ファザコン

『行ってらっしゃい』キスをして、『行ってきます』キスされる。

『おやすみなさい』キスをして、『おやすみ、千里』キスされる。


 うちでは家を出るときと夜眠るときに、ほっぺにキスするのが当たり前だった。

 いつから? わからない。憶えている限りの幼少期からしていて、そうすることに何の疑いも持っていなかったから。たぶん生まれたときから習慣付いて、潜在意識にすり込まれたんだろうなぁ。

 するのは決まってわたしから。わたしがして、されたお父さんやお母さんが返してくれるの。朝おはようって挨拶するのと何ら変わらない。ほっぺのキスは、当然のように行われる我が家の光景だ。


 この手の話をすると必ず疑われるのが、今でもしているのか、という点。

 ……と言っても、一度しか話したことないんだけど。


 ベッドを買ってもらうまでは、家族みんなで川の字になって寝た。お父さんの帰りが早いときは、一緒にお風呂に入っていた。一人っ子のわたしにとっては、お父さんとお母さんと過ごす時間が一番長くて、多くて、大切で。

 これがわたしの日常であり、習慣であり、普通――そう思っていた。

 小学校六年生までは。


    * * *


『ねえねえ、好きな人言い合おうよ』


 修学旅行の夜といえば恋バナでしょ――と、円形に並べた枕に頬杖をついたバツ子ちゃんが提案する。

 賛同者、三名。苦笑者、二名。これからはじまるのは言い逃れのLikeではなくて、紛れもないLoveの話であると誰もが察していく。

 ……Loveかぁ。いないなー。凛ちゃんと渉くんじゃあるまいし。わたしには幼馴染の男の子も、運命の相手もいないもん。ドキがムネムネして動悸が治まらないよーって経験してみてぇー。


 高校生になった今でも、そう思える男の子はいない。むろん、小六のわたしにもいるはずなくて。

 Loveだよなー、Loveはいないなーと察しながらも、わたしは賛同者側にいた。いいねいいね楽しそうーと軽く話題に乗車する。ハンドルは任せるぜベイベー。

 同室メンバーの誰も『いない』と言わなかったから、わたしたちは自然と布団に寝転んで顔を寄せ合った。明日の金閣寺が楽しみだなーと京都観光に心を奪われつつ、わたしもみんなの動きに合わせる。怪談話をするみたいな小声で、それぞれ口を割っていった。


『うちはねぇ……プラスくん』と、同じクラスの男子の名を挙げるサンカクちゃん。へえーそうなんだぁとバツ子ちゃんが頬を緩める。

『わたしは好きっていうか気になってるくらいなんだけど、マイナスくん』保険付きでシカクちゃんが早口に言って、『えっ、うちはいないよ?』と、浴びせられる期待の眼差しに目を泳がせるヒシガタちゃん。

 顔、姿形、名前、何ひとつあやふやではあるものの、ヒシガタちゃんは苦笑者のうちの一人だったのだろう。何も考えていなかったらしい。


 すかさず、『つまんね』とバツ子ちゃんの唇が蠢く。ヒシガタちゃんは存在のすべてを否定されたような顔で口をもごつかせた。

 滑るように視線を送られて、『……マルマルくんです!』と答えたのはイコールちゃん。わたしと保育園が一緒で、まだ小学校も一緒な、あのマルマルくんである。まさか彼の名が挙げられるとは思っておらず、わたしは『へえー』と安直に口を開いた。


『千里さんは?』


 誰かに尋ねられて、わたしは小三のときの担任の先生と答えた。

 すると『わかるー!』とヒシガタちゃんが大げさに反応する。まるで自分も同じだと言いたげなアピールだ。かっこよかったよねーとわたしも返しておいた。シカクちゃんかサンカクちゃんかも同意したため、意外と先生のチョイスは的を射たみたい。

 言い出しっぺのバツ子ちゃんは、俳優の名前を挙げて回避した。ずるい子だと思ったけど、わたしも人のこと言えないや。不満を口にする子もいなかった。イコールちゃんだかヒシガタちゃんだかハテナちゃんだかも、ぐっとこらえて笑ってた。


『誰にも言っちゃダメだからね。うちらだけのヒミツ』


 バツ子ちゃんは人差し指を唇の前に立てた。


『じゃあさ、いつまで親とお風呂入ってた? てか父親と入ったことある?』


 ホラー映画を観ながらの脳内上映はセピア色だ。

 いないはずの七人目、いや八人目? 顔にモザイクのかかったモザ子ちゃんが言い出した。モザ子ちゃん――モナリザを略したみたいになっちゃった。わたしの記憶、適当すぎる。ある意味では便利な頭。

