道――ルート

 夢のなかの様子はとにかくリアルだった。雨粒の冷たさも、跳ねられた水の染みも、あの人が差し出してくれたタオルの温もりも――すべて生々しかった。


『はじめは緊張すると思うが、……すぐに慣れる』

 職員室から芽亜凛と合流し、教室に向かう石橋先生が隣でぼやく。元より口数の少ない芽亜凛にとって、石橋のように寡黙な教師は当たりだった。――前の学校の担任は口先だけの熱血漢で、生徒の名前を略して呼ぶ不愉快極まりない教師だったから。

 石橋に、教室へ一緒に入るか後から入るかを問われ、芽亜凛は後者を選んだ。廊下で一人呼吸を整えて、先生の声を合図に教室のドアをくぐる。何人かの息を呑む音が教壇まで聞こえてきた。三十名もの『人の目』に、芽亜凛は顔を伏せたくなる衝動をこらえた。

 黒板に名前を書いた石橋先生に『橘さん、自己紹介』と言われ、芽亜凛は慌てて口を開く。


『あっ、橘芽亜凛ですっ……よろしくお願いしむ――っ、よろしくお願いします』


 ――自身の鈍い挙動や本来の消極性もそのまま再現されていて、現実で転校してきたときデジャヴを感じたものだ。

 学力重視のこの学校でならうまくやれると思っていたのに。

 芽亜凛は出だしから恥をかいてしまったと肩を落として席に着き、スッと視界に入り込んだ手に目を奪われた。伸ばされた手を辿ってみると、隣の席の少女がふわふわと微笑んでいた。


『よろしくね橘さん。私、委員長のリンです』

『あっ、えと、橘芽亜凛です』

 そろりと右手を伸ばすと、自分よりも一回り小さい彼女の手が、予想以上の力と熱でぎゅっと握り取った。在り来りな表現だけれど、太陽みたいな子とは彼女のような子を指すのだろうと思った。


 ホームルームが終わってすぐ『橘さんの名前ね、私と同じなんだよ』と彼女は言った。彼女は次の授業で使うノートを取り出すと、薄桃色のシャーペンで『百井凛』と書いた。

『百井、凛さん』

『えへへ、うん! 百井凛――凛でいいよ。そっちのほうが呼びやすいでしょ?』

『じゃ、じゃあっ――じゃあ私のことも……芽亜凛って呼んでほしい、かも』

『うん、わかった。芽亜凛ちゃんね。これからよろしくね』


 力いっぱい頷いた芽亜凛の顔に、影が落ちる。そちらを見上げた凛の表情から、ふっと笑みが消えた。芽亜凛も釣られてそちらを見た。

 二人の間を割るように佇んでいたのは、虚ろな瞳で芽亜凛を見下ろす男子生徒。


『……スのためなんだ……クラスのため……』


 男子はぶつぶつと唇を動かしていた。耳に這入る呪詛は次第に大きくなる。クラスのため……そうだクラスのため……クラスのため……クラスのため……クラスの……。

 あの、と芽亜凛が発するよりも男子生徒が右ポケットから何かを取り出すほうが速かった。空いた手で芽亜凛の肩を押さえつけ、心臓に突き立てられたのは鋭く尖ったハサミだった。


柿沼かきぬまくんっ!?』

 凛の叫び声でクラスメートの視線が集まる。胸を押さえる転校生と赤くぬらぬらと輝く刃先に、教室中が悲鳴一色に染まる。

『何やってんだ馬鹿っ!』と少年を取り押さえた生徒の名が望月渉というのは後々知ったことだ。そんな声も、今は自分の心音にかき消されていく。


 椅子から崩れ落ちる芽亜凛の身体を凛が抱き留めた。彼女が必死に芽亜凛の名を呼んでいる。芽亜凛ちゃん、しっかりして、芽亜凛ちゃん。その声は聞こえなくても、確かに届いていた。

 激しく鼓動が乱れ、そのたびに空いた穴からどくどくと血が溢れていく。死ぬという自覚はなかった。ただ眠りにつくような感覚が静かに迫りくる。

 見慣れない教室の天井と、苦しそうな凛の素顔、彼女を照らす白い光が、芽亜凛が意識を手放すまで見続けた景色となった。


「――それが芽亜凛さんにとっての一周目ですよ。本来あるべきルートを、あなたは死ぬ直前まで歩いていたはずです」


 くしゃりと笑むネコメの瞳には憐憫がはらんでいる。

 あの後芽亜凛は、自分がどうなったのか正確に思い出せないでいた。気づけばベッドの上にいた気もするし、六月一日の雨に打たれていたような気もする。しかしそう思うようになったのは、あっという間に過ぎ去った土日も転校初日に受けた痛みも、全部悪い夢にしてしまえという思考が働いていたからかもしれない。あれが本当に現実なのだとしたら――


