えへへっ――渉くん、ちゅう

 幼い子をあやす口ぶりで両手を広げる茉結華の首元はがら空きで、身体のどこを見ても隙だらけだった。けれど懐に入ったが最後、食われるのはこちらのほうである。

 そうとわかりきった上で、渉は茉結華に飛びかかった。首でも胸元でもいい――掴み取ろうとして手を伸ばし、指先が触れる前についとかわされる。

 茉結華は片足をしならせて渉の身体を絡み取ると、勢いを殺さずに滑らせた。渉は仰向けに転び、気づけば茉結華が上に乗っている。一秒余りの出来事だ。


「はい捕獲。駄目だよ渉くん、ムキになっちゃ」

「わか、ってるよ……っ!」


 自分の頭に血が上っているのは承知だった。そして相手がそれを理解して煽ってくるのも知っている。だがそれでも、凛を貶されることだけは堪えられなかった。負けてもいい、殴られてもいい、挑まなければ気が済まない。抑えちゃならない感情だってあるのだ。

 茉結華は暴れ続ける渉の腕と上体をパペット人形で押さえつける。


「凛ちゃんはこんなふうに渉くんを見下ろしてするんだろうね!」

「黙れ!」


 そう言って繰り出した頭突きを、茉結華は顔を引いてひょいとかわした。あははははと高笑いをし、渉の頭を左手で押さえつける。


「予行練習付き合ってあげようか? お面を付ければ凛ちゃんだよ」

「ああそうかよ。今度は『百井凛』として自分を偽って俺とセックスするのかよ。そいつは神永響弥がホモを認めた瞬間になるだろうな!」

「――っ、は……ぁ?」


 茉結華の表情から煩わしい笑みがふっと消えた。怒りも嘲笑もなく、ただ信じられないという顔つきで瞳を震わせる。侮辱し返してやればすぐそんな顔をするのか。


「わ、私は……響弥じゃないし、ホモじゃない。ただの冗談じゃん……そんなに怒んないでよ、渉くんらしくない」

「はあ? 人の下半身まさぐっておいてよく言うよ」

「そ、そんなことっ……してない!」

「都合が悪くなったら誤魔化しか、お気楽なことで」


 ずけずけと指摘してやれば、茉結華は息を呑んで顔をしかめた。傷付いたように目を伏せて肩を落とす仕草を見て、渉の理性が徐々に意識を取り戻す。捲し立てすぎたか、と口をつぐんだ。何を口走ったかさえすでに曖昧である。

 訪れた沈黙を先に破ったのは眉間のしわを緩めた渉だった。


「お前が凛のこと好きだったなんて、知らなかったよ。SM好きとも思わなかった」

「……渉くんのことも、同じくらい好きだよ。それにそんな趣味はない。朝霧くんと同じこと言わないで」


 ――?

 とっくに抵抗をやめた身体と連動するように、頭の回転も鈍くなっていた。なんだ? なんで朝霧なんだ?

 茉結華は渉の頭を押さえていた左手をそっとどけた。


「朝霧くんにも言われたよ。変態趣味の拷問狂――ってね」


 くたりと首を傾げて言った茉結華は、心底不愉快そうに目を細める。

 まさか朝霧も同じ目に遭っているのか。もしくはそれ以上のことを受けている……? しかし知的で優しい朝霧の言葉とは思えない。窮地に立たされれば荒れてしまうものなのだろうか。さっきの自分のように――渉は、渋滞した頭でそこまで考えて打ち止めにした。


「まだ朝霧とちーちゃんのこと、聞いてない」

「殺したよ」

「――――」


 ぱちんと思考のすべてが弾けて消えた。まるで料理の手順を説明するみたいに茉結華は淡々と言ってのける。


「ちーちゃんは凛ちゃんの親友だから殺した。朝霧くんは凛ちゃんと渉くんに近付いたから殺した」


 目が覚めるような悪寒が腹の底から滲み出る。

『殺した』

 突如放り出された現実味のない言葉がぼやぼやと宙を彷徨った。渉の頭のなかに浸透するにはもっと多くの時間が要するみたいで。けれど身体は正直なものらしく、心臓の鼓動だけが確実に速度を上げていた。