 ご明察のとおり、わたしはそこで、答えてしまった。恥じらいもなく、抵抗もなく。

 無知な頭で、無垢な言葉を、無様な舌で転がす。


『今でもお父さんと入ってるよ』


 べろり。

 モザイクが剥がれて、みんなの顔がフラッシュバック。わたしに向けられた据わった瞳、ひん曲がった眉毛、引きつった頬、薄く開いた唇、閉ざされた白い歯。

 視界を彩る全員の顔が、瞬く間に色を失う。吐息で曇った窓ガラスのように霞んで、再びモザイク状になる。セピア色に戻る。顔色を失ったのは、当時の様子でも文字どおりだっただろう。


『え、今でも?』と、モザ子ちゃん。うん、と素直に頷くわたし。

『父親と入ってんの?』と、モザ子ちゃん。うん、とそちらに頷くわたし。

『え、やばくない?』半笑いのモザ子ちゃん。

『す、すごいね』目を逸らすモザ子ちゃん。


『千里さんちって、おやすみのキスとかする系?』


 いや、さすがにないか、と続けるモザ子ちゃんに、『えっ、しないの?』と逆に尋ねる愚かなわたし。

 わたしは、

 ワタシハ、

 松葉千里わたしは――

 みんなの引き顔を見て、『内緒だよ』って、慌てて付け足した。




 だから今はね、してないよ。行ってらっしゃいとおやすみのキスも、誰かと一緒に入るお風呂も。中学校までは時折していたけど、今はやめてしまっている。自分のなかのズレに気づき、ほかとの差異を知ってしまったから。

 徐々に徐々にタイミングをずらし、頻度を減らしていったら、習慣はなくなった。疲れて寝落ちしてしまったとか、朝の準備に手が離せなくてとか。お父さんもお母さんも受け身だったから、わたしの理由付けはいくらでもできる。できない言い訳をいくらでもできるのだ。


 本当はもっと早く離れていってほしかったんじゃないかな、特にお母さんのほうは。娘の成長を、時の流れに頼りつつも願っていたと思う。

 お父さんはどこか寂しそう。物足りなさが顔に滲み出ている。娘がどんどん離れていってしまうのが堪らないって感じ。わたしのことはいいからさ、夫婦水入らず、たまには二人きりで旅行にでも行ってきてほしいよ。


 修学旅行の後日談です。

 学校の廊下ですれ違ったマルマルくんに、ファザコンって言われました。


『ファザコン 意味』検索。

 ファーザーコンプレックス。略してファザコン。ファザコンとは、父親に強い愛情を持って執着する子供の状態を指す言葉。マザーコンプレックスの父親版。父親が大好きすぎて離れられない子供。


 だーれーがーじゃーいっ!


 確かにわたしは、お父さんのことが好きだよ。今より太って、ぷくぷくの豚になっちゃったとしても好きだし、見捨てたりなんかしない。

 でもお母さんのことも同じくらい好き。たとえ二人が豚になって捕らえられちゃったとしても、わたしは二人を取り返すために働くよ。懸命に働くよ。名前が漢字一文字になってでも働くよ。

 そしたらかっこいい男の子に手を引かれて走るんだ。運命の出会いを果たすんだ。ちょっといいかも。


 修学旅行の夜にした話を誰かが漏らしたんだって、小六のわたしでもさすがに気づいた。もしかしたら、マルマルくんのことが好きだと言っていたあの子かもしれない。

 わたしの話をネタに、きっかけを作ったりして。あいつのこと嫌いだったんだよって、笑い合っちゃったりして。

 プププーッ、クスクスクス。

 ……そんな不毛な被害妄想までしちゃったりしちゃわなかったり。


 その日からワタクシ松葉千里は、トイレの個室に忍び込むようになりました。わたしの話をされていないか、嗤われていないか、愚痴られていないか――確かめるため。

 ううん、わたしだけじゃない。あの部屋で告白したメンバーの情報もチェックした。結果――二人、漏れていた。ひと月経つ頃には表立って噂されていたし、男子の耳にも届いていた。

 ヒミツだよって、内緒にしてねって、言ったのに。


 馬鹿なわたしが話してしまった家での習慣は広まらなかった。だけど、マルマルくんの耳に入ったのは事実。あの場にいた誰かが明かしたのも事実だ。


 角膜にフィルターをかけた曇った眼のお父さんも、気持ちに嘘をつくマルマルくんも、内緒話を漏らす同級生も。

 あーあ。どこまでも、人は信じれないや。

 ちゃんちゃん。


    * * *


 トイレの個室にこもっていた主人公の親友が、死んじゃった。グレーの触手が頭上から伸びて、彼女を天井に連れ去った。個室の天井からは、赤い血だけが滴っている。

 え? 何これ。これが真の敵? 人影をぱっくんした正体? セコムがやられた辺りで薄々気づいてたけれど……この映画、モンスター系だったんだ……。


 じーっと動かずにいつまでも隠れてるからいけないんだよ。たまには外に出て接触しなくちゃ。

 わたしはあなたたちの弱みを握っていますよ――って、牽制するのは大事だよ。


 映画の終わりまで、体感的には残り一時間程度。

 わたしの親友はまだまだ起きそうにない。

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