「……つまり、一度目の死は二回目で、二度目の死は三回目だったと言うんですか? その根拠がわかりません」

「簡単な話です。あなたはその少年から受け継いだのですよ」


 ――受け継いだ……? 芽亜凛は思わず目を丸くした。


「前任者がその少年だったわけです。何周したかは蛇足ですが。不思議なことに、


 ぽかんと、芽亜凛の口が自然と開いた。萩野も同じ顔をしているだろう。信じられるはずがない、そんな話――

 だがネコメの言うことが真実なら、あの男子生徒の奇行にも説明がつく。現に彼は、周回済みの芽亜凛が転校してきたときにはもう、露知らずといった顔で着席していた。芽亜凛を殺したことを覚えていない――否、殺した事実はないことになっているのだ。

 その法則を認めてしまったら、自分の知らないところで、誰かが何周も何年も時を繰り返していたことになる。それは途方もない考えであり、ネコメの言うとおり蛇足でしかない。そしてそれが今、芽亜凛の番になった、と。


「もしターゲットを殺そうとしたことがあるのなら……危なかったですね。そのルートはバッドエンドです」


 つっと芽亜凛の背中に嫌な汗が伝う。

 ――一度だけ、殺意を抱いたことはあった。この人を傷付けることができたなら、これ以上犠牲者は出ない。凛が悲しむことはなくなると――そう自棄やけになったことがあった。

 芽亜凛の顔色を見て、ネコメは仄かに目を細める。仕方のない子だと呆れているように見えた。ポーカーフェイスは身につけたと思っていたのに、ネコメの前では丸裸にされてしまう。


「ネコメさんも、クラスの誰かに殺されたんですか……?」


 恐る恐る尋ねた萩野のほうにネコメの視線が向く。ネコメはふふっと楽しげに笑い、「初恋の相手に殺されるのもロマンチックなものですよ」と言った。芽亜凛と萩野は笑わなかった。笑えなかった。


「私はね、このチカラは、死に近い者が授かるものだと思っています」

「藤ヶ咲北高校二年E組の生徒で、殺された者に宿る……ということですか?」

「二年E組で一番死に近い者は――呪い人だと疑われて、誰かから殺されてしまう生徒。呪いが本当にあるのだとしたら、そのきっかけは数年に渡った殺戮による負の溜まり。殺された生徒たちの怨念とも言い換えられます。だからこのチカラは、


 呪い人と疑われて殺される自分自身と、そう仕立てるために殺される友人たちが殺されないよう――殺戮から身を守るチカラ。


「じゃあ私は……呪い人と思われて殺された……?」

「芽亜凛さんの話では、芽亜凛さんのご友人が呪い人にされているようですがね。目標と異なる人物が授かるケースは珍しくありません」


 だから誰も殺してはいけないよ、とネコメは続け様に言う。


「あなたがしていけないことはただひとつ――人を殺してはいけない。それだけのことだよ」


 ね、簡単でしょ? とまで言いたげにネコメは首を傾げた。ふざけて見えるが、刑事である彼が言うと真に迫るものがあった。

 人を殺してはいけない――それはチカラを持つ者としてという意味でもあり、一人の人間としての意味もある。


「……本当にお詳しいんですね、刑事さん」

「時をかける刑事ですからねぇ」


 常識的に考えてまず信じられない話を、彼はやはりあっさりと言ってみせるのだった。摩訶不思議な現象を体験した者にとって、これがネコメの現実であり、芽亜凛の現実だ。

 芽亜凛はテーブルの下で組んだ指に力を入れた。


「ネコメさんは、時間移動についてどう思われますか。肉体や精神、記憶が転移しているのか、それとも世界そのものが変わっているのか……」


 芽亜凛は、世界そのものだと思っている。

 ネコメは顎に手を当てて軽く唸ってみせた。


「多世界解釈ですかぁ、私は違います。私は今いるこの世界を、一本の線だと考えていますからね」


 失礼、と言ってネコメは自分のネクタイを取った。紅色のネクタイの両端を持ってピンと張ってみせる。


「この赤いネクタイを、芽亜凛さんの生きる世界線としましょう。一生と言い換えてもいいです。両端がそれぞれ、生と死です」


 そして――ネコメはネクタイを緩ませて輪を作り、テーブルの上に置いた。


「この輪が、今あなたのいる道です。私はと考えています。輪のなかにいる以上、あなたは本来の死に辿り着けず、分岐のずれた初期位置まで戻されてしまう」


 ネコメは交差している部分に指を置き、とんとんと叩いた。


「私はこの輪を『ゼロの輪』、本来の道を『イチの線』と呼んでいます。この解釈なら、遡っているのは精神、記憶、もしくは――魂かもしれませんね。とは言え、私もこのとおり十年生き続けていますので、今のは憶測に過ぎません。もしかすると、私の輪はまだほどけておらず、死んだら高校生まで戻ってしまう……なんてね。そんなのはごめんです」


