√2
「まるで夢のなかの出来事を、そのまま現実に落としたような光景だったと思います」
芽亜凛にとってはじめて迎えた、藤ヶ咲北高校転入初日。六月三日、月曜日。
二年E組の教室前で、深呼吸を十分に済ませた芽亜凛は、鞄を両手に持って前に提げ、担任の石橋先生の紹介の元教壇の前に姿を見せた。黒板に白いチョークで転校生の名を書いた石橋先生は、芽亜凛に自己紹介を促す。
『あっ、橘芽亜凛ですっ……よろしくお願いしむ――』
噛んだ唇を、手で隠した。せり上がった体温で首の後ろまで熱くなる。
『っ、よろしくお願いします』
教室中から生暖かい拍手を浴びながら、芽亜凛は指定された席に向かった。下手くそな挨拶に顔は真っ赤になっていただろう。うつむきがちに席に着くと、隣の女子生徒が手を伸ばした。
『よろしくね橘さん。私、委員長の凛です』
『…………』
『わ、私の顔に何か付いてる?』
『……ううん。よろしくね百井さん』
芽亜凛は、差し出された小さな手を握り返した。
『私のこと、芽亜凛って呼んでくれる?』
『え、いいの? うん、じゃあ、芽亜凛ちゃんで』
――ネコメの前では言っても構わない、だが萩野が聞いているため、芽亜凛はすべての人物名を伏せて語る。
「その子は、いろんなことを教え、助けてくれました」
授業の進み具合や、校舎の近道。藤北と前の学校との間に生まれる、授業内容や方針の差。芽亜凛が教師に指名され、その互換性に戸惑っていたときも、凛はノートを通してこっそりと教えてくれた。授業の合間も、移動教室の際も、凛と芽亜凛は一緒に行動した。彼女が構ってくれるおかげで、引っ込み思案な芽亜凛でも、一人になることはなかった。
『じゃ、行こっか』
昼食を済ませた昼休み、凛は約束していた校内案内に連れて行ってくれた。教室の前や廊下を通るたびに、人の視線を感じてうつむく芽亜凛の手を、凛は『大丈夫だよ』と言って優しく握った。柔らかくて、芯があって、溶けそうなくらい温かかった。
『凛ちゃん凛ちゃん、その子転校生? 超可愛い!』
『あ、
凛は、消極的な芽亜凛に代わって、絡み来る男子たちを撒いてくれたりもした。
『あ、あの……さっきの、髪が跳ねてるほうの男子って……』
『ん、響弥くん? えっと、C組の
『……少し』
『へえー! 響弥くんにも春が来たかぁ』
普通の女子高生がするような他愛もない話をしながら、凛と芽亜凛は校舎をぐるりと回った。凛が柔道部に所属していること、幼馴染の『渉くん』のことが好きだということ、そして選択科目で美術を選んでいることはこのとき知った。自分は音楽科を選んでいたので、凛と離れてしまうことを心寂しく思った。選び直せるのなら、美術を選びたい。
「なかでも印象的だったのが、『呪い人』の話です」
ノロイビト。藤ヶ咲北高校二年E組にまつわるオカルト、怪談、黒の歴史。
呪い人とは、呪われた生徒を指す名称で、その生徒と親しい人間は災厄に見舞われるというのだ。十年前に途絶えた伝承が、いまだ二年E組の生徒たちに告げられているらしい。
――この学校は何を恐れているのだろう。芽亜凛は呪い人そのものでなく、今でも伝えられるその風習こそ不気味だと感じた。
「そして、その子の親友が行方不明になったのが、夕方のことです」
百井凛には、
千里が行方不明になったという話を凛から聞いたのは、次の日の朝のことだ。
『ちーちゃん……どうしちゃったんだろう』
――脳裏をよぎったのは、凛の言っていた『呪い人』の話……。
「信じてなかったとは言え、転入したばかりのことだから、さすがに不安になりました。……行方不明を知ったその日にも、事件は起きました」
六月四日、火曜日。
一時限目の体育で、二年E組の
誰も挑もうとしない七段の跳び箱に、運動神経のいい三城が囃し立てられて手をついた途端、木材のピラミッドは牙を剥いた。
七段の跳び箱は雪崩のように崩れ、彼女の身体を覆い尽くした。手足骨折と頭部への打撲により、三城楓は意識不明の重体――
『楓の怪我ってもしかして……E組の――』
『やめてよ
『ご、ごめんね
――今思えば、一部の生徒たちは、この頃から呪い人を示唆していたように思う。
「その次の日は何もなく終わりましたが、翌日の生物学で……」
六月六日、木曜日。
生物学の授業終了後、芽亜凛は生物学教師――
現れた笠部はメスを片手に、芽亜凛を脅した。
『騒いでくれるなよ。これは仕方のないことなんだ。この世は弱肉強食なんだよ。強いものが弱いものを食らう……何ひとつおかしくはない、自然の摂理だ』
笠部はメスを向けたまま、芽亜凛に服を脱ぐよう指示をした。
これも呪い人の影響だろうか。だとしたら、呪われているのはきっと――私。
芽亜凛が制服のファスナーに指をかけた時、笠部の背後の扉がノックされた。張り詰めた空気のなか、今度はノブを回す音が響く。
『芽亜凛ちゃん、いる? 芽亜凛ちゃ――』
声の主、現れたその人は、凛だった。
扉に鍵はかかっておらず、凛は笠部の持つメスを見るや顔色を変える。丸い目が据わる。
『メスを使う授業なんてしたことないですよね。それ、何ですか』
笠部は凛にメスを向ける。
『り、凛……!』
『こうなりゃ百井、お前諸共――』
そう最後までいい切る前に、凛の手刀が笠部の手首を打った。凛は床に落ちたメスを蹴って飛ばすと、笠部の手首をひねって捕らえた。
