辿る記憶
痛みがない、消えている。身体が動く、生きている。いったい何が起きたのだろう、想像力の貧困な頭では到底すぐには理解ができず、芽亜凛は雨に打たれながら静かに混乱していた。
真に気づいたのは家のリビングの電波時計を目にしてからである。
電波時計の日付が表示しているのは『6月1日土曜日』
芽亜凛は驚愕した。日付、時間が、戻っている。予定の何もかもが同じである。そんな馬鹿なと、スマホでもタブレットでも確認してみたが、やはり表示されているのは一週間前の日付である。
確信を持ったのはその二日後、二年E組に転入してからだ。教室にいるのは、記憶どおりの見知った生徒たち。顔も名前も席も、話す内容まで同じ。
一番廊下側の列の、前から二番目の席には三城楓の姿があり、二年C組の松葉千里も問題なく学校に来ている。自殺した生物学教師、笠部淳一は職員室に生存している。
全部全部、元通り。
芽亜凛は自分が、過去へ
放課後、教室に現れた彼女に告げた。
『千里! 今日は何があっても寄り道しないで、まっすぐ家に帰って! 絶対に、絶対に家から出ないで。家のなかにいるって、約束して』
『え? な……ななな、何?』
『お願い! 私の言うことを聞いて』
『待って待ってよ、ちょっと落ち着こう? えっと……誰だっけ?』
千里に悪意はなかった。それは、痛いほどわかっている。けれど、芽亜凛の勢いは加速するばかりで。
――このままだとあなたは行方不明になってしまうの。私と凛が一緒に家まで送るから、ねえ、聞いてる? 私は今真面目な話をしているの。あなたのことを思って、千里のためを思って言ってるの。それなのにそれなのにそれなのに、どうしてわかってくれないの。ねえ、千里……。
肩を揺さぶられ、苦悶の表情を浮かべた千里はゆっくりと後退し『えっと、……ごめん凛ちゃん。わたし先帰るね。なんかちょっと、無理かも』
胸のなかに釘を打ち付けられる衝撃が走った。
――あの千里が私を拒んだ。誰にでも笑顔を振りまいていた、あの千里が。
後日、千里は行方不明となった。
――私の言うことを聞いていれば、こんなことにはならなかったはずなのに。私の言い方が悪かった。もっと上手に話せたはず。だとしても、受け付けなかった千里が悪い。千里は私の言うことなんて聞いてくれない。
救いたくても、救えない。
――だって彼女は、凛の親友であって、私の親友ではないもの。
千里の不幸に優越感を抱く醜さと、自分自身を責める気持ちが混ざり合う。
(最低だ、私)
千里の失踪後、自分に何ができるのか考えた。警察に言っても信じちゃくれないだろう。証拠がなければ彼らは動かない。ならば、だとしたら、どうすればいいのだろう。
終始暗い顔の芽亜凛に凛は『大丈夫……きっと、見つかるよ』と寄り添ってくれた。親友が行方不明になって、心が押し潰されそうなのは凛のほうだと言うのに。
(凛……)
芽亜凛は、無理やりな笑みを作る凛の両手をしかと握り取った。
『私は凛を悲しませたりしない。凛を悲しませようとする人がいるのなら、私が必ず止めてみせる。千里のことも……必ず取り返してみせる』
だから教えて。
『私に、柔道を教えて――』
その日の体育は跳び箱そっちのけで、凛から柔道を教わった。柔道と言っても、軽い護身術程度のものだ。
『これはね、私の得意技なの。芽亜凛ちゃんにも伝授してあげる』
柔よく剛を制す――これすなわち、弱い者でも強者を制することができる。
凛が見せてくれたのは『逮捕術』と呼ばれるものだった。水流を切るような動きで突き、標的を捕らえてねじ伏せる。人体の仕組みを理解していれば、重心を利用するだけで簡単に相手を押さえ込むことができる技だった。
みんなが跳び箱に興じる横で、芽亜凛は凛と反復練習に取り組んだ。体力のない自分にもこの護身術なら扱える。いや、扱ってみせると思いながら――
視界に入った三城楓の姿に、芽亜凛は記憶を叩き起こした。柔術に夢中になっていて気づくのが遅れた。三城楓が、七段の跳び箱に挑戦しようというのに。
『三城さん!』
駄目――!
