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「まるで夢のなかの出来事を、そのまま現実に落としたような光景だったと思います」


 芽亜凛にとってはじめて迎えた、藤ヶ咲北高校転入初日。六月三日、月曜日。

 二年E組の教室前で、深呼吸を十分に済ませた芽亜凛は、鞄を両手に持って前に提げ、担任の石橋先生の紹介の元教壇の前に姿を見せた。黒板に白いチョークで転校生の名を書いた石橋先生は、芽亜凛に自己紹介を促す。

『あっ、橘芽亜凛ですっ……よろしくお願いしむ――』

 噛んだ唇を、手で隠した。せり上がった体温で首の後ろまで熱くなる。

『っ、よろしくお願いします』


 教室中から生暖かい拍手を浴びながら、芽亜凛は指定された席に向かった。下手くそな挨拶に顔は真っ赤になっていただろう。うつむきがちに席に着くと、隣の女子生徒が手を伸ばした。

『よろしくね橘さん。私、委員長のです』

『…………』

『わ、私の顔に何か付いてる?』

『……ううん。よろしくね

 芽亜凛は、差し出された小さな手を握り返した。

『私のこと、芽亜凛って呼んでくれる?』

『え、いいの? うん、じゃあ、芽亜凛ちゃんで』


 ――ネコメの前では言っても構わない、だが萩野が聞いているため、芽亜凛はすべての人物名を伏せて語る。


「その子は、いろんなことを教え、助けてくれました」


 授業の進み具合や、校舎の近道。藤北と前の学校との間に生まれる、授業内容や方針の差。芽亜凛が教師に指名され、その互換性に戸惑っていたときも、凛はノートを通してこっそりと教えてくれた。授業の合間も、移動教室の際も、凛と芽亜凛は一緒に行動した。彼女が構ってくれるおかげで、引っ込み思案な芽亜凛でも、一人になることはなかった。

『じゃ、行こっか』

 昼食を済ませた昼休み、凛は約束していた校内案内に連れて行ってくれた。教室の前や廊下を通るたびに、人の視線を感じてうつむく芽亜凛の手を、凛は『大丈夫だよ』と言って優しく握った。柔らかくて、芯があって、溶けそうなくらい温かかった。


『凛ちゃん凛ちゃん、その子転校生? 超可愛い!』

『あ、響弥きょうやくん。それに渉くんも。購買の帰り――? はいはい、そこのいてねー』


 凛は、消極的な芽亜凛に代わって、絡み来る男子たちを撒いてくれたりもした。


『あ、あの……さっきの、髪が跳ねてるほうの男子って……』

『ん、響弥くん? えっと、C組の神永かみなが響弥くん。――気になるの?』

『……少し』

『へえー! 響弥くんにも春が来たかぁ』


 普通の女子高生がするような他愛もない話をしながら、凛と芽亜凛は校舎をぐるりと回った。凛が柔道部に所属していること、幼馴染の『渉くん』のことが好きだということ、そして選択科目で美術を選んでいることはこのとき知った。自分は音楽科を選んでいたので、凛と離れてしまうことを心寂しく思った。、美術を選びたい。


「なかでも印象的だったのが、『呪い人』の話です」


 ノロイビト。藤ヶ咲北高校二年E組にまつわるオカルト、怪談、黒の歴史。

 呪い人とは、呪われた生徒を指す名称で、その生徒と親しい人間は災厄に見舞われるというのだ。十年前に途絶えた伝承が、いまだ二年E組の生徒たちに告げられているらしい。

 ――この学校は何を恐れているのだろう。芽亜凛は呪い人そのものでなく、今でも伝えられるその風習こそ不気味だと感じた。


「そして、その子の親友が行方不明になったのが、夕方のことです」


 百井凛には、松葉まつば千里ちさとという親友がいた。その日三人で下校を共にした女子生徒だ。千里は人懐っこくポジティブで、誰に対しても見えない尻尾を振っているような、容易く好感の持てる少女だった。

