笑いたけりゃ笑えよ

 警察にビクつくのは、やましいことのある人間だけではない。何の咎もない人間でも、警察の厄介にはなりたくないだろうし、話を聞かれるのも御免ではないか――少なくとも茉結華はそう思っている。

 だから家に着くまでの間、警察には止められたくないなぁと常人ぶったことを考えていた。あくまでそれは一般人として。つまり人を殺していようとなかろうと、茉結華のするべき振る舞いは同じなのである。


 というわけでいつもどおりの警戒をしつつ、いつもどおり気怠げに歩いて帰宅した。道でパトカーと二回すれ違ったが、声をかけてくる者はゼロ。そもそも事情聴取されること自体まれであるが、ここは素直に胸を撫で下ろすべきなのだろう。ラッキーだった、と。

 玄関のポールハンガーにキャップ帽を掛け、リビングに荷物を運んだ。台所に直に置いてある大きなゴミ袋にはカップラーメンのゴミが、茉結華が朝捨てた容器に重ねて新しく加わっている。きっとルイスが食べたのだろう。彼への挨拶は後にして、ひとまず渉の元に弁当を届けよう。

 茉結華は弁当を取り出して分けて、コンビニ袋に渉の分を入れて持っていった。


「帰ったよー」


 ただいまー、と言いながら部屋に入り、渉の姿を探す。エアコンの前、ペットボトルの置かれた中央、洗面所の前、壁際――


「渉くーん?」


 いない――となればトイレだろうか。洗面所の明かりは隙間から漏れていたし、用を足している最中かもしれない。

 茉結華はペットボトルの横に袋を置き、様子を窺った。なかの水は減っておらず、アルミ包装された鎮痛剤も飲まれた形跡がない。洗面所に近付き耳を澄ましてみても、嘔吐く声はおろか嗚咽も何も聞こえてこなかった――


「渉くん? いるよね? 返事しないなら入るよ」


 そうして扉の前でノックするが、返事は聞こえず。茉結華は仕方がなしにドアノブに手をかけた。嫌な予感がする。渉のことになると不安が一気に膨れ上がる。

 洗面所とはいえ元々鍵は付いておらず、茉結華は一応警戒しながら、スライドドアを開けた。

 そして、探る間もなく、渉の姿を視界に捉える。


 洋式トイレと洗面台の間に、彼はいた。体育座りみたいに両膝を立てて、腕を後ろに回したまま、床に座ってうつむいている。

 茉結華は人知れず安堵して、「いたいた」と呟いた。


「もう、そんなところで何してるの――?」


 ホッとしたのも束の間、茉結華は床を見て「えっ」と思わず口にする。驚愕と、羞恥のような何かに駆られ、カッと顔が熱くなるのがわかった。

 渉の座っている場所が濡れている。いや、濡れているってもんじゃない。ちょうど臀部の下辺りに、小さな水たまりができているのだ。


(え? え? まさか……まさか……?)


 茉結華はごくりと唾を飲む。――見間違い? いやいや、今まで信頼してきた度入りコンタクトレンズが嘘をつくなどありえない。

 しかし、信じられない気持ちと好奇心とが入り交じり、茉結華の鼓動をどくどくと速める。気がつけば穴が空くほどそれを見つめ、口元は意図せず震えていた。――だって、そんな、


「笑いたけりゃ笑えよ」


 その声に、茉結華はハッと目を見開いた。渉はいつの間にか顔を上げて、こちらをぎらぎらと睨んでいる。

 茉結華は反射的に唇を内側に巻き込み、口内に溜まった唾をもう一度飲み込んだ。


「わ、笑わないよ? どうしたの?」


 子供の悪事を咎めるように言って、必死に平常心を装った。渉の顔がどこか火照って見えるのは泣き腫らした目元のせいか、それともやはり図星なのだろうか。

 茉結華はこぼれそうな笑みを抑え、言葉の先を促す。神妙な面持ちで小首を傾げてみると、渉は強がる顔つきを胸を打たれたみたいに崩した。


「い……痛みで、腕、前に回せないし……我慢できなくて……」


 ボソボソと渉は頭を垂れる。まるで己の過ちを告白し、あとは首を落とされるばかりの罪人のように見えた。


「う、うん……そっか! そうだよね、渉くん鎖骨折れてるんだもんね。うん、仕様がないよ」


 茉結華はわざとらしく何度も大きく頷き、鼻先に手をやって口元を隠した。――我慢できない、はこちらの台詞である。


「き、着替えと拭くもの持ってくるよ。ちょっと待ってて」


 そう言うと渉の返事も聞かずに、急いで自分の部屋へと向かった。クローゼットから這い出る思いで飛び出すと、


「ぷっはっはっはっはっはっはっ!」


 茉結華は、こらえきれなくなった笑いを吐息とともに吹き出す。


(渉くんがお漏らし! あの渉くんが!?)


 ふかふかのベッドの上に倒れて、息ができなくなるほど笑い転げた。渉の前では我慢していたけれど、もう限界だ。可笑しいったらありゃしない!