芽亜凛は駆け出しながら声に出し、跳び箱を目と鼻の先にした三城楓の真ん前に割り込んだ。三城と衝突した芽亜凛の背中に跳び箱が当たり、その衝撃で七段すべてが崩れ去る。体育館にこだました地響きを、芽亜凛は三城と床に転がりながら耳にした。
『痛っいなぁ、もう、あんた何す……ん――え?』
バラバラになった跳び箱を見て、三城楓はすぐに察した。今自分を抱き締めているこの転校生が、事故から自分を守ってくれたことに。
二人は保健室で手当し合った。
『あんたさ、あれが危ないってこと教えてくれたんでしょ? なんでわかったの』
『は、運んでるときに、おかしいなって気づいて……』
咄嗟に嘘をついてしまったが、三城楓は『へえー』と感嘆の声を上げた。
『ありがと、ね。……あたしのこと楓って呼んでよ。あたしもあんたのこと、芽亜凛って呼ぶからさ……。いいよね? 芽亜凛』
――三城楓は、とても義理堅く、仲間内を大切にする子だった。
前回同様に生物学で芽亜凛が笠部に呼ばれた際も、『先生、あたしたちこれから女子会なので、お誘いはまた今度で』『芽亜凛が美少女だからって手を出しちゃ駄目だぞせんせぇー』と、三城たちがこぞって回避してくれた。
あんなに芽亜凛を責めていた三城グループの面影はどこにもない。彼女たちが味方につくとこんなにも心強いのだと、芽亜凛は思い知った。
その後、笠部淳一は誰とも接触しなかったのだろう。翌日に当たる六月七日――前回芽亜凛が放課後にデッドエンドを辿った日――も、ぴんぴんして学校に来ていた。
昼休みはE組の教室に――前回凛をデートに誘っていた男子が、チケットを持って現れた。体育館での誘いを見ていなければ、それがチケットだとは気づかなかったし、目もくれなかっただろう。
芽亜凛は、教室にいる『あの人』と遭遇したくなくて、廊下で凛の帰りを待つついでに、教室から出てきた彼に声をかけた。
『あの……! 凛に用があったんですよね』
呼び止められて振り向いた男子は、一瞬瞳に怠惰を滲ませて見えたのは気のせいだろうか――こちらが怖気づく前に表情を一変させて『ああ、わかる?』と破顔した。
『急な用件なら、私が代わりに渡しておきますよ。……何のチケットですか?』
彼の持つチケットの裏面に芽亜凛は目を凝らす。
(六月十六日……レプスディアランド)
『ううん、自分で渡すからいいよ。橘芽亜凛さんだよね、僕はA組の
『……そうですか、よろしく』
凛を『対象』にしたいのなら、彼女に目立って近付く人間すべてが狙われる。つまり、朝霧修が殺される可能性は十分にあるのだ。芽亜凛は営業スマイルで朝霧を見送ると、すぐさまチケットの予約を入れた――
その日、芽亜凛のシューズロッカーに手紙は入っていなかった。三城グループとも仲を深めていたため、凛との仲が目立って見えなかったのだろう。
芽亜凛は、遊園地当日の二人に危機が迫った場合どう守ろうかと考えていた。
「けれど、遊園地では何も起こらなかったんです。私は陰から二人の無事を祈るばかりでしたけど、何も起きなくてよかったと心から思いました。……でもその翌日」
月曜日。朝霧修が無断欠席および行方不明となった。いつどこで彼と彼が接触したのか、思い当たるのは帰り道しかない。
「彼が行方不明になったのはその子のせいだ、といじめた女子生徒が失踪……後日、二人は遺体となって見つかりました」
