いらない頭脳
渉が病室のドアを開けると、ベッドの傍らに腰掛けているゴウと、上体を起こして横たわる個室の主、朝霧がゼリーを食べていた。ベッドに固定されたテーブルの上に詰め合わせの箱が開いており、二人とも使い捨てスプーンでその中身を食べている。
ゴウは渉を見てぱちくりと眉を持ち上げた。
「んーっ渉ぅ! やっほー」
「おう」
「久しぶりだね」
明るい声で迎えるゴウと、いつもと同じ微笑の朝霧。リキの言っていたとおり、二人とも渉の予想以上に元気なようだった。ぬいぐるみや花々で飾られた朝霧のベッド周りを見て、渉はここへ来るまでの様子に合点がいく。
病院の出入り口で一組、エレベーターで一組、病室前の廊下で一組の藤北の生徒たちとすれ違ったが、おそらく全員が朝霧のお見舞いだ。各々のグループには先輩後輩同級生、男子も混ざっていた。長居はしていないようだが、ちゃっかり差し入れを置いてきたのだと窺える。
人気者だな……。渉は心で呟いて、丸椅子に腰を下ろした。
「えっと、怪我の様子は……」
「うん、食べづらい!」と、ゴウは右手でスプーンを挙げる。
「そっか、ゴウは左利きだもんな」
「食べさせてよー」
「えぇ……」
顔をしかめつつ、渉はスプーンを受け取ってゴウの口に運んでやった。彼の左腕はぐるりと包帯が巻かれていて、動かさないよう首から吊るされている。
「ものは食えるのか?」
「うん、僕はね。朝霧はまだお粥でしょ?」
「利き手が使えないほうが不便だよ」
渉はぎゅっと口をつぐみ、「あ、そうだ」と思い出したように鞄から二箱の差し入れを取り出した。
「何がいいかわかんなかったから、とりあえず」
怪我で入院した友人に差し入れをするなら何がいいだろうかと、渉はショッピングモールで考えた。
本や雑誌は暇潰しには最適……だが荷物になるし、消費できるもののほうがいいだろう。アイスやゼリー、果物も浮かんだが、ゴウは腕を、朝霧は脇腹の怪我だ。まともに食事ができるのか、二人の状態がわからない以上、下手な差し入れはできない。
悩みに悩んだ末、渉はホットアイマスクを選んだ。
「無難だね」
「渉っぽーい」
「褒めてるのかそれ」
愛らしい人形や花が置かれているのを見るに、どうやら被っていないらしい。危うく同じゼリーを買おうとしていた。
「なんでお前はここにいるんだよ。病室違うだろ」
「だってリキが来るまで暇なんだもん。喋り相手もいないし」
ここへ来る前にゴウの病室を覗いたが、彼だけいなかった。それでもしやと朝霧のもとに向かったら、案の定というわけだ。
「朝霧ってすごく面白いんだ。僕の話にも付いてこれるんだよ、すごくない?」
「へえー。どんな話」
「アニメとか漫画とか、ゲームとか! 僕の好きな『時を越えてメモするよ』略して時メモのシリーズ全部やってたり、最新作もDLCまで攻略済みなんだよ。すごくない? 僕はまだ落としきれてないんだよ、今作のメインヒロインはシリーズでも最難関と言われていて――」
話を振ったことを後悔した。ゴウはひとしきり喋り倒すと、
「僕は見直した、ううん、自分を恥じたよ。まさか一位の男がオタク文化に精通しているなんて……侮っていたね。別世界の人間だと思っていたよ。世のなか勉強ばかりじゃないんだ」
「それは朝霧が勉強もゲームもできるという話であって、お前が勉強できないのはまた別だろ」
「勉強なんてできなくていいんだよ、僕はイケメンの同志を見つけたんだからさ。それだけで希望が持てる!」
「何の希望だよ」
「日本のオタクはまだまだこれからだってことだよ!」
ゴウが右手でガッツポーズをすると、病室のドアが開いて「こら、ゴウくん!」と看護師さんが顔を出した。
「外まで声聞こえてるわよ。もうすぐ弟さんも来るから病室に戻りなさい。包帯交換するわよ」
「あっ……すみません。戻りまぁす」
ゴウはへこへこと頭を下げて席を立つ。じゃあね、またねと渉と朝霧に別れを告げて、彼は自分の病室に戻っていった。
騒がしい奴がいなくなり、しばし沈黙が訪れる。渉も帰ろうかと腰を上げかけたが、朝霧に止められた。
「一人で出歩いたら危ないよ」
響弥のことかと一瞬で思ったが、言わないでおいた。休学届が出されて以来、彼とはまともに連絡が取れていない。今頃どこで何をしているのか……最後に見たのはいつだったか……。
大勢で病室に行くのは迷惑かと思ったが、すれ違った生徒を見る限りみんな友達と来ているようだ。次は清水たちいつメンを連れてこようと、渉は頷く。
朝霧は自分のこめかみを人差し指でつんと指した。
「望月くんは平気? レントゲンは撮った?」
「ああ、なんともなかったよ」
「頭のなかに何が詰まってた?」
「何って……骨と脳?」
「実際に開けてみないとわからないって思わない?」
にこりと不敵に微笑みながら、朝霧は不気味な質問をする。
「何が言いたいんだよお前は」
「自分の頭のなかが歯車でできてるかもしれないってことだよ」
「んなわけないだろ……」