「嘘だ……」


 呆然と呟いた渉に、「嘘ついてどうするの」と茉結華は冷ややかな反応で突き放す。それでも渉は虚空を見据えて、「……そんなこと、するはずない」と、重くて動かない頭の代わりに眼球を左右に揺すった。


(ただの高校生に、できるはずがない)


 茉結華は渉の顔色を見て『ふふん』と鼻で笑った。添えるだけの両手を素早く顔の前に上げて、パペット人形に動きを付ける。


「やあ神永くん、駅で会うなんて奇遇だね。おー朝霧じゃないかー、こんなところで奇遇だな」


 微妙に声を変化させて茉結華は拙い人形劇をはじめた。渉は身体の上で成される舞台を静かに見守る。


「ところで朝霧、泊まる家に困ってるって本当? よかったら俺んちに来いよ」


 左手の響弥が言うと、「えっ本当かい? それはグッドアイデアだ、喜んでお邪魔するよ!」と右手の朝霧が跳ねた。

 そこで口を閉ざし、茉結華は渉に視線を戻してほくそ笑む。


「――誘ったのは響弥だよ」


 響弥が朝霧を家に誘い入れ、無断欠席となる原因を作り出し、そうして殺した――?

 渉はごきゅと唾を飲んだ。拘束状態にあることも、のしかかる茉結華の重さも、最早意識の外にある。

 きっと茉結華は話をオーバーに説明しているだろう。だがそれは嘘にならない範囲でだ。響弥が朝霧を家に招いたことは本当のはず。


「それで……どうした?」

「送ってあげたんだよ、学校に」

「学校……?」


 うん、と茉結華は頷く。


「昨日、朝霧くんの左手だけ、学校に届けてあげたの」


 ぞくりと背筋が凍った。首や腕、足首にまで鳥肌がぶわりと這いずる。

 茉結華はまるで平然とした態度で「早帰りも休校も彼のおかげ」と付け足した。半袖のくせに、鳥肌なんかも立っていない。


「彼さ、全然抵抗しないんだよね。そりゃ私も、失血死しないように気をつけるよ? けど朝霧くん、自分の手斬られてるところガン見してるの。頭のネジどうなってんのーって感じでさ――」


 愚痴っぽく言う茉結華の言葉は渉の耳を安々とすり抜けて、頭のなかには昨夜盗み聞きした話が巡る。

 予定通りの騒ぎ、届け物――茉結華とルイスはそんなことを確かに口にしていた。饒舌に話す今の茉結華の様子も、嘘をついているようには見えない。あれは朝霧のことだったのかと、渉のなかで点と点が繋がった。


「渉くん、聞いてる?」


 目の前でふたつの人形を振られて渉は瞬きする。「ち、ちーちゃんは……?」と下唇を舐めて尋ねると、「ちーちゃんはねー」と茉結華は間延びしながら渉の上を降りた。そのままおもちゃ箱のほうへ進む背中を、渉は身体を起こして目で追った。

 振り向いた茉結華の右手には髪を結った少女――千里ちさとのパペット人形が。


「忘れた傘を、家まで届けてあげた!」


 茉結華はもう一方の手で摘んだおもちゃの傘を人形に渡して、手首をブンブンと振って動かす。さながらピクニックにでも行くように、歌うように、茉結華は語る。


「白い傘を木に掛けてー、ライトアップさせてー、窓からちゃーんと見えるようにね。その後は車で運んでお終い」


 陽気な倒置法に合わせて左右に激しく揺れる人形の姿は酷く不気味に映った。渉は冷静な反応を返した。


「協力者がいるのか……?」

「当たり前でしょ、一人でできるはずないじゃん。でも私のドラテクすごいよ?」

「つっ……捕まるぞ」


 渉は諭すように言ったが、茉結華の心に響いている様子はない。運転できるのかという突っ込みが不要なのは言うまでもないことであった。茉結華への疑問は返しても返しても切りがない――