「犯人はやっぱり、前のと同一人物か?」
芽亜凛は深く首を振った。被害者に揺れは存在するが、主犯は共通している。
「橘は……殺されたのか?」
「……はい」
死因は、絞殺。
「七月に入ったばかりだったと思います。私は女子生徒に呼び出されて、近くの公園まで行きました。前回教師が自殺していたという、その公園で……」
『二人きりで話がしたいんだけど、いい?』
そうメールを送ってきたのは、三城楓。
芽亜凛は自分の首元に指を触れる。
「背後から縄で、首を絞められて……おそらく自殺に見せかけて殺されました。先生の死が、私にすり替わっただけですね……」
「それじゃあ犯人は一人じゃないってことか?」
「いえ、その子は――」
三城楓は、
「スマホを盗まれただけでした。彼女は『呪い人』についてクラス会議が開かれた時にも、私のことを庇ってくれましたから……。彼女に抱いていた信頼を、利用されたわけです」
自分に好意を持っている相手を操るのは容易いことだろう。三城楓は彼に、恋をしていたのだから。
「橘はいったい、何回殺されたんだ」
「私が今まで死んだ回数は、四回。二回殺されて、二回自害しました。刺殺と絞殺。失血死に飛び降り」
こうして口に出してみると妙に軽々しい響きだと思った。
他殺、他殺、自殺、自殺。ここではいったい、どんな死に様を、誰に見せるのだろう。
「辿ってきた残り二回も、道のりは似たようなものです。私の救いたい友人の親友は、次こそはと冷静に話しても結果は同じ。彼女は私の話を真剣に聞く気など、はなからなかったんです。遊園地に誘った男子生徒も同じです。どちらも、私の忠告を聞いてはくれませんでした」
凛の親友――松葉千里。凛を遊園地に誘った少年――朝霧修。そのどちらの行く末も、少なくとも芽亜凛の口頭では解決できない。それなら力技で防ぐしかないのだろうかと、防犯ブザーで対処に動いたのが今回だ。
千里を守れなかった罪滅ぼしに、凛とその幼馴染・望月渉をくっつけようとしたこともあった。凛と朝霧の遊園地デートに、彼を巻き込んだのだ。
『渉くんの恋、私が協力します――』
二人は付き合うことになった。その結果、今度は渉が失踪した。
――私が動くたびに、人の生死を揺るがす。誰にどんな影響を与えるのかわからない。
――ならば何もしなければ?
そう思い、次は千里の行動を制限しなかった。極力見守ることに専念し、運命の流れに身を任せる……。
それでも千里は、いなくなってしまった。
――自分が干渉してもしなくても、松葉千里は連れ去られる。
次は行動で示そうか。ここを去るのはいつにしようか。体育の跳び箱は利用できないだろうか。あの事故で亡くなれば、みんなの記憶に残るはずだ――
故に芽亜凛は、跳び箱の一件にわざと自分から巻き込まれた。
だけど死ねなかった――奇跡的に直撃を免れてしまった。
皮肉なことに、受け身というのは自然と出てしまうもののようだ。柔道を教えてくれた、いつかの凛の教えが影響して、芽亜凛は命拾いしたのだ。
(倒れてからの展開は、予想外だったけれど……)
あのとき頭上に降ってきた彼の言葉を思い出す。
『俺が保健室まで運ぶよ。凛ちゃん、いいよね?』
いいわけない。何をする気なの、神永響弥。まさか保健室で、殺す気なの――?
