寝たふりしといて蹴らないでよ

 ルイスのパソコンにはUSBと同化したOTPトークン――ワンタイムパスワード生成器が挿し込まれている。高セキュリティー化を促進するべく導入したのは、現在モニターを挟んだ向こう側で横になっている望月渉が来る前日のこと。

 ルイスを囲むマルチディスプレイのうちのひとつに映し出されているのは、『藤ヶ咲北高校 匿名掲示板』という名の裏サイト。登録時にクラスと氏名、メールアドレスを記入して送信し、管理人の承認を得てはじめて利用が可能になる登録制の掲示板である。

 しかし、匿名というのは表向きだ。このサイトは、運営者側が生徒たちの動きを把握するためのもの。ネットを通じて創られた、小さな学校なのだ。

 

 サイトの創造者兼運営者は、同校二年生の朝霧しゅう。彼は一人で、約四百人の利用者および生徒を集めて、その書き込みを観測していた――というのは先日までの話である。

 現管理人はここにいるルイス自身だ。高校生にしてはセキュリティーを強めていたようだが、端末さえ手に入ってしまえばこちらのもの。管理を奪うのは赤子の手をひねるよりも容易かった。

 生徒らの共通の話題、今日あった出来事、個人の悩みや愚痴。内緒話を無条件に知り得る行為は善か悪か。朝霧修がどんな人物で、何の目的でサイトを作り上げたのか、ルイスが知ることはないし興味もない。

 ルイスはただ、指示されたことを――茉結華のために行うだけ。


 今見ているスレッドは、昨日校舎に届けられた『段ボール箱』の話題で持ちきりだった。テレビニュースでは『不審物が届けられた』と報じられ、続けて休校に追い込んだ――その不審物の正体とはいったい何だったのか。人間の死体? その一部? 生首? 腕――?

 それらの話題を見たルイスは眼鏡越しの目を細めた。生徒らの間で飛び交う憶測はヒートアップしているようだ。

 嘘が大半、真実はスパイス程度に。情報を流したのは、ほかの誰でもないルイス本人。


 ネット上の声はやがて現実にまで影響を及ぼすだろう。騒ぎを大きくし世論の声が広がれば、嘘は真となって現れる。『ないもの』は『あるもの』となって独り歩きするのだ。これもすべて茉結華の計画の内だろう。

 注意すべきは外部からの侵入だ。失踪した高校生が運営していたサイトであることを警察が知れば、調査される可能性は十分にある。サイト管理を奪われぬよう、セキュリティーは高めておかねばならない。

 とは言え、サーバー自体は前任者である朝霧が複雑化させていたため心配無用の様子だった。つまるところ、調査が入ったとしてもここまで辿り着くことは困難と言える。


「ただいまー」


 柔い声と共にビニール袋の擦れる音が部屋に響き、夕飯の買い出しから茉結華が戻ってきた。ルイスはいつもの調子で「おかえり」と返す。

 茉結華は机上に袋を置いて、なかから弁当を取り出した。


「唐揚げとハンバーグどっちがいい?」

「じゃあ……唐揚げで」


 茉結華は「あーい」と呑気な返事をして唐揚げ弁当を差し出すと、「渉くんは……まだ寝てる?」と、畳の上に寝転がる彼を見て首を傾げた。弁当を受け取ったルイスは「……たぶん」と曖昧に答える。


 昼間にルイスが部屋へ戻った時、トイレから嘔吐くような声が聞こえていた。その後トイレから出てきた渉は、今のように大人しく横になり、茉結華が結束バンドの付け替えをしている最中も眠っているようだった。どのみち寝るくらいしかやることもないとは思うが、よほど具合が悪いのか。


「仕方ないなあ、渉くーん」


 渉に対する手間を楽しんでいるかのように、茉結華は軽い足取りでそちらへ向かう。そして、ルイスからは見えないようにと、少しだけ引き戸を閉めた。


 渡したはずのパペット人形は、壁沿いに丁寧に置いてあった。茉結華は眠り続ける渉にそっと近寄る。


「ご飯だよー。渉くん、夕飯……」


 食べないの? と伸ばした手が渉の身体に触れる寸前。


「っ――う、うわっ!」


 足首に打つような衝撃が走った。前のめりになった茉結華を追うように、今度は前方から結束バンドで繋がれた両足が跳んでくる。


「ちょっ……ちょ! 待っ」


 容赦なく繰り出された攻撃を姿勢を低くして避けると、次は右へ左へと蹴りが跳ぶ。四発目が迫ってきたところで、茉結華は避けるよりも止めたほうが容易と判断し、渉の両足を掴んだ。

