凶器

「渉くんすごい、助かるわー。早く息子に来てねー」


 キッチンに立つ凛のお母さんが、トンカツを揚げる渉の手際にうふふと笑う。

 夕方、渉は『今日一緒に夕飯食べてもいいか?』と凛にメッセージを送信して、姉の果奈を連れて百井家にお邪魔した。凛の返信は『いいよー。ちゃんと手伝ってね』という快諾であった。


 早急に凛の家へ行って確認しなければならない。もし朝霧の推測が当たっていたら、凛は今脅迫されている状況下にある――

 そんな腹の底から湧き上がる得体の知れない危機感に駆られて潜入したものの、凛と凛の母親に怪しい動きは見られない。少なくとも誰かを匿っていたり脅されていたりする様子ではなかった。まだ帰宅していない凛のお父さんもそうだろう、思い過ごしならそれでいいが……。


 凛のお母さんはキャベツの千切りを皿に盛り付けて、「凛ってば最近ダイエットしてるのよ」と渉に耳打ちした。


「へえ、そうなんですね。お昼も少なめですか」

「お弁当はちゃんと作ってるみたいよ。ほら、渉くんの分と一緒に」

「そうですか……」


 凛と果奈はリビングでノートを広げて、一緒に課題を片付けている。凛のお母さんは「もうできるわよー」と二人に呼びかけて夕飯の支度を進めた。

 渉が確認している最近の凛の昼食は、売店のご飯だ。凛のお母さんに余計な心配をさせないよう鎌をかけたが、事実と異なっているのはいったいどういうことだ。


(凛は弁当を作っている。でも学校に持ってきてないんだ。親に気づかれずに、響弥に渡しているのか……)


 馬鹿な妄想だと首を振りたい。だが凛は、


「ごちそうさま」


 と、ご飯を半分以上残して手を合わせた。隣に座る果奈が「もう食べないの?」と首を傾ける。


「うん、あとで――部屋で食べるよ」

「もう……せっかく渉くんが作ってくれたのに」


 お母さんは静かに叱責するが、凛は「……ごめんね」と渉に目配せするだけだった。丸い瞳が悲しげに揺れている。渉はううんと首を振って、自分の分のトンカツをがつがつと咀嚼した。

 凛はお盆に食器を乗せて階段を上がっていく。


「なーんか最近様子が変なのよねー。ごめんね渉くん」

「いえいえ! 凛がダイエットしたいなら俺は応援しますよ」


 口ではそう言うものの、いそいそと食卓をあとにする幼馴染の姿に、渉はやはりおかしいと不信感を募らせた。この怪しさは、もはや確定ではないのか。

 ――響弥が部屋にいて、凛はバレないように匿っている……。

 凛と家族の様子を窺うだけのつもりであったが、ここまで来たら部屋を見てみたい気持ちがむくむくと膨れ上がってきた。

 渉は、食器の片付けを「私がやるよ」と言った果奈に任せて、忍び足で階段を上る。そして凛の部屋の前で、ちょうど扉を閉めた彼女と鉢合わせした。


「びっくりしたぁ。どしたの?」

「お前何か隠してるだろ」

「……は?」


 あんぐりと開いた口は半笑いで、凛は意外と器用なポーカーフェイスで渉の腕を取った。「もう、何言ってるの。行くよ」と引く手を、渉はその場に踏み留まることですり抜ける。


