道を切り開いて

 藤ヶ咲北高校で毎朝行われる、ホームルームと小テスト。その小テストの時間を費やして、彼女は二年E組の扉をくぐった。

 担任の石橋いしばし先生が、チョークで黒板に名前を書く。

 ベージュ色のワンピースに身を包んだ橘芽亜凛は、クラスメート全員と視線を交わし、そして最後に凛を見た。チョークの音が止むのと同時に、桜色の唇が開かれる。


「はじめまして。橘芽亜凛です。こんな時期からではありますが、みなさんと仲良くできると嬉しいです。よろしくお願いします」


 そう言って芽亜凛は黒板前で一礼する。学年カラーを示す赤いスカーフが、彼女の胸元で嫋やかに揺れた。

 クラスメートは互いの顔色を窺いつつ、拍手の波を引き起こす。凛は、ふふ、と口角を上げながら精一杯の拍手で迎えた。

 芽亜凛の席は、凛の隣。彼女にとっては何度も経験している『当たり前』なのだろうけれど、凛にとっては隣同士である事実すらも必然、あるいは運命的なものを感じてしまう。


「よろしくね、芽亜凛ちゃん」


 隣に腰掛けた芽亜凛に聞こえる声量で言って、凛はいたずらっぽく笑った。こうして同じ制服姿の芽亜凛を目の当たりにすると、やはり『本物』なのだなという実感が湧いてくる。

 今まで芽亜凛に関わってきた自分は、どんなだっただろうか。彼女を傷つけたりしていないか。

 心だけは、今と変わらなければいいと思う。恥ずべき姿でなければ、何だって――


 ホームルームが終わると、さっそくクラスメートの女子が話しかけてきた。谷村たにむら寿莉じゅり美島みしま由希ゆき、そして玉森たまもり和可奈わかなの三人組だ。


「よろしくねー芽亜凛ちゃん。いや、メアリン? 寿莉はジュリリンだよー」

「由希はユキリン……」

「私はワカナンでよろ」

「うん、よろしくね」

「わかんないことがあったら何でも訊くといーよ、いいんちょーに」

「私かい」


 凛の突っ込みに笑いながら「うん、ありがとう」と芽亜凛は頷く。

 三人組は「うわ、次国語だー」「漢字やってない……」「範囲暗記するぞ」と口々に言って席に戻っていく。クラスで一番声をかけてくれるのが彼女たちだ。何に対しても臆せず接して、絡みやすく、女子特有のグループ方針もない。自由にやっている集まり。


「うわ、やば」と斜め前から呟かれ、「何覗いてんのよ、しっしっ」と追い払う声が続いた。凛はそちらを見てぎくりとする。

 廊下に、野次馬が集まっている。別クラスの生徒なのはもちろん、男子も女子もだ。

 応じているのは廊下側が席の三城さんじょうかえでとその集まり。半ば迷惑そうでもあり、羨ましいでしょ、という優越感も滲んで見える。

 ――これが芽亜凛ちゃんパワー……!


「芽亜凛ちゃんすごいね、人気だね」


 凛が驚きを隠せないなか、当の本人は一限目の準備を終えて、小首を傾げながら廊下を一瞥した。


「そんなことより」


 首を戻して芽亜凛は言う。あの賑わいはそんなことで済まされるものらしい。


「望月、渉くん……、スラックス濡れてなかった?」

「ズボン?」


 凛は振り返り、窓際最後尾の彼を見る。目がばちりと合った。

 頬杖をつき、ぼうっとしていた渉は凛と目が合うや、途端に姿勢を正した。だがすぐにちらちらと視線を交わしはじめ、『なんだよ。何見てんだよ』と目で問われる。


「いや、濡れてないと思うけど……何か気になることでもあった?」

「いつも上げてた気がするんだけど、思い違いみたい」

「あ、そう?」


 上げてたって裾のことかな? ともう一度渉を見るが、何も変わった点はなかった。そんな変化があれば、まず凛が声をかけているはずだ。凛にとってはいつもどおりの幼馴染がそこにいる。