 千里が行方不明になったという話を凛から聞いたのは、次の日の朝のことだ。

『ちーちゃん……どうしちゃったんだろう』

 ――脳裏をよぎったのは、凛の言っていた『呪い人』の話……。


「信じてなかったとは言え、転入したばかりのことだから、さすがに不安になりました。……行方不明を知ったその日にも、事件は起きました」


 六月四日、火曜日。

 一時限目の体育で、二年E組の三城さんじょうかえでが大怪我をした。

 誰も挑もうとしない七段の跳び箱に、運動神経のいい三城が囃し立てられて手をついた途端、木材のピラミッドは牙を剥いた。

 七段の跳び箱は雪崩のように崩れ、彼女の身体を覆い尽くした。手足骨折と頭部への打撲により、三城楓は意識不明の重体――

『楓の怪我ってもしかして……E組の――』

『やめてよ遥香はるか! ……そんな話聞きたくもない』

『ご、ごめんねみのり


 ――今思えば、一部の生徒たちは、この頃から呪い人を示唆していたように思う。


「その次の日は何もなく終わりましたが、翌日の生物学で……」


 六月六日、木曜日。

 生物学の授業終了後、芽亜凛は生物学教師――笠部かさべ淳一じゅんいちから、準備室に残るよう言われた。特別に補習授業をすると言われて、芽亜凛はただ一人で準備室に残った。

 現れた笠部はメスを片手に、芽亜凛を脅した。


『騒いでくれるなよ。これは仕方のないことなんだ。この世は弱肉強食なんだよ。強いものが弱いものを食らう……何ひとつおかしくはない、自然の摂理だ』


 笠部はメスを向けたまま、芽亜凛に服を脱ぐよう指示をした。

 これも呪い人の影響だろうか。だとしたら、呪われているのはきっと――私。

 芽亜凛が制服のファスナーに指をかけた時、笠部の背後の扉がノックされた。張り詰めた空気のなか、今度はノブを回す音が響く。

『芽亜凛ちゃん、いる? 芽亜凛ちゃ――』


 声の主、現れたその人は、凛だった。

 扉に鍵はかかっておらず、凛は笠部の持つメスを見るや顔色を変える。丸い目が据わる。


『メスを使う授業なんてしたことないですよね。それ、何ですか』

 笠部は凛にメスを向ける。

『り、凛……!』

『こうなりゃ百井、お前諸共――』

 そう最後までいい切る前に、凛の手刀が笠部の手首を打った。凛は床に落ちたメスを蹴って飛ばすと、笠部の手首をひねって捕らえた。


「生物学教師に襲われかけた私を、彼女が助けてくれたんです」


「笠部先生が……そんなことを……」と、芽亜凛の隣で萩野が顔をしかめる。ネコメは黙って、話の続きを促している。


「教師には処分がくだされましたが、そのときはまだ、警察沙汰になることはありませんでした」


 事件となったのは、翌日――学校近くの公園で、笠部淳一の遺体が発見されてからだ。死因は首を吊っての自殺。それが自殺ではなく他殺だと知ったのは、もう少し後になる。

 学校では、緊急の全校集会が開かれた。これから先、芽亜凛が幾度となく経験することになる、追悼の全校集会。

 集会終了後の教室で、耳が痛くなったのはこのときだ。


『ねーねー、芽亜凛ちゃんって、呪い人? 笠部に関わってたのも芽亜凛ちゃんだし、C組から行方不明者が出たのも芽亜凛ちゃんが来てからだよね。ねー、私のことも殺す? 楓を巻き込んだみたいに、殺す?』


 クラスのために、消えてよ。

 芽亜凛を囲んで責め立てる者、傍観する者、外側から冷やかす者。転校してから五日目のうちに、クラスは混沌と化していた。特に、入院している三城楓のグループからは、強い圧力をかけられた。


 そんななかでも、唯一芽亜凛の味方でいてくれたのが凛だ。

『芽亜凛ちゃんは被害者なんだよ? 怖い目に遭ったのは、三城さんも芽亜凛ちゃんもおんなじだよ。全部、偶然の出来事なんだよ。――芽亜凛ちゃんは友達だもん。友達を庇うのは当然だよ。……昨日、はじめて凛って呼んでくれたよね。えへへ、嬉しかった……』