 高校生にもなってとか、男の子のくせにとか――そんな安いことを言うつもりはない。渉だからこそ、こんなにも可笑しいのだ。

 ――可笑しくて、くすぐったくて、愛おしい。

 ありもしない母性をくすぐられるみたいに、茉結華は天に向かって微笑んだ。


「よし!」


 恍惚感に浸っている場合ではない。渉のためにタオルと着替えを急いで集めなくてはと、茉結華はベッドのスプリングをきかせて跳ね起きる。

 実は昨日の件で学ランが一着、背中の生地が薄れてダメになってしまっていた。二着をローテーションして使っていたため、片割れは今渉が着ているものとなる。それを洗うとすれば、予備がない。

 どうしたものかと考えた末、茉結華はクローゼットを開けた。どうせ秋まで使わないし、いいか――と、ハンガーにかかっていた冬用の学生服を手に取る。


 扉のロックを解除して監禁部屋へ、そして洗面所へと戻った。茉結華が姿を現すなり、渉は静かに顔を上げる。

 着替えの入った袋を床に置き、部屋から持ってきた手錠で渉と自分の左手を繋いだ。いつかも用いた鎖の長い手錠である。

 茉結華は手足の結束バンドを切って、「立てる?」と手を差し伸べたが、渉は自力でふらりと立ち上がった。スラックスは前後びっしょりと濡れている。上は汚れていないみたいだが、すべて脱いでもらうほうがいいだろう。


「自分でする……」

「あ……じゃあ私は床を――」

「それも俺がするから。全部……自分でやるから」


 渉は左手と、痛みを訴え続ける右腕で、不器用にベルトを外しはじめた。顔は目元を中心に赤くなったまま、眉尻がしゅんと下がっている。

 茉結華は床の袋を引き寄せて、なかからタオルとウェットティッシュを取り出した。


「ふたりでしたほうが早いでしょ」


 渉は拒んでいたが、茉結華は手伝いたい一心で床の水たまりを掃除する。その間渉は着替えに専念し、タオルとウェットティッシュで身体を綺麗にした。

 繋いだ手錠がチャリチャリと音を奏でる。服は脱ぐ際も着る際も、片腕ずつ手錠を掛け直しながら行なった。汚れた衣類は袋に入れてもらう。

 すべてを終えたところで、茉結華は渉の手を引き洗面所を出た。渉の手は水に濡れて冷たくて、おそらく彼も茉結華に対して同じ感想を抱いたことだろう。


「じゃあ、前で縛るね」


 負担と手間を省くため、茉結華は渉の手を前で揃えて縛った。渉は『またストレッチがしたい』と言い出すこともなく、その場に腰を下ろして両足も揃える。

 随分大人しいな、とその顔をちらりと見ると、渉は制服の匂いをくんくんと嗅いでいた。何か気にすることでもあるのか。けれども何も言わず、足首の結束バンドを付け直す。


「この制服って、俺用のやつ……?」


 渉は上目遣いで茉結華を見た。突然そんなことを言われてドキリとする。そんな指摘を受けたのははじめてだ。――なぜ、そう思う?


「そうだよ、当たり前じゃん」


 疑問を抱いても、茉結華の口は咄嗟に嘘をつく。渉は力なく「……そっか」と唇を動かす。


「何か変?」

「いや……のかなって、思った」


 自信なさげに、渉は目線を下げて言う。

 驚いた。サイズも見た目も変わらないはずなのに――だとしたら匂いか。渉のものとそれ以外では確かに柔軟剤を変えている。だが、そうすぐに気づくものなのだろうか。

 茉結華が渉の匂いを好きなように、渉もまたの匂いを感じ取っていた。そう考えると、自然と頬が緩んでしまう。


「ふうん、変なの」


 悟られないようにはぐらかして、互いを繋いでいた手錠を外した。


「会いたいな」


 ぽつりと呟いた渉の言葉に、茉結華の目は自然と見開いた。緩んでいた表情が一気に引き締まる。

 ――会いたい? 会いたいって誰に? 響弥に……?

 顔を上げて見ると、渉は今にも泣き出しそうに顔をしかめていた。その視線は茉結華のものと交わらない。

 ここは素直に『誰に?』と訊くのが茉結華らしい反応だろう。しかし考えている間が空いてしまったため、尋ねるのはやめにした。


「痛み止め飲んでないでしょ、ご飯食べてから飲も? ね、食べさせてあげる」


 茉結華はペットボトルと鎮痛剤、コンビニ袋を引き寄せて、渉の前に差し出した。唐揚げ弁当とサラダと、渉の大好きな焼鳥を取り出し――あ、


「焼鳥……リビングに置いてきちゃった」


 分けたときに置いてきてしまったようだ。せっかく渉のためにと買ったのに、今度は茉結華のほうがどんと落ち込む。


「取ってくる!」

「い、いいよ……これだけで」

「でも渉くんに食べてほしかったし」


 立ち上がった茉結華の手を掴み、渉は首を振った。


「十分だから」

「……そう?」

「うん……ゆっくりになるけど、自分で食べるし……あとは、もう……」

「……もう?」

「一人になりたい」


 本心を口にして、渉の視線は掴む手と共に緩やかに落ちていく。


「夜の分もこれでいいから、しばらく一人にさせてほしい……」


 してほしいではなく、させてほしい――

 ぎこちなく首を下げる様子は、まるでお願いしますと頼み込んでいるみたいだった。そんな言葉を使う渉の姿は、今朝よりもずっと弱々しい。


「……わかった」


 逡巡した茉結華は「ちゃんと食べて、飲んでね」と告げて、制服の入った袋を持って部屋を出る。扉の前で一瞥するも、渉はうなだれたまま。閉まっていく扉の向こうで、鼻をすする音だけがわずかに聞こえた。

 ――調子狂うなあ。

 閉まった扉に背を預け、茉結華はふうと息を吐く。

 弱った渉の姿に情緒を遊ばれ、集中力が分散していた茉結華は――あの水たまりからアンモニア臭がしなかったことにも、洗面台のコップに水滴が付いていたことにも――最後まで気づくことはなかった。

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