 肩をすくませて、ネコメは大げさに身震いした。よく回る舌は、誰かに説明するのははじめてでないことを証明しているようだ。

「ちょっと待って」と萩野が口を挟む。


「十年前って……ちょうど『呪い人』が絶たれた年じゃ……?」

「絶たれてませんよ」


 という返しに、芽亜凛と萩野が「えっ……」と声を揃えた。


「抗ってきた生徒がいたから、犠牲者が出なかっただけです。今の芽亜凛さんのようにね」

「ネコメさんは一人目だったんですか……?」


 図書室で調べた藤北の歴史と当時の新聞の切り抜き、その内容はおおよそ芽亜凛の頭のなかに入っている。ネコメのいる年から犠牲者が出なくなったということは、チカラが生まれたのはそのときであり、抗ってきたのはネコメ自身だ。


「さあ、どうでしょう。俺よりも前にチカラがあったとしても、その人が抗わなければ同じことです」


 ネコメは惜しいものを失くしたみたいな苦笑いを浮かべる。ちょうど十年前に高校二年生だった彼の歳は二十六歳――自分のことを『俺』と言うときのネコメの素顔は、今より遥かに幼く見えた。


「難しい話をする気はありませんよ。ただ私はね、今生きる世界のほかにたくさんの世界があって、何人もの友人が死んだままだなんて、ね? そんなのは苦しいでしょう――?」


    * * *


 芽亜凛はネコメの携帯番号を入手した。端末には登録せず、貰った名刺に番号を記入してもらっただけだが。どうせ暗記しなくてはいけなくなるので、覚えたら名刺は処分してしまうだろうけれど、それでいいとネコメは言ってくれた。

 ネコメを見送る手前、玄関で芽亜凛は訊く。


「ネコメさんはこれからどうするんですか」

「私は本部に挨拶を済ませてきます。呼ばれたばかりで、まだ誰と組まされるかも知らないんですよ」


「呼ばれたばかり?」と萩野が眉をひそめた。


「私がこちらに来たのは、昨夜火災があったからなんです。藤北の生徒の死は、私の担当すべき事件ですからねぇ。たとえそれが事故であっても、疑ってかかるのが刑事なんですよ」

「それじゃあ、学生のバイトをよく見るって萩野くんに仰ってたのは嘘ですか」


 芽亜凛が指摘すると、ネコメは「いやぁ、一本取られましたねぇ」と頭に手をやり笑った。ようやく気づいたのか、萩野は今になってぎょっとする。

 今まで聞いたこともすべてデタラメだったらどうしようと不安になりそうだが……、ネコメの話し方は誘導時の曖昧さとは異なり、何度も断言していたので、おそらく嘘は言っていないはずだ――と思いたい芽亜凛である。


「でも、火災がなければ私は今頃、地方に飛ばされたままきみたちとも会っていません。石橋先生からも本部からも呼び出されなかったでしょう。不幸が幸運に一変することもあるってことですね」


 火災を引き起こしたこのルートが、芽亜凛にとってはじめてのことだと知ってか知らずか。知っていなくとも、何だか励まされている気持ちに芽亜凛はなった。


「……いい相方に巡り会えるといいですね」

「ええ、とても楽しみです」


 ネコメは口角を上げて含み笑いをする。芽亜凛はに二度、ある刑事から個人的な聴取をされている。あんな失礼でポンコツな刑事とは組まないでほしいと勝手ながら思った。


「芽亜凛さんはどうします?」

「……私はもうしばらく残ろうと思います」


 萩野にも約束してしまったし、引き続き学校には行かないで今いるルートがどう左右されるのか、もう少し見てみるつもりだ。

 ネコメは玄関で靴を履くと、「いいですか、芽亜凛さん」と言って振り向いた。

 振り向いたネコメは、笑みを浮かべていなかった。


「選択を間違えてはいけないよ」


 きみは誰一人だって殺せないのだから。

 刑事はそう言って、妖しく笑った。

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