 百井凛。百井、凛。

 ただ一人、芽亜凛の味方でいてくれた人。芽亜凛のことを、友達と呼んでくれた人。彼女がそうしてくれるように、芽亜凛も――どんなときでも凛の味方でいようと、そう思った。


 それから、先日のうちに柔道部のマネージャーとなった芽亜凛は、放課後でも凛と共に時を過ごした。その日の凛は、男子生徒からデートの誘いを受けていた。邪魔しないようにと、芽亜凛は一人で昇降口に向かった。

 シューズロッカーを開けると、四つ折りにされた手紙が入れられていた。


「話があるから、ある場所に来てくれ、と」


 差出人の記載はなかったが、待ち合わせ場所のには心当たりがあった。もしかすると、かもしれないと。期待と不安を胸に、芽亜凛は指定された場所へ一人で向かった――


「それが……罠だったんです」


 絞り出すように言う芽亜凛の呼吸が荒くなる。


「私は……こ、拘束されて、監禁されて……そこで……っ」


 そこで、最初の死を遂げた。


「身体中を……ナイフで、刺されました。殺される前に、その人が言っていたんです」


 すべての主犯は自分であると。

『ちーちゃんをさらったのも、跳び箱に細工したのも私。笠部先生を殺したのも私。何のため? 何のためってそりゃあ……えへへ、凛ちゃんのためだよ。私が対象にしたいのは凛ちゃんなの。芽亜凛ちゃんが死ねば、E組のみんなも気づくはずだよね。本当の呪い人が誰なのか。本当の呪い人は、百井凛だってこと!』


 芽亜凛はテーブルの下で握り拳を作った。粘着テープで塞がれた唇のべたつきが、乾いていく血の感触が、蘇る。


「呪い人なんてないんです。全部あの人の仕業だった。私の友人を渦の中心に仕立て上げようとしている、その人こそが、事件の首謀者なんです」

「その人って……誰なんだ」

「言えません」

「どうして……!」


 芽亜凛は唇を噛みしめる。萩野が声を荒げたくなる気持ちも、わからなくはない。でも、


「言ったら萩野くんは、意識してしまう。怪しまれたら駄目なんです。悟られては駄目なんです。萩野くんには……余計な影響を与えたくない」

「でもここには、刑事さんだっている。――橘、言うべきだ。犯人が誰なのか」

「…………」


 芽亜凛は伏せていた睫毛を上げて、ネコメを見た。ネコメは相変わらず、まっすぐな瞳と微笑を芽亜凛に向けている。


「芽亜凛さんは、私のことも気にかけてくれているんですね。話せば私が死ぬと、あなたはそう思っている。ふふふっ、刑事を志す前から、私は命をかけてきたんですがね」


 ネコメはくすりと笑い、「」と。声色低く、はっきりと口にした。


(か……?)


 ――?

 ネコメの、なぞるような視線と、芽亜凛の震える瞳が交差する。

 ネコメは口角を上げて「そうですか」と納得した。二人の意図を察せない萩野は、交互に顔を見るばかりである。


「ネコメさんは……ご存知なんですか」


 芽亜凛が口にできないでいる、その人の名を。


「証拠が掴めずいまだ苦戦中ですがね。でも、そうですか……やはり今回も……」


 ネコメは人差し指を形のいい顎に添えて、独り言を呟く。その顔は嫌悪を示すどころか、笑みを湛え続ける。まるで敵の尻尾を捕らえ、喜びに満ちているかのように。

 ネコメは片頬を吊り上げて問いかける。


「そのときはまだ、自分がチカラの保有者だと気づいていなかったのですね?」

「……はい」


 死ななきゃ気づかないことだった。そして、普通に生きている限り、信じられる話ではない。


「死んでも生きていることに気づいたのは、次のことです」


 痛みと暗闇に沈んでいった芽亜凛を包み込んだのは、大粒の雨だった。リスタート地点は、いつも雨が降っていた。

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