたは監視役を任されているんですか?」


 ルイスはなおも口を開こうとしない。この男はいったいどちら側の人間なのか。もしかしたら協力してくれたりはしないだろうか。現状、友好関係を築けるふうには見えないが。

 渉はじりじりと距離を詰めてカメラの真横に並んだ。膝立ちをしてデスクに手を付き、背筋をピンと伸ばす。

 ルイスを守る六つのモニターは、端の二枚だけ縦置きに、角度を付けて設置されている。そのせいでルイスの姿は見えづらいのだが――縦置きモニターの片方だけ、画面が確認できた。無意味なほどに真っ黒な画面が。


「そっちに行ってもいいですか……?」


 ディスプレイの隙間を覗き込むと、ようやくルイスの顔が見えた。イヤホンもヘッドホンもしていない。眼鏡を掛けた素顔が、まっすぐモニターに向かっている。

 相も変わらず無言のまま、ルイスはキーボードを打つ手を止めた。そして、引き出しから何か取り出し立ち上がる。

 急に見せた大きな反応に渉は身構えた。ルイスは席を立ってデスクの横まで来ると、手に持ったそれを、素早く伸ばして突き付けた。


「……近付くなって?」


 渉は冷めた目で尋ねる。ルイスは何も答えない。眼鏡の奥から伸びる視線は自分の手元に行っている。渉と目を合わせないようにしているのだ。


(警棒――いや、スタンガンか)


 ルイスが持っているのは、リーチの長い黒い棒。一見警棒のようにも見えるが、持ち手の部分にはトリガーがある。


「こんな場所で使うと、パソコンが壊れるんじゃないですか?」


 やめてくださいと言うこともできたが、渉はつい本音を口走る。煽りのような言葉を受けても、ルイスは黙秘のまま。デスクの隅に乗せている渉の手に、冷たい金属を押し当てた。まるで害虫でも突いているような素振りだ。


(早く下ろせってか。この人、なんで喋らないんだ?)


 ルイスはうつむきがちに、渉の手だけ見ている。口も開かず、目も合わせず、心も開かずか――

 渉はしぶしぶと両手を下ろし、膝を折ってその場に正座した。ルイスは、もっと下がれと言わんばかりに一歩前に出る。スタンガンを顔の前へと突き付ける。渉は眉をひそめた。


(どいつもこいつも、揃いも揃って……)


 相手の感じの悪さにイライラは募るばかり。

 姿勢を崩して大人しく下がると、数メートル距離が空いたところでルイスは席へと戻っていった。そして再開される打鍵音。渉は小さく嘆息した。


(この人から情報を得るのは無理そうだ。あいつが帰ってくるのを待つか……あとはトイレに行くのを見計らってパソコンを……)


 どこのトイレを使用するかによるが。この部屋だろうと外だろうと、一分程度はチャンスが与えられる。狙うならそのときだ。


(それまでは部屋の探索と、柔軟……っ)


 んんーっと。渉は脚をピンと伸ばして前屈した。身体の柔らかさに支障はない。けれどこのままの状態が続くのであれば、いずれ身体は鈍っていくだろう。


(開脚できないのは気持ちが悪いな……)


 足首だけでも解放してほしいものである。顔と膝をぺたりとくっつけた前屈姿勢を取り、渉は『ん?』と異変に気づいた。

 ――打鍵音が止んでいる。ルイスの手が止まっている?

 渉は顔を横に倒し、ルイスのほうを見た。表情こそ見えないが、画面をじっと見つめているような雰囲気がある。


(まさか俺を見てる? ……なわけないか)


 気を取り直して、ぐにゃりぐにゃりと柔軟運動を続ける――そのまさか。

 一台の液晶ディスプレイにまとめて表示されている、室内のカメラ映像。そのうちのひとつに映る少年の身体の柔らかさに、ルイスは目を丸くしていた。当の本人は気づかぬ様子で、しばらく畳の上でストレッチするのだった。

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