殺意

 結局、行き着く先はここなのか。死んでリセットするか、生きることで諦めるか……。

 ――神永響弥を殺す。

 ネコメにチカラの受け渡し法を知らされる前の芽亜凛であれば、迷わず選んでいた選択であった。疲弊して擦り減った心と理性の行き着く場所。殺意と憎悪が生み出す安寧の地。

 今、再び、芽亜凛の心は揺れている。どうしようか、と。自分はどうすべきなのかと。


 あの子の死は、小坂めぐみの死は、立つこともできなくなるほど多大なるショックだった。守れると思っていた。守り切れたと思っていた。千里とあの子をホテルから生きて救出できたとき、ああ、私の物語はここで終わるのだと。そんな錯覚をついしてしまうような歓喜に満ち溢れていた。

 誰も欠けてほしくないという願いは、無謀なのだろうか。ただ純粋に、芽亜凛は『死』の手から逃れようとしているだけなのに。


 自分を殺すの? 響弥を殺すの?

 彼を殺せば、私はこのチカラを失う。忌々しい死のループから脱却して楽になれる。……居場所の見当は、おおよそ付いている。

 彼を殺しても世界は続くのだろうか。それとも響弥がループする軸に、私の魂はすべての記憶を失って戻るのだろうか。

 前者はネコメが否定したがった多世界解釈。望むなら後者がいいなと芽亜凛は思った。


 追い詰められた茉結華の結末を見るのははじめてだ。『前』の続きを見られるのなら、茉結華は今のように警察に追われていたのだろう。最後に追い詰めるのは警察か芽亜凛か……どちらにせよ、今度は殺されずに見届けてみせる。

 芽亜凛が死ねば、小坂の生きる時間に戻るだけのこと。同時に、凛と交わした約束を破ることになる……。

 一日休んで登校したとき、凛は言ってくれた。『芽亜凛ちゃん。約束、覚えてる?』あの言葉で、あの約束で、今の芽亜凛の命は繋ぎ止められている。


「橘さーん?」


 数学教師の声に芽亜凛はゆるりと首をもたげた。え? と困惑する芽亜凛に、「五番の問題を解いて」とチョークを渡してくる。

 黒板を見ると、すでに指名されたクラスメートが横一列に並んでいて、図形と方程式を解いていた。ほかの生徒は自分の答えと一致しているかノートと見比べている。芽亜凛は席を立ち、言われた問題と向かい合った。

 夏休みまで、残り十日。もうじき梅雨も明ける。延々と巡る芽亜凛のゼロの輪が解けて、まっすぐ歩めるイチの線に戻るのはいつであろう。この長く降り続く雨が止むのは……。




 空き教室前の廊下を箒で掃いていると、大きなゴミ袋を抱えた千里が「んしょ、んしょ」と歪な足取りで現れた。芽亜凛は箒を壁に立てかけると慌てて千里を手伝う。階段があるのは真反対で、芽亜凛に用があるのは明らかであった。

 千里は、にへへーっと笑うことで、安堵したような、照れたような素振りを見せる。どうしたのと尋ねなくとも、千里は階段を下りていく間に口を開いた。


「今しかないと思ってさぁ。昼休みは……凛ちゃんもいたし」


 親友の凛に言えないこと。芽亜凛は頷きながら相槌を打ち、身構える。


「単刀直入に言うとね、わたし、高校辞めようかと思ってて」

「えっ?」


 階段の踊り場で、逆さまにした箒を指に乗せて遊ぶ生徒たちとすれ違った。背後でカタンと、箒の倒れる音がした。


「辞めるって言うか、辞めることになるって言うか」


 袋の結び目を握る指先が痛む。千里のことだから、家庭の事情による転校かと芽亜凛は思った。過保護なご両親が娘を心配して出した結論。

 誘拐事件の犯人――と思われる人物――はまだ捕まっていないのだ、再び巻きこまれる前に街を離れようという気持ちは、わからないでもない。

 芽亜凛は両手を使って袋を支えて、指の疲れを緩和した。裏口のドアを開けて外通路に出ると、ゴミステーションから担当の先生が駆け寄ってくる。先生は「重かったでしょ」と笑いながらゴミ袋を回収していった。


「殺そうかと思って」


 ぶわりと吹きこむ初夏の熱風から顔を背けて、千里はばたんと扉を閉める。

 殺す……? 千里は今、殺すと言っただろうか。本当に、千里の口から漏れた言葉だっただろうか。芽亜凛の心の声ではなく……。


「芽亜凛ちゃんはさ、わたしに言ってくれたよね。生きてって。――うん、生きるよ。めぐっちの分まで、超頑張って生きるよ。でもさ、やり返さないと腹の虫が治まらないって言うのかな」


 潮が引くように、千里の顔から笑みが消えていく。


「わたし、響弥くんを見つけたら殺しちゃうと思うんだよね。ていうか、殺してやりたい。だってわたしとめぐっちのこと殺そうとした人だよ? だったらいいじゃん。わたしが殺す番になっても」


 芽亜凛が口を挟まなくても千里は淡々と話し続ける。

 ……まだ悪い夢を見ているのだろうか。芽亜凛はそう思い、瞳をきつく閉じた。千里の声は、続いている。現実という悪夢は覚めない。いつだってそれは、芽亜凛の視界に広がっている。


「わたしさ、死刑制度には結構賛成なんだ。犯罪者が人を殺しておいてのうのうと生きてるなんておかしいよ。わたしも……響弥くんを殺したら死んでもいいって思ってる」


 階段からばたばたと男子生徒が下りてくる。門番のように裏口の前に立っている芽亜凛たちを見てぎょっと佇み、千里は冷めた目で彼からゴミ袋を回収した。

 殺すだとか、死んでもいいだとか、千里はそんなことを口にする子ではなかったはず。図太くそして、他人に興味を抱かない千里が、たった一人の少女の死によって芽生えたはじめての感情に突き動かされている。制御不能になる前に芽亜凛に打ち明けた、殺意という名の黒い感情に。

 千里は外にゴミ袋を渡して戻ってきた。芽亜凛は膝丈スカートの横で拳を握りしめる。


「……友達を人殺しになんてできない」


 祈るように、願うように、誓うように、芽亜凛は言った。

 千里は「へ?」と、上擦った声を漏らす。芽亜凛は繰り返し、同じ言葉を放った。


「友達を人殺しになんてできない」

「……あ、」


 あはは……と、千里は乾いた声で笑った。


「そっか、芽亜凛ちゃんなら賛同してくれるかなって思ったんだけどな。……やっぱ駄目かぁ!」


 思いを告げて断られたとき、気にしないでと相手を気遣うみたいに。無理に明るい声を上げる千里に胸が痛んだ。

 芽亜凛は言葉を選び直す。これが最良の答えかはわからない、けれど……今日まで悩んでいたことじゃないか。芽亜凛は覚悟をこめた瞳で、千里の強張った顔を映した。


「私が……やる」


 芽亜凛が死なないという約束を守り、千里が生きるという約束を果たし、友達の手を汚さないで済む選択肢。

 神永響弥を見つけ出して、殺す。そうして死のループを断ち切る。すべての約束を果たして、すべてをやり直すにはもう、これしか残されていない。


「私が、彼を殺すわ」

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