「別にいいよ、どうせ捕まえられない」

「警察を、舐めるなよ……!」

「舐めてないよ。信じてるからね」


 嘘か否か――茉結華の言うことのすべては渉には判別できないし、するすべもない。だがその口ぶりからして、茉結華はもう、罪を重ねることを何とも思っていない段階まで達している。

 それがわかってしまう自分がいて、渉はみぞおち辺りに痛みを覚えた。少し頭の整理をする必要があるようだ。


「渉くんさ、響弥から呪い人のこと聞かされたでしょ。その内容覚えてる?」


 茉結華は千里の人形を片付けながら予期せぬ質問をした。頭の容量はいっぱいいっぱいだというのに、残念ながら休み時間はまだらしい。


(ノロイビト……。確か藤ヶ咲ふじがさき北高校の、二年E組の呪われた生徒を指す言葉で……その生徒の周りの人間が死ぬっていう、くだらないオカルト――)


 渉は記憶の引き出しを開けていく。

『親友だから殺した』

『近付いたから殺した』

 そう言っていた茉結華の言葉と照らし合わせて、「……まさか」と呟いた。気づいた渉に追撃するように茉結華は自白する。


「渉くんとちーちゃんは絶対。あとは適当でもいいかなって、いろいろ仕掛けてたんだよ。E組生徒が怪我するように、例えば跳び箱に細工しておいたり」

「…………」


 言葉が出てこない。脳は先ほどよりも働こうとしているのに。まるで絡まったコードみたいに、下手に触るほどぐちゃぐちゃになっていく。


「親友が殺人犯なんて思いたくないよね。それとももう親友じゃないかな」

「……お前の、お前の言うことが本当だとして、理由が……理由がないだろ」

「理由なんていくらでも出るよ」


 そこまで言って茉結華はおもちゃ箱から何かを取り出し、背中に隠したまま歩み寄った。渉の目の前まで来てしゃがむと、無邪気に笑って――


「えへへっ――渉くん、ちゅう」


 渉の顔に押し付けられたのは、薄汚れて継ぎ接ぎだらけで、白い髪が印象的なパペット人形。茉結華は手を引くさなかに人形を外し、渉の腕のなかへと放った。


「それ、響弥が作った私。ほかのに比べて下手くそでしょ? しばらく貸してあげるよ」


 そう言っておもちゃ箱に蓋をして、両手で抱えて持ち上げた。運び出そうとするその背中を、渉は「なあ」と呼び止める。


「お前に、技術を教えたのって、誰?」


 並外れた身体能力――力と技。茉結華の身に宿るそれらを総じて、渉は技術と称した。

 何のこと? ととぼけはせずに、茉結華は振り向かないで答える。


「お父さんだよ」


 茉結華は部屋を出る手前で立ち止まり、「昼寝したくなったら言ってね。結束バンド付け直すからさ」と思い出したように言った。その前に飯をくれよと、渉は喉元まで出かけた言葉を止める。

 茉結華は片手でおもちゃ箱を支えて、ハーフパンツのポケットから鍵を取り出すと器用に扉を開けて出て行った。


 千里、朝霧、そして渉自身――全員が凛に関わりのある人間である。

 茉結華の言っている『殺し』は、拗らせた恋愛感情でもなく、嫉妬心でもない。

 藤ヶ咲北高校二年E組の呪い人――そのオカルト話に便乗して殺しを行い、百井凛を――その渦の中心人物にすることだ。

 そして話を聞いてもうひとつわかったことがある。

 この監禁に意味などない。――茉結華きょうやは最初から、おれを殺す気だ。

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