「生物学教師に襲われかけた私を、彼女が助けてくれたんです」
「笠部先生が……そんなことを……」と、芽亜凛の隣で萩野が顔をしかめる。ネコメは黙って、話の続きを促している。
「教師には処分がくだされましたが、そのときはまだ、警察沙汰になることはありませんでした」
事件となったのは、翌日――学校近くの公園で、笠部淳一の遺体が発見されてからだ。死因は首を吊っての自殺。それが自殺ではなく他殺だと知ったのは、もう少し後になる。
学校では、緊急の全校集会が開かれた。これから先、芽亜凛が幾度となく経験することになる、追悼の全校集会。
集会終了後の教室で、耳が痛くなったのはこのときだ。
『ねーねー、芽亜凛ちゃんって、呪い人? 笠部に関わってたのも芽亜凛ちゃんだし、C組から行方不明者が出たのも芽亜凛ちゃんが来てからだよね。ねー、私のことも殺す? 楓を巻き込んだみたいに、殺す?』
クラスのために、消えてよ。
芽亜凛を囲んで責め立てる者、傍観する者、外側から冷やかす者。転校してから五日目のうちに、クラスは混沌と化していた。特に、入院している三城楓のグループからは、強い圧力をかけられた。
そんななかでも、唯一芽亜凛の味方でいてくれたのが凛だ。
『芽亜凛ちゃんは被害者なんだよ? 怖い目に遭ったのは、三城さんも芽亜凛ちゃんもおんなじだよ。全部、偶然の出来事なんだよ。――芽亜凛ちゃんは友達だもん。友達を庇うのは当然だよ。……昨日、はじめて凛って呼んでくれたよね。えへへ、嬉しかった……』
百井凛。百井、凛。
ただ一人、芽亜凛の味方でいてくれた人。芽亜凛のことを、友達と呼んでくれた人。彼女がそうしてくれるように、芽亜凛も――どんなときでも凛の味方でいようと、そう思った。
それから、先日のうちに柔道部のマネージャーとなった芽亜凛は、放課後でも凛と共に時を過ごした。その日の凛は、男子生徒からデートの誘いを受けていた。邪魔しないようにと、芽亜凛は一人で昇降口に向かった。
シューズロッカーを開けると、四つ折りにされた手紙が入れられていた。
「話があるから、ある場所に来てくれ、と」
差出人の記載はなかったが、待ち合わせ場所の名称には心当たりがあった。もしかすると、彼かもしれないと。期待と不安を胸に、芽亜凛は指定された場所へ一人で向かった――
「それが……罠だったんです」
絞り出すように言う芽亜凛の呼吸が荒くなる。
「私は……こ、拘束されて、監禁されて……そこで……っ」
そこで、最初の死を遂げた。
「身体中を……ナイフで、刺されました。殺される前に、その人が言っていたんです」
すべての主犯は自分であると。
『ちーちゃんをさらったのも、跳び箱に細工したのも私。笠部先生を殺したのも私。何のため? 何のためってそりゃあ……えへへ、凛ちゃんのためだよ。私が対象にしたいのは凛ちゃんなの。芽亜凛ちゃんが死ねば、E組のみんなも気づくはずだよね。本当の呪い人が誰なのか。本当の呪い人は、百井凛だってこと!』
芽亜凛はテーブルの下で握り拳を作った。粘着テープで塞がれた唇のべたつきが、乾いていく血の感触が、蘇る。
「呪い人なんてないんです。全部あの人の仕業だった。私の友人を渦の中心に仕立て上げようとしている、その人こそが、事件の首謀者なんです」
「その人って……誰なんだ」
「言えません」
「どうして……!」
芽亜凛は唇を噛みしめる。萩野が声を荒げたくなる気持ちも、わからなくはない。でも、
「言ったら萩野くんは、意識してしまう。怪しまれたら駄目なんです。悟られては駄目なんです。萩野くんには……余計な影響を与えたくない」
「でもここには、刑事さんだっている。――橘、言うべきだ。犯人が誰なのか」
「…………」
芽亜凛は伏せていた睫毛を上げて、ネコメを見た。ネコメは相変わらず、まっすぐな瞳と微笑を芽亜凛に向けている。
「芽亜凛さんは、私のことも気にかけてくれているんですね。話せば私が死ぬと、あなたはそう思っている。ふふふっ、刑事を志す前から、私は命をかけてきたんですがね」
ネコメはくすりと笑い、「か」と。声色低く、はっきりと口にした。
(か……?)
神永――?
ネコメの、なぞるような視線と、芽亜凛の震える瞳が交差する。
ネコメは口角を上げて「そうですか」と納得した。二人の意図を察せない萩野は、交互に顔を見るばかりである。
「ネコメさんは……ご存知なんですか」
芽亜凛が口にできないでいる、その人の名を。
「証拠が掴めずいまだ苦戦中ですがね。でも、そうですか……やはり今回も……」
ネコメは人差し指を形のいい顎に添えて、独り言を呟く。その顔は嫌悪を示すどころか、笑みを湛え続ける。まるで敵の尻尾を捕らえ、喜びに満ちているかのように。
ネコメは片頬を吊り上げて問いかける。
「そのときはまだ、自分がチカラの保有者だと気づいていなかったのですね?」
「……はい」
死ななきゃ気づかないことだった。そして、普通に生きている限り、信じられる話ではない。
「死んでも生きていることに気づいたのは、次のことです」
痛みと暗闇に沈んでいった芽亜凛を包み込んだのは、大粒の雨だった。リスタート地点は、いつも雨が降っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます