その首、噛み切ってやる……!

 えへへ、と笑った茉結華は手に嵌めたパペット人形をぴょこぴょこ動かしてみせた。人形遊び。渉は『何言ってんだこいつ』と気怠い瞳を向ける。


「ねえこれ、右が朝霧あさぎりくんで左が響弥きょうやなんだけどー、わかる? よくできてるでしょ」


 茉結華は得意げに言って左右の人形を動かす。跳ね返った黒髪の人形が響弥、そうじゃないほうが朝霧か。凛のお面と同じく、デフォルメ化された見た目は何となくでしかわからない。悪趣味なものだ。

 渉は話を無視して、「顔が洗いたい」と恥ずかしげもなく申し出た。

 習慣というものはなかなか崩すことができない。崩したいとも思わないが。清潔でありたいとするのは言わば本能。正直な欲望である。もっとも、それを崩そうとしているのは目の前にいる誘拐犯なのだから、欲を言っても減るものではないし、意地を張っても仕方のないことだ。


「綺麗だよ?」

「そういう問題じゃねえよ。歯だって磨きたいんだ」


 もっと言うなら風呂にも入りたい。しかしそのためには茉結華に頼み込み、説得するしかない。腹は立つがやむを得ないことだ。

 茉結華は両頬にパペット人形を押し当てて、「でも、」と子供のように口を尖らせた。渉はつい「は?」と返す。


「我慢して、ね?」


 人形を動かしながら茉結華は含み笑いした。会話のキャッチボールが成立しない、主語のない言い草に渉は眉をひそめた。


「なら飯を寄越せ、拘束を解け」

「えー? 私まだルイスさんとのこと許してないよ? 謝ってくれるなら、考えてあげなくもないけどー」


 謝ったら拘束を解いてくれるのか? まさかな。言いなりになったところでさらなる要求がくるに決まっている。茉結華のことだ、次は『足を舐めろ』だとか過激なことを言い出すだろう。

 茉結華は右手に付けた朝霧の人形を陽気に突き出して、物静かな声色を作った。


「さてさて望月もちづきくん、僕に訊きたいことはあるかな?」

「……」

「もう少し近寄ってくれてもいいんだよー?」


 朝霧の真似をしているのか、まったく似ていない。笑いも起きずに渉は自然とため息をついた。


「お前……疲れる」

「えっ」


 茉結華は素の声を上げてビクリと人形を弾ませる。手をどけて見えた渉の睨め付けにしょんぼりと肩をすくめた。その一挙一動に渉のイライラは加速するばかりである。


「もういい。最初から最後まで、知ってること全部話せ」

「それじゃ面白くないよ。私は渉くんの訊きたいことに答えるだけ。自分から話そうとは思わないもん」

「……じゃあ、」


 渉は吐息混じりに言って、今一番気になっていることを問いた。


「なんでそんな口調なんだよ。なんで……そんな名前なんだよ?」


 気になるのはやはり茉結華自身についてだった。どうして茉結華なんだ。どうしてそんな口調なんだ。自分のことを私と呼び、渉のことを渉くんと呼ぶ。まるで凛の癖と言い回しを真似ているように。


「ふぅーん、朝霧くんより私のことが気になるんだ?」


 嬉しそうに呟いて茉結華は目を三日月型にする。自意識過剰で的外れな解釈はこちらを煽るためにわざとしているのか。

 茉結華は渉の返事を待たずして続けた。


「渉くん――あなたはどうして渉くんなの?」


 そう言って、「なんてね」と笑う。


「渉くんにシェイクスピアは合わないね。アガサ・クリスティーか、コナン・ドイルだもの」

「答えになってない」

「答えたつもりだよ。渉くんだって困るでしょ?」


 自分の存在を問われても答えようがない、ということか。知りたいことは全部教えると言っていたくせに。渉は肩透かしを食らった気分になった。

 ――まとめて誤魔化された。

 もう期待はしない。真面目な回答は得られないものと思うことにした。


「その髪は?」

「地毛」

「響弥と――すげえ似てるけど……双子か何か?」

「そんなんじゃないよ。けど、双子だったら、響弥が兄で私は弟かな」


 急に忠実に答え出す茉結華。気持ちが離れかけた渉を引き止めて操っているのだ。自分への興味が失せないように、落として上げる。


「……響弥はお前のこと、知ってるのか」

「知ってる」

「お前は、響弥の……もうひとつの人格なの?」


 それは渉にとって、イエスと答えてほしいものだった。

 茉結華は、嘲るような笑みをこぼして、「私を人格のひとつにしないでほしいなあ」と言った。

 姿形は瓜ふたつ。名前と中身は異なっているが、双子ではなく、。可能性から導き出せるその答えはもう、ひとつしか残されていない。


「……響弥は髪を、染めている?」

「――毎日染めてる」


 渉は大きく目を見開いた。はじめて彼を見たときに抱いた違和感は、間違っていなかった。

 茉結華は――別人のようで、別人ではない。渉の親友その人――神永かみなが響弥本人なのだ。


「気づかなかった……」

「本当だね、あんな近くにいたのにね」

「修学旅行に行かないのも……水泳を、アレルギーだって言っていつも休んでたのも……それかよ」


 今度は茉結華が目を丸くした。


「よく覚えてるね。渉くん、響弥のこと好きなんだ?」

「当たり前だろ……!」


 思わず感情的になって声を荒げる。


 中学から一緒で、ずっとそうだった。響弥は修学旅行当日に体調を崩し、毎度のように欠席をする。不参加の彼に土産を選ぶのも渡すのも、一番仲のよい渉に任されていた。

 水泳の授業だってそうだ。塩素によるアレルギー反応が出ると言って、泳ぎたくてもできないと。そのせいで二学期の体育の成績は最低評価。響弥は仕方ないと言っていたが、渉は励ましてやりたいと何度も何度も思った。


 以前から白髪を隠していたのであれば、あれはすべて嘘偽り――


「そんなに好きなのに、何も知らなかったんだ? 私も知らなかったなあ……渉くんがそんなに思ってたなんて」


 茉結華は左手に付けた響弥の人形を見つめながら、からかうように言った。


「何が不満で、こんなことしてんだよ」

「別に渉くんに不満はないよ」

「俺のことが気に入らないから、してるんだろ」


 渉が自虐的に言うと、茉結華は人形を見つめたまま沈黙した。


(やっぱり、遊園地か……)


 転校生と一緒に行ったことを恨んでいて、それでこのようなことを――

 しかし茉結華は、「ないよ」と言った。「不満はない」


「こうするのは最初から決めてたんだ」

「最初からって……」

「渉くんが凛ちゃんと付き合ったら、引き離そうってね」


 予想外の回答に、渉は耳を疑った。


「お前は……たちばなさんのことが好きなんじゃないのか?」

「それは響弥でしょ?」


 茉結華は即答した。


「まあ、可愛いのは認めるけど……一目惚れなんて気の迷いでしょ。馬鹿な奴だよ」


 さらりと言ってのけ、茉結華はまた嘲笑的な笑みを浮かべる。渉は言葉を失った。

 あくまで、芽亜凛めありのことを好きなのは響弥であって、自分ではないと。人格ではない、響弥という別の人間に対して茉結華は言っている。解離していない、自分自身に対して。

 渉くんこそさ、と茉結華は続けた。


「凛ちゃんに告白して付き合うことになって、それってどういうことかわかってる?」

「……何だよ」

「だって付き合うってことはさ、キスしたりエッチしたりするってことでしょ? 渉くん、凛ちゃんとできるの?」


(大きなお世話だ)


 そんなものは時と場合、互いの心情とタイミング――それらを重ねて順に歩んでいくものだ。他人にどうこう言われる筋合いはない。


「凛ちゃんって小柄だけど胸は大きいよね。谷間に入れたらきっと」

「やめろ……っ!」


 侮辱とも取れる発言に渉はついカッとなり叱責した。普段なら絶対に言わないような発言だ。普段なら――響弥なら。

 茉結華は口角をさらに上げた。


「なかも温かくて、柔らかいんだろうなぁ?」

「――っ!」


 箍が外れた音がした。渉は、親指で繋がれた拳を身体が震えるくらい強く握りしめた。


「……黙れよ響弥」

「ふ……は?」


 茉結華の表情が一瞬硬直し、歪んだ笑みへと転じる。


「それ以上、凛を侮辱したら……」

「侮辱したら――?」

「その首、噛み切ってやる……!」


 渉は抑えきれない怒りをあらわにする。茉結華は珍しいものを見るかのように「へえ?」と言って近付いた。ふたりの距離は、わずか一メートル。

 茉結華はその場であぐらをかいた。


「やれるもんなら、いいよ、おいで」

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