「見てみないとわからないだろ。きみの頭のなかにはX線に映った骨と脳が詰まってるかもしれないし、実際は機械で動いてるかもしれない。箱の中身は開けてみてはじめて結果が証明されるんだ」
「……意味がわからないんだが」
「橘さんに聞いたよ、きみには別の記憶があるって」
朝霧は食べ終わったゼリーの容器を重ねると、ベッド下のゴミ箱にすとんと落とした。渉はぽかんと口を開いている。
「橘に……?」
「あれ、いつのまに呼び捨てにする仲になったの?」
「放っとけ」
キザキの一件でほんの少し距離が縮まっただけである。が、それは置いておいて。
「いつ話したんだよ」
「一昨日」
「一昨日……?」
一昨日は事件後の全校集会があった日だ。確か芽亜凛はその日欠席していた。登校もしないで、朝霧のお見舞いに行っていたのか。
「掲示板の陽動がうまく行ったら教えてもらう約束をしてたんだよ」
「個人情報が欲しいってあれ俺のことかよ……」
「ほかに誰がいるんだよ」
普通は本人の情報を欲しがるだろと思ったが、心のなかに留めておく。朝霧はあのとき感じたのだろう、渉と芽亜凛の会話が読めない、二人には何かがある、と。知らないことを知りたがる、凄まじい好奇心だ。
「面白いことを聞いたよ。彼女はきみと同じ記憶保持者だとか、別世界を渡ってきたとか」
「ああ……知ってる」
執拗に記憶の探りを入れてくる芽亜凛の態度と反応から、とっくに察していたことだ。彼女との繋がりは自分でもわからない。どうして自分だけ記憶があるのか、どうして自分だけ『別世界』の夢を見るのか。
朝霧は、渉の頭のなかをシュレディンガーの猫で揶揄していたのか。お前の頭は他人と違うと言いたいのだろう、まったく嫌味な奴だ。
「もしこのチカラが犯人に渡ったらどうなるのか、とも言っていたね」
聞き捨てならない台詞だった。
犯人? 渡る? どういうことだ。
「『私が誰かを殺せば、その人にチカラが移る』って」
渉は弾かれたように立ち上がり、朝霧はその腕を素早く掴んで引き止めた。
「落ち着きなよ」
「た、橘は響弥を……」
「落ち着きなって」
響弥を殺す。響弥を殺す――芽亜凛はその結果を、仮説として朝霧に求めた。仮に犯人にチカラが移ったら、チカラの行方はどこへ向かうのか。
彼女が響弥を殺せば、芽亜凛は楽になるかもしれない。だが、それはほんの一瞬だ。巡り巡って、再び終わりのないループがはじまる。死の連鎖は止められない。
「橘さんを見張るのはそう難しくない。問題は、神永くんが今どこにいるかだ」
「心当たりなんてねえよ……」
「彼を最後に見たのはテスト三日目だったね。きみの家の前で……だろ?」
渉は丸椅子にしぶしぶ腰を戻した。
響弥――と瓜ふたつの白い人影。彼はあの日、渉を連れ去ろうとしていた。いや、たとえそうじゃなかったとしても、記憶の痛みは忘れない。渉は無意識にうなじを撫でていた。
「彼は今もあの辺りに潜伏しているんじゃないかな。きみのすぐ近く、監視できる場所だよ」
「ありすぎてわかんねえよ……」
「そうかな。犯罪者と囁かれてる彼を匿ってくれる子なんてそういないと思うけど。きみと神永くんの共通の知り合いで、きみの近くに住んでいる人物だよ」
「…………」
一人だけ、該当者が浮かんだ。だが、凛がそんなことをするだろうか。彼女なら匿うよりも先に通報しそうなものだ。正しさの象徴である彼女なら……。
「きみを守ろうとしているのかもね。羨ましいな。僕は家族に心配されたことないからさ」
朝霧はまったく羨んでなさそうな調子でころころと笑い飛ばした。同情と心配を誘うような語り口調に、渉は小首を傾げる。
「俺は朝霧がいなくなったら寂しいけど」
というか、誰にもいなくなってほしくない。これ以上友達が――朝霧は友達ではないけれど、いなくなるのは嫌だ。渉は素直にそう感じた。
朝霧は鼻で笑みをこぼして「ふぅん、寂しいんだ」と渉の言葉を面白がる。目を細めて笑う彼に射止められて、渉は気恥ずかしさがこみ上げる前にそっぽを向いた。視線の先で、病室のドアがそろりと開かれる。
「わあ。珍しいこともあるもんだ」
妹の姿を見て、朝霧は興味深そうに目を丸くした。家族に心配されたことがないという言葉は、不機嫌そうに訪れた
渉はホッと胸を撫で下ろし、「じゃあ俺はもう行くよ」と立ち上がった。
「お邪魔みたいだからな」
「そう? 気をつけて帰りなよ」
「うん、また来るよ」
「橘さんにもよろしくね」
「だから橘とは何もないって……」
横目で睨めつける渉を、朝霧はにこにこ笑顔で見送る。
「さっきの話、橘さんにもしといたから」
「…………は?」
「あは。だからぁ、神永くんの居場所の話」
きみにしたのと同じ話を橘さんにもしといたから。朝霧は笑顔で手を振った。
どうしてお前は余計なことまでするんだよ――! 憤りながらも、渉は猛スピードで帰路に転がりついた。
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