「やましいことがないなら、見ていいよな?」


 えっ、と上擦った声を漏らして凛は振り返るが、渉の手はすでにドアノブへと掛かっていた。

「ちょっ――」背後で幼馴染が息を呑む。渉は音もなく扉を開ける。ふわりと鼻をくすぐった、女の子特有の甘い香り。


「もう、渉くんってばぁ!」


 凛は渉を回りこんで押し出し、扉を後ろ手に閉めた。

 白い明かりに照らされた凛の部屋は、どこもおかしなところはなく、強いて言えばベッドの上に、先ほど持っていった夕飯のお盆が置かれているだけだった。


「女の子の部屋に無断で入らないの! 怒るよ?」

「ベッドの上で食ってんの?」

「別にどこで食べようが私の勝手でしょ。何? 渉くんは私のお父さんなわけ?」

「そこまで言ってないだろ。ただベッドの上にあるのが気になっただけで……」


 言い合っている間に、ピンポーンと一階からインターホンの音が響く。


「柔道は体重管理が命なんだよ、渉くんも知ってるでしょ?」

「知ってるけど……今何キロ?」

「うわー、そういうこと言うんだ。すぐ女の子に年とか体重とか訊くよね。減らしたいって言ってるのに、渉くんの無神経」


 ぐうの音も出ない。しかし痩せたいなら部屋で間食などせず、明日の分に回せばいいのに。

 部屋に人はいなかった、だが頭のなかでは警報がぐわんぐわんと鳴っている。何かがおかしい……凛の様子も部屋の様子も、目には見えない『人の気配』が漂っている。

 凛は必死に気を逸らしたいみたいだが、渉はもう一度踏みこもうとした。そのとき、


「りーんー。芽亜凛ちゃんが来てるわよー」


 一番起きてほしくない展開に、渉の背筋が粟立った。




 幼馴染二人が急いで玄関に到着すると、ノースリーブに薄地の上着を羽織った芽亜凛が、両手を前にトートバッグを提げてかしこまっていた。芽亜凛はちらりと渉を一瞥した後、凛に視線を戻して「こんばんは」とにこやかに挨拶を交わす。


「凛に大事なお話があるの。上がってもいい?」

「ああ……えっとぉ……」


 凛の瞳がしどろもどろに泳ぐ。普段なら「いいよ」と即答して部屋で話していそうな二人の雰囲気を、渉は感じ取った。今は違う。困るのだ。部屋に入れたくないと凛は思っている。

 ――まったく朝霧の奴。余計な推測を吹きこみやがって。

 凝固した空気を動かしたのは、渉の背後から現れた果奈だった。「渉、私先に帰るよ?」と玄関に顔を覗かせて、芽亜凛にぱちりと目礼する。不意な助け船に、凛の肩の力が抜けたように見えた。


「ありがとね果奈ちゃん。おやすみー」

「おやすみー」


 片付けを終えた姉は速やかに退出していく。玄関で呆然と立ちすくむ三人の異様な空気を感じ取ったに違いない。

 何をしでかすかわからない芽亜凛よりも、ここは凛に手を貸すほうが賢明か……。渉は半分程度の気持ちで口にした。


「俺も橘さんに話がある。外で話さないか」

「私はないですけど」

「俺があるんだよ。凛と話すのはそのあとでいいだろ」


 渉は靴を履いて芽亜凛と外に出る。すっかり日が落ちた空には、白い星々が輝いていた。渉は、凛が後ろから付いてこないかを確認して、話の火蓋を切った。


「こんばんは、じゃねえよ。何しに来たんだよ」

「望月さんこそ凛に用ですか」

「俺は飯食ってたんだよ」

「じゃあもう帰るところですよね。私に用なんて、ないくせに」


 棘のある言葉が胸を刺す。それはそのとおりだが、こっちは凛の様子を探りに首を突っこんでいるのだ。知らぬ存ぜぬで帰るわけにはいかない。もう一度あの部屋を確かめるまでは……。

 渉の焦りを悟ったかのように、芽亜凛は凛の部屋の窓を見上げた。依然として明かりがついている一室。カーテンは閉め切られている。


「凛のことは守ります」


 どこか遠い場所で聞いた彼女の言葉と、今目の前にいる芽亜凛の声が耳の奥で反響する。こことは違う別の場所。あのときもこうやって、争っていた。

 記憶の内にある芽亜凛と渉はいつもいがみ合い、疑り合い、凛を挟んで衝突している。彼女とはずっと変わらない、平行線の関係だ。


「バッグに何が入ってる?」


 部屋の窓を見つめ続ける芽亜凛の隙をついて、渉は一瞬で彼女との距離を詰めた。流れるような速さでバッグを奪い取ると、薄地の割りにずっしりと重く硬い感触が遠心力で伝わる。

