今日はひとり
進む足が徐々に小さくなっていく。素足の太さも大きさも一回りばかり縮み、一歩一歩の歩幅も狭まる。
あの日。年端もいかない子供のそれは一室を目指して、冷たい廊下をひたひたと歩いた。足の裏はまだ湿っている。ヘアドライヤーに時間を要した長い前髪を左右に揺らし、少年はやがて引き戸の前で急停止した。
肉付きの薄い右手を猫の手のように丸めてノックする。部屋のなかから大人の男の低い声が聞こえ、少年は自分の背よりも高い位置にある引き手へ両手の指をかけると、全身を巧みに使ってスライドした。
「おとうさんただいま!」
開け放った部屋に少年の快活な声が響く。
畳敷きの部屋の右手側には、雀卓を囲う三人の男の姿が。そのうちの一人は座椅子であぐらをかきタバコを咥えている、先ほど少年に入室の許可を与えたおとうさんだった。あとの二人は見知らぬおじさんである。
左手側には布団が敷かれていて、知らない男が二人あぐらをかいて寛いでいた。見覚えのない綺麗な布団は新品のように見える。おとうさんが新しく買ったのだろうか、最後に一緒に並んで寝たのはいつだったろう。もしくは、ただの一度もなかったかもしれない。
後ろを向いてしっかりと戸を閉める少年のことを、おとうさん以外の全員が射るように見ていた。上から下まで値踏みするような視線だった。少年は客人にはちゃんと挨拶するようにと教わっていたので、「こんにちは」と口にする。礼儀正しく一礼まですると、男たちからため息のような歓声と口笛が上がった。
「滅茶苦茶カワイイっすね」
「女の子かと思いましたよ」
「馬鹿。ちゃんとついてるから安心しろ」
おとうさんは煙を吐きながら言った。
「身体、綺麗にしてきたよな?」
「うん。帰ってすぐにシャワーを浴びてきたところだよ」
こくんと頷く少年に、男たちは忍び笑いする。おとうさんも笑みを浮かべて、タバコの火を灰皿へと押し当てた。彼らが楽しそうだったので、少年もにんまり笑う。
おとうさんは立ち上がり、少年に大股歩きで近付くと、引いた足でその身体を蹴り上げた。サッカーボールを蹴るときみたいに、けれども少年はボール遊びをしたことはなかった。少なくとも、おとうさんと一緒には。
爪先が腹にめり込んで口から空気が漏れた。勢い任せに扉に背中を打ち付けて衝撃にサンドされる。痛みを感じるよりも先に胃液が逆流したけれど、床を汚すと怒られることを少年はよく知っていたので、強く唇を閉ざした。
嘔吐を我慢していると、目の前でおとうさんがしゃがみ込む。心配してくれている――そう感じた瞬間こめかみを横殴りにされた。耳鳴りがして、頭痛がして、目の焦点が合わなくなる。ひきつけを起こしていると、髪を引っ掴まれて起こされた。
おとうさんは顔を近付けて囁く。
「なかまで綺麗にしてきたかって訊いてんだよ」
「毎日……きれいに……」
「あ?」
「うん……洗った……きれいに……しまし、た」
舌が回らない、でも喋らなきゃいけない。その一心で少年は声と言葉を絞り出す。唇の端から締まりなく涎が垂れ、顔にはタバコとおとうさんの匂いが吹きかかった。
ぐらぐらと踊る視界のなかで、雀卓にいた男たちが立ち上がる。場を諌めようとしている雰囲気ではない。むしろ楽しんでいる彼らは、少年の姿をよく見ようと立ち上がったまでだ。
少年は二の腕を掴まれて無理やり立たされるも、子供の細い脚はもはや役割を果たしておらず、爪先が不器用にぷらりと浮いた。宙に放り出されたその身体を迎えたのは、布団の柔らかな感触。
おとうさんが「いいぞ」と何かを承諾する。
「本当にいいんスか?」
「小銭は取るけどな」
再び男たちから笑い声が上がった。
動けずにいる少年の背中に、大人の大きな手のひらが乗る。シャツをめくられ、もう片方の手で腹をまさぐられた。うなじから耳の後ろにかけてざらりと湿った感触がして顔を横に倒すと、頬を舌で突付いている男の顔が見えた。別の誰かからは頭を撫でつけられる。
少年は抵抗しなかった。おとうさんに殴られたショックに身も心も支配されて、塞ぐことのできない耳で音だけを拾う。男の笑い声と荒い息遣い。ベルトをカチャカチャと外す音。布が擦れる音。
やがて――大人の男の重みに、少年の身体はいとも容易く沈み込む。身体を真っ二つに裂かれるような激痛が、たちまちのうちに蹂躙した。記憶に刻まれたのは、意識が飛ぶような苦痛と、タバコのにおい、汗のにおい、真新しい布団のにおい。そして、男たちのにおい。
あの日、痛みを受けたのは誰――?