響弥に抱えられた芽亜凛は、その親友の望月渉と三人で保健室に行った。手当が終わるまで彼らはその場にいた。ああ、四度目の私はここで殺されるのだろう。保健教諭と望月渉が去った後で、私は神永響弥に殺されるのだと思った。だが、彼は大人しく踵を返した。その手を咄嗟に、芽亜凛は掴んだ。
――ふたりきりになった保健室で芽亜凛は言った。
『何も、しないんですか』
『……えっ……』
『私に、何もしないんですか』
神永響弥はなぜか頬を紅潮させた。
『し、しない! しない! おおお俺、芽亜凛ちゃんにフラれてるし! 保健室だからって手を出すとかそんなことしないし!』
転校初日、五人の男子が芽亜凛に告白してきた。昼休み、掃除時間、ホームルーム前、ホームルーム後、放課後の凛と合流する前。響弥が接触してきたのは昼休み終了前のことだった。凛と別れた芽亜凛に、直前まで渉と一緒にいた響弥が廊下で声をかけたのだ。
――芽亜凛ちゃん! 俺と、付き合ってください!
――無理よ。
芽亜凛は顔だけ振り返って、横目で断った。過去を含め、断るのは三度目だったりする。
芽亜凛は立ち上がり、保健室のドアに鍵をかけた。
『……芽亜凛ちゃん?』
『殺すんでしょう。百井凛に関わるすべての人間を』
『殺すって、俺が?』
『E組のオカルトはオカルトもどき。そのオカルトもどきを利用して、あなたが何をするつもりなのか、私は知っています。……あなたの行動はすべて読めています。だから、そんなことは、もうやめて』
千里は連れ去られただけでまだ生きている。今ならまだ間に合う――
『それ、本当に俺なの?』
『……ふざけないで』
『ふざけてないよ、ふざけてない。……会って話してみる?』
響弥はにんまりと笑ってイヤーカフを外し、両手で目元を覆い隠した。次に素顔を見せたときの彼の目付きは、まるで別人のそれだった。
『こんなの見せるの、芽亜凛ちゃんにだけだよ。黒髪の私なんて、すごーくレアなんだから』
間違いなくあの人だと思った。粘着テープでぐるぐる巻きにした芽亜凛を家に捕らえて監禁して、最後はナイフで滅多刺しにした、白い髪のあの男だ。
人殺しの目だ。
彼は机上にあったカッターナイフを手に取り、『でも少し、違和感が足りないか、な――!』と、自身の左の手のひらを斬り裂いた。止めるまでもなく行われた自傷行為に、刺殺された瞬間がフラッシュバックする。芽亜凛の身体がガタガタと震える。
『アハッハ……怯えないでよ芽亜凛ちゃん。私を説得するんでしょ? これくらいやらないと私は止まらないよ』
『し、止血を……止血を……!』
芽亜凛はハンカチを取り出して、彼の手を強く押さえた。血を見ると頭がくらくらする。とにかく目の前の流血を止めたい一心だった。
『汚れちゃうよ?』
『返さなくていいです。早く手当――』
気づけば彼の顔は、前髪が触れ合うほど至近距離にいて、
『やばい、興奮する』
『――っ!』
唇から覗いた赤い舌にゾッとして、芽亜凛は保健室を飛び出た。恐怖と羞恥で顔は真っ赤になっていただろう。
あの日の保健室の出来事は誰にも言えない。神永響弥が二重人格だとしたら、彼に罪の意識がないことになる。余計警察では止められなくなる。だから、ネコメや萩野にも黙っている。
「――本当に四回ですか?」
ネコメの声に、芽亜凛は顔を上げた。
「どういう意味ですか」
「監禁されて刺殺された以前に、あなたは犯人以外の人間に殺されているはずです」
はじめて殺される前に、いや、はじめてだと思いこんでいる以前に殺されていた?
どうしてそう言い切れるのだと、芽亜凛は疑問を返す前に記憶を辿ってみる。あの人に殺されたのは二回、自殺したのが二回。
しかし、それよりも前で、別の誰かに殺された――覚えがないと言えば、嘘になるのだろうか。
「でも、夢だと思ってます」
現実で転校する以前に、芽亜凛は藤北に転校してくる夢を見ていた。そう、たった一日。数時間の出来事に過ぎない。――もし、それを夢と思い込んでしまうくらい自然に繰り返されていたのだとしたら。
「話してごらん、その夢の話を」
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