 取り返そうと彼女が手を伸ばす前に、渉は中身を改めた。ノートと問題集、筆記用具。それから……――

 ベージュのタオルに包まれた何かから伸びる、ピンクの柄。それは女の力でも手軽に扱えそうな包丁――いや、果物ナイフだった。


「お前……」

「返してください」


 渉はナイフを抜き取ると、タオルごとズボンのポケットに突っこんだ。こんな危険なもの、持たせておけない。ましてや凛の家に上がるなんて言語道断だ。

 中身が勉強道具のみとなったバッグを受け取って、芽亜凛は不服満点といった顔で渉を睨みつける。放たれていたのは殺意ではなく、違和感だった。


「何考えてんだよ、お前」

「望月さんには関係ないことです」

「関係なくないだろ。凛を守る? こんなもの持って、誰を何から守るって言うんだよ」

「わかっていて、それを訊くんですか?」


 バレている。渉が響弥を探りに来たことも、凛の部屋が怪しいということも。彼女もそれを狙って――見定めるために来たのだ。

 でも、殺す気はない。本当に殺すつもりであれば、鞄ではなく服に隠すだろう。こんな覗かれれば一発でアウトな、ずさんなやり方はしない。

 先ほども本気で取り返そうと思えばできたはずだ、でも彼女はしなかった。まるで渉に、止められるのを望んでいたみたいだ。


「ふ、二人とも……何してるの? 喧嘩してるの?」


 玄関先で揉めている二人を見かねてか、凛が家の外におずおずと顔を出した。睨み合う二人は取り繕うように顔を逸らし、渉は自然とポケットを庇って上から押さえる。


「別に何も。橘ももう帰るって」

「えっ……そ、そうなの?」

「また日を改めるわね」


 凛は内心、安堵しているだろう。「せめて送っていくよ」と凛は言ったが、芽亜凛は「一人で大丈夫」と踵を返した。紫黒しこくの長い髪をゆらゆらと靡かせて、転校生は夜道の向こう側へと消えていく。

 一人で大丈夫――狙われる心配がないから。

 心から安心して出歩けるという皮肉だ。武器を失い、凛の家の真偽を確かめられた彼女に、もうここにいる理由はない。

 渉はナイフの柄を手で隠したまま、「おやすみ」と言って凛と別れた。

 幼馴染にかけたこれが最後の言葉になるだなんて、このときの渉は知る由もなかった。


    * * *


 猫が無意識に鳴き声を漏らすみたいに、茉結華は「うんま、うんま」と褒め称えながら夕飯のトンカツにがっついていた。外で言い争う二人の声は二階の窓を貫通しており、地獄耳の茉結華には丸聞こえである。

 千切りキャベツの最後の一本まで食べきると、ドア越しに凛の足音が近づいてきた。扉が開き、浮かない表情の凛が茉結華を見つめる。


「このまま逃げてても拉致が明かないよ」


 自首しよう。私も一緒に行くから――なんてふざけたことは言わずに、お利口な凛ちゃんは押し黙る。凶悪犯を刺激しない冷静な思考はまだまだ健在のようだ。

 茉結華は「そうだね」と舌舐めずりをして立ち上がった。


「じゃあ凛ちゃんに、最後のチャンスを上げる」


 Tシャツをめくってズボンとウエストの間に挟んだ銃を取り出すと、銃口をまっすぐ凛の額に向けて、


「私のこと助けたいなら、人質になってくれないかな」


 かちゃりと撃鉄を起こし、茉結華はにっこりと微笑んだ。

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