* * *
リビングに向かった茉結華は、ペットボトルを洗って水切りラックに並べた。冷蔵庫を開けてみるも、今すぐ食べられそうなものはないに等しい。毎日コンビニ弁当を消費しているこの家に、食材などあるはずもないのだ。
茉結華は考える間もなく出かけることにした。ポケットに財布とスマホを入れて、鏡の前で髪を整える。緩やかな半袖パーカーを羽織り、キャップ帽を被っていざ出陣。外は今でも大雨のため、真っ黒い傘を差して行く。向かう先は歩いてすぐにあるコンビニだ。
鼠色の空は画面越しで見るよりも明るく感じられた。雨脚も幾分か弱まったように見えるが、しかし今日は一日中雨となるだろう。梅雨明けもまだまだ先のようだ。
茉結華は水たまりを避けつつ渉のことを思った。本当はすぐにでも病院に連れて行ったほうがいいだろう。右肩はギプスで固定したほうがいい。けれどそんなことはとてもできないため、鎮痛剤で我慢してもらうしかない。人を拉致監禁する上で、重度の怪我や病気になられるのが一番困るという話はどうやら本当のようである。
涙で濡れそぼって憔悴した、今朝見たばかりの渉の顔を瞼の裏に描きつつ、茉結華は歩道を進んだ。向かい側で赤色灯を振っている人が何人か見える。頭には白のメットを被り、透明の雨合羽から紺の制服が透けていた。あちらは藤北方面である。このまま進んでいけば藤ヶ咲北高校が見えてくるはず。その辺りも警備がされているのだろう、こんな天気にお疲れさま。
コンビニの駐車場には二台の車が停まっていた。傘を傘立てに入れて店に入ると、暇を持て余していた店員が挨拶を飛ばしてくる。客は茉結華を含めて三名しかいなかった。雨の日の平日にわざわざ徒歩でコンビニ弁当を買い求める物好きなんてそうそう居るもんじゃない。
茉結華は弁当コーナーへとまっすぐ向かい、納品されたての唐揚げ弁当とサラダを手に取った。自分とルイスの昼食分も適当に積んで、奥の雑誌売場を一瞥する。アダルト雑誌の一冊でも与えてやれば渉も元気を出すだろうか――先客が立ち読みしていたのでやめたけれど。
レジに向かうと、見知った店員のおばさんが応じてくれた。
「あらマユちゃん、いらっしゃい。今日もお弁当?」
「ここのお弁当好きだからね。焼鳥のももタレ二本ください」
レジのおばさんは「はいよ」と言って紙袋を取る。焼鳥は二本とも渉の分だ。きっと喜ぶはずである。
「今日は一人? 眼鏡のお兄さんは一緒じゃないの?」
おばさんは尋ねながらレジを進める。ルイスのことだろうか、考えても茉結華の答えは変わらないので適当に頷いておく。
「うん。今日はひとり」
「あら……最近は物騒だから、マユちゃんも気をつけるのよ? いい?」
「うん」
ここのおばさんは茉結華のことを元気で明るい無害な学生だと思っている。たまに一緒にいるルイスのことは兄弟か親戚とでも解釈しているのだろう。――無知で優しい、いいおばさんだ。
また来るねとはにかんで、茉結華はコンビニを後にした。冷めないうちに帰ろうと、傘を握ったそのとき。
「すみません」
呼び止めるような口ぶりに、心臓がずんと跳ねた。声の高さからして若い男とわかる。――誰だ? まさか警察か?
茉結華はゆっくりと振り返り、安堵した。声の矛先は脇でゴミ袋の処理をしていたバイト店員に向けてだったのだ。
(何だ、全然違うじゃん……驚いて損した。コスプレ趣味の外国人? この季節に緑のモッズコートって、刑事ドラマの主人公じゃあるまいし……)
その割には日本語が綺麗だったなと、茉結華は辺りを窺った。パトカーは停まっていないどころか、車が増えた形跡もない。茉結華はもう一度――今度は慎重に男を見た。
「この辺りで不審な人物を目撃したことはありませんか? 朝の四時頃なんですけど――」
ビニール傘から透けて見えている、白に近い金色の髪。流星のごとく輝くそれは、ひと目で分かる天然ブロンドだ。スラリとした細身のその顔は見えないが、傘の下から覗く口元だけでかなりの美形と判断できる。刑事だとすれば日本人かハーフか。
(なんだ、こいつ)
「そうですか、わかりました。ご協力感謝します。それとお宅の防犯カメラ映像、少し拝見してもよろしいでしょうか? 店長さんはなかに?」
本当に、本物の警察官なのか――? ここまで歩いて来たのか? それも、一人で……。
茉結華はそっとほくそ笑んだ。おおよそ警察は、近くの防犯カメラを片っ端から調べているってところだろう。
しかし残念ながら、このコンビニを含めた周辺の防犯カメラはルイスが管理している。ワイファイからでもデータに忍び込める時代だ。映像はすでに、茉結華にとって都合のいいものしか残っていない。
――せいぜい頑張ってね、刑事さん。
茉結華はその顔を見る前に、真っ黒な傘をバサリと差した。自分の姿を隠すように、帰路の一歩を踏み出す。
横目で捉えた刑事の表情は、どことなく自分と同じ、不敵な笑みを湛えているように見えた。
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