「ねえ芽亜凛ちゃん、校内案内ってしたほうがいい?」


 ついでに呪い人の話もするのがE組の規則となっている。が、芽亜凛はまったくの異例であり、むしろ凛よりも詳しそうだ。

 芽亜凛は柔和な笑みを浮かべて、「したい?」と聞き返した。


「いや、まあ、でも芽亜凛ちゃんには必要ないのかなって……」

「そうかもね」


 凛は、彼女の見せた一瞬の寂しさを感じ取り、「やっぱりしよう!」と身を乗り出した。


「昼休み、いや放課後がいい?」

「……ほんとにいいの?」

「当たり前だよ、いくらでもするよ」


 本来はしていたはずだ。いや、するべきことだ。芽亜凛が何度も経験しているからって、その行い一つひとつを邪険に扱うのは違う。

 ――だって今目の前にいるのは、この私なんだから。

 別の私が何をしていようと、今芽亜凛ちゃんの前にいるのは私だ。私が道を築かないでどうする。芽亜凛ちゃんとの時間を、私だって大切にしたい。


 芽亜凛は嬉しそうに唇を噛み締めた。照れたように頬を赤らめ、「じゃあ、昼休みに」と約束を交わす。

 凛の選択ひとつで、芽亜凛の表情に笑顔が咲く。素直な嬉しさが溢れてくる。そんな彼女を見ていると、こっちまで胸がぽかぽかするのだ。


 放課後は千里を紹介して、凛はそのまま家に泊まる。今日は凛も千里も部活のない日だ。

 こんな日だからこそ、芽亜凛は千里とも知り合えたのだろうか。何かの因果によって、人々の行動は決められているのか。

 それなら芽亜凛がしてきていないことをしてあげたい。

 今まで頑張ってきた彼女に。あっと驚くような思い出を。


    * * *


 昼休み。凛と踊り場で別れたあと、彼と出会った。

 ――神永かみなが響弥きょうや


「お、おおおお、俺と……付き合ってください!」

「…………」


 恥ずかしげもなく繰り返される廊下での告白。何度も見てきた光景に、ひとつだけ違和感が生じていた。足だ。

 響弥のスラックスの裾が、脛まで上がっている。こんなことは一度もないどころか、それは望月渉だったはずだ。


 もとを辿れば、六月三日に制服が汚れるのは芽亜凛だった。しかし登校時間をずらすことで、芽亜凛はそれを回避してきた。その代わりのように、今度は望月渉が被害に遭うようになって……。

 なのに今回は渉も無事。そして目の前で裾を上げているのは、神永響弥である。


「あの、あのー……芽亜凛ちゃん?」


 運命が、ずれてきている。

 もう、このルートの変化ははじまっている。


「――保留で」


 と、芽亜凛は口にした。


「その告白、保留にさせてください」


 イエスでもノーでもない。今まで選んだことのない選択を。


    * * *


「雨降ってなくてよかったね」

「そうだねぇ、日中酷かったもんね。あ、おじさんありがとー」


 空を見上げる凛に答えながら、千里はたこ焼きの包みを受け取る。

 放課後、予定どおりに芽亜凛を紹介して、三人は学校近くのたこ焼き屋に寄っていた。

 初夏の雨上がりの空気を吸って食べるアツアツのたこ焼き。そう聞くと忌避してしまいそうだけれど、ここのたこ焼き屋は作り置きをしてくれる。梅雨でも食べやすくて、とろけるほどうまいのだ。


 ベンチに腰掛けた千里の手元には、傘がある。生徒玄関を出るとき、「傘忘れないようにね」と芽亜凛が声をかけたのだ。その一言がなければ忘れていただろうし、千里が忘れていることに凛も気づかなかっただろう。


「芽亜凛ちゃん、このあと時間ある? ちょっとやりたいことがあるんだよねぇ」


 たこ焼きを口に放り込んで凛は言う。芽亜凛は口を手で隠しながら「うん、何?」と興味ありげに瞼を持ち上げた。千里も目を丸めている。


「花火……しない?」

「え?」


 千里と芽亜凛の声が重なった。やっぱり、と凛は内心ほくそ笑む。


「もちろん手持ち花火だよ。もう売ってるでしょ。てかこないだコンビニに売ってるの見た!」

「まだ梅雨だよ、凛ちゃん? 飛ばし過ぎじゃない?」

「でも今晴れてるよ」


 ぺろりとたこ焼きをたいらげて、やろうよ、と凛は立ち上がる。ちょうど隣はショッピングモールだ。


「待ってて、私買ってくるから!」


 飛ぶように走り去った凛の後ろ姿に、「どうしちゃったんだろう凛ちゃん……」と千里が呟く。こないだから様子がおかしい……と。


「私のため、かも」


 彼女の隣で、芽亜凛はぽつりと核心を突いた。「え?」と千里が顔を覗き込む前に、芽亜凛は首を横に振って、涙を悟られぬように笑顔を作る。


「私と、千里さんのため。私たちが仲良くなれるよう、応援してくれてるんだと思う」

「そ、そう……?」

「うん、そう」


 そうに決まっている。


「ねえ千里、約束して。――生きるって」


 いきなり正面から見つめられて、千里は柄にもなく言葉を失った。

 芽亜凛の瞳は、真剣そのものだ。


「生きて。自分自身のために」


 凛のため、私のため、とは言わない。この子は自分自身が『凛のためにはならない』と知っている。

 凛の平穏は千里自身の安泰に繋がるが、千里の平穏は、凛には繋がらない。

 千里はそれを理解しているし、凛が幸せなら自分も幸せだと考える子だ。イコールじゃなくて、ニアリーイコール。

 あくまでも親は凛。自分自身は主体じゃない。

 だから千里は、自分自身のために生きるべきなのだ。もっと自分を大切にして、主体性を磨くべきなのだ。


「い、生きるよ。もちろん、もちろん!」

「約束よ」

「うん。超、頑張って生きます」


 千里は緊張でぱちぱちと瞬きを繰り返す。

 この道を切り開こうと凛が動いてくれているのだ。芽亜凛も、枠から外れた行動をしなければならない。

 この子たちのそばで、未来を見届けるために。

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