 止めて繰り出されたのは、腹筋を利用した頭突き。茉結華は反射神経で渉の首元を強く押さえ付け、自身に届く前に阻止する。

 渉はなおも威嚇するかのように反動をつけていたが、身動きが取れないのを理解したのち静止した。


「あー……、あっぶなぁ」


 これだから渉は油断ならない。結束バンドを替えたときに腕は後ろに回しておいたというのに。


「……寝たふりしといて蹴らないでよ。てか今顔狙ったよね?」


 茉結華は安堵の息をつき、冗談を混ぜた。渉はしかめっ面のまま、茉結華を睨んでいる。


「何? ご飯いらないの?」

「……」

「いいよ、今ならごめんなさいすれば許してあげる」


 優位的に言ってやると、渉はますます眉間のしわを濃くして、「……勝手に触るな」と茉結華に抱えられたままの両足を、さっさと下ろせと言わんばかりに揺らした。


「蹴ってきたのはそっちでしょ」

「俺が寝てる間にいじるなって言ってんだ」

「ああ、結束バンドのこと? だって替えるって言ったのに、渉くん先に寝ちゃうんだもん」

「だからっていちいち後ろにするな」

「それを利用して寝たふり続けてたくせに?」


 そう意地悪く指摘すれば、渉は口をへの字に曲げる。

 最初は確かに眠っていたのだろう。けれど一度目覚めてからは、『気づかず眠り続けている』と思わせるために姿勢を変えずにいたのだ。ルイスのことは騙せても、茉結華を騙し切ることは難しい。


「で、ご飯はぁ?」


 これ以上の口論は不要と判断し茉結華は質問をやり直す。が、渉から返ってきたのは「いらない」という、素っ気のない一言だった。

 いらない――? あんなに飯を請求してきたのに――? いったいいつまで突っぱねる気だ。茉結華は苛立ちを顔色に滲ませて、けれども平静を装い、ゴホンと咳払いをひとつする。


「ふぅん、そう。そんなに食べたくないんだ? あれから水も減ってないもんね。なんだ、そういうこと……渉くん、いじけてるんだ?」


 こう言えば渉の機嫌を損ねる。そうわかった上で茉結華は知ったような口を利く。

 案の定、渉はぷいっとそっぽを向いた。下手な誤魔化しも嘘もつかない、代わりに図星を突かれると黙り込む――本当に渉はわかりやすい性格をしている。


「ねえ渉くん――」

「離せ」


 たった三文字の低い声に、茉結華は目をぱちくりさせて言葉を切る。日中までとは異なる、要求を抑えているような渉の態度に、『どうして?』という疑問が胸の内に浮かんだ。

 ――どうしてそんなに、突き放すの?

 あの話を聞いたから? 響弥のことを知ったから? だから渉は怒っている?

 人殺しと知って――怒っている……?


 いいや、望月渉はそんな人間ではない。

 その考えは甘えか期待か。どちらにしろ茉結華は保守的な思考をして自己解決する。解決して、完結して、それ以上捕らわれないよう感情を逆転させる。


「んむむむむー! じゃあもう知らない!」


 冷えた心を熱で偽って、茉結華は抱えていた渉の脚を乱暴に――ではなく、自然な手付きでそろりと下ろした。膨れっ面のまま仕切りを越えて、ピシャリと戸を閉めて隔てる。――が、考え直したように、すぐさま引き戸を全開にした。


「食べよ食べよ、ルイスさん。あんなの放っといて温かいうちに食べちゃおう。せっかくおいしいお弁当買ってきてあげたのになぁー、あーあー」


 茉結華はいつになく大きな声を上げて席へと着いた。引き戸を開け放ったのは、話し声が聞こえるように。それと弁当の匂いがちゃんと伝わるように、わざとしたのだろう。

 ルイスの視界で、渉はごろんと寝返りを打っている。


「ねえルイスさん」

「ん、うん?」


 視線を戻したルイスに、肩をすくめた茉結華が静かに問いかけた。


「もう一個……食べられる?」


 袋から出された三つ目の弁当は、ルイスが選んだ唐揚げ弁当とまったく同じものだった。

 ルイスは冷や汗を頬に伝わせながら、強張った笑みで割り箸を手にする。身体つきさながら食も細いルイスだけれど、そんな潤んだ瞳で頼まれては、とても敵わないらしかった。

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