ハッピーバースデー
わたしにとっての寄生虫は、お父さんだと思う。
わたしが『凛ちゃんの親友』を譲らないように、お父さんは『いい父親像』に固執し、寄生している。その中心にいるのは、お母さんでも家族全体でもなくて、娘であるわたしだけだ。
お父さんはわたしのことを、可愛いね、可愛いねって言ってくれる。千里は可愛いな。千里はいい子だなって。
そうかな。わたしはそんなふうには思えない。可愛いも、いい子も。
顔は丸いし、鼻は低いし、童顔だし、スタイルだってよくはない。凛ちゃんみたいに胸が大きいわけでも小柄というわけでもなく、中の中。平凡を貫く女子高生です。
全然自虐じゃないよ、うん、全然。
自慢じゃないけどわたし、このビミョーな見た目のおかげで、いじめに遭ったこと今までゼロなんだ。羨まれない、妬まれない。平凡というのは実にいいポジションなのである。
お父さんの角膜には、娘サイコー! という特殊なフィルターがかかっているから、まあ致し方ない。目に入れても痛くないって言うでしょ。脂肪の乗った分厚い角膜のおかげ。……これは言いすぎか。
お父さん、もう少し痩せてくれたらなー。健康面、普通に不安。痩せてくれなきゃ嫌いになっちゃうからね! って告げれば、ダイエットに励んでくれるかな。……いえいえ、わたしは家では『いい子』なので、そんな脅しはいたしませんとも。
他人から可愛いって言われたことはないけど、その逆なら面と向かって受けたことがある。もう名前も思い出せないマルマルくんに、保育園で言われたんだ。
あ、マルマルって丸顔って意味じゃないよ? 身元不明のジョンと同じ――ってそれじゃ死んでるか。
きっかけは誰かの告げ口だった。たぶん、確か、女の子。
『マルマルくんが、ちさとちゃんのこと、すきっていってたよ』
マルマルくんは同い年で、仲のいい男の子だった。ほかの男の子に比べれば結構話してたし、保育園外で遊んだこともある。
で、わたしも彼のことは好きだった。それが恋だったのかはわからない――ていうか、違うと思う。あの頃の好きって、LoveよりもLikeのほうだし。
でも区別のつかない子供のわたしは、マルマルくんに、『わたしも好きだよ』って耳打ちしてしまった。マルマルくんは耳から蒸気を噴き出して、わたしの手を振り払うと、
『は? すきじゃねえし。ブス!』
マルマルくんの両目は赤く潤んでいた。怒り? 羞恥心? 今にも泣き出しそうだったのは印象深い。でも、顔は思い出せないや。
その日のうちだっただろうか。家に帰ってお父さんの膝に乗せられているとき。可愛い可愛いと口癖のように言うお父さんに、わたしはマルマルくんに言われたことをそのまま伝えた。マルマルくんは、千里のこと、好きじゃないし、ブスなんだってー。
そしたらびっくり。お父さんは泣きながら首を振った。そんな酷いことを言われたのか、なんてことだ……って否定的に言ってから、千里は可愛いよ、大好きだよって抱き締めた。
後日、お父さんは保育園を訪れた。噂のマルマルくんを巡って、先生や親とすごく揉めたらしい。当時のわたしはその場にいなかったけれど、マルマルくんやそのお母さんの顔色がごろりと変わってしまったため、なんとなくじわじわと察した。
以来、マルマルくんはわたしと話さなくなった。遊ばなくなった。関わること自体やめてしまった。無神経に話しかけても、そっぽを向かれるだけ。
わたしが彼のことをいじめたいほど好きだったら、きっともっといっぱい話しかけただろう。でもわたしにとってマルマルくんは、心揺さぶるほどの存在じゃなかったし、縋りつきたいほどたくましくもなかった。
それに、傷付いてもなかったわたしは、お父さんの言った言葉のほうがショックだったんだ。
マルマルくんの言ったことは、『酷いこと』だったんだ、って。
自分は幸せだって胸を張って言える? わたしは言えるよ。幸せな暮らしをしているよ。
夜は毎日綺麗なベッドの上で眠り、朝はのんびりと起床をし、おいしいご飯を三食取る。家族喧嘩もなければ、抱えた借金だってない。お小遣いは今でも月ごとに貰えるし、どう使おうがわたしの自由だ。
決して裕福ではないけれど、貧乏と嘆くほどでもない――極々普通で、幸せな家庭である。
わたしがそう尋ねれば、凛ちゃんも同じように答えるだろう。
再びフェードアウト、フェードインするスクリーンに、誕生日の光景を重ねる。
お父さんはわたしの誕生日には必ず仕事を休む人だ。先月の二十四日も、仕事を休んで誕生日の準備に張り切っていたみたい。
誕生日と言えば、プレゼント。うちでは欲しいものはいくらでも買ってもらえたし、言えばなんでも承諾された。お小遣いじゃ買えないような高いものでも、誕生日には許してもらえる。
おかげで、最新のおもちゃやゲーム機は家に揃っていた。ゲーム好きなんだ、特にRPG。誰にも邪魔されず、自分のペースでできるから好き。ホラーゲームは無理です、言わずもがなー。
文鳥のブンちゃんを迎えたのは小五のときだ。もう六年も一緒にいるんだなぁ……感慨深い。今も元気にカゴの中。
誕生日の夜は、食べ切れないほど大きなホールケーキを囲って、歌を歌う。
『ハッピーバースデートゥーユー。ハッピーバースデートゥーユー。ハッピーバースデーディア千里。ハッピーバースデートゥーユー』
愛してるよ千里。これからもいい子でいてね。
願うように繰り返される、お父さんのお決まりの台詞。高校生になっても変わることはない。
その日は、ちょっとお高い回らないお寿司を食べたり、お肉を食べたりする。半年早いクリスマスみたいだなぁって思う。ううん、うちじゃあクリスマスよりもずっとずっと豪勢だ。お父さんやお母さんの誕生日が来ても、何ひとつ変わることはないのにね。
ただ一度だけ、いつもと同じご飯だったことがある。小学二年生のときの誕生日だ。
炊きたての白米に、豆腐とわかめのお味噌汁、きのこがいっぱい詰まった鮭のホイル焼き、甘くておいしい里芋の煮物。
お母さんの作るご飯はなんでもおいしくて、わたしは大好きだった。なかでも鮭のホイル焼きは大好物! わたしが喜ぶように手間暇かけて作ってくれたんだ。
だけどお父さんは、『お母さんはケチだなぁ』って笑った。肉に埋もれて細くなった目をさらに歪曲させて、まるでわたしに同意を求めるかのように視線を流す。
お母さんは何も言わなかった。ただ、それ以来わたしの誕生日に手を抜くことはなくなった。毎年毎年、気合を入れて料理を作った。朝も、昼も、夜も。呪いのようなその一日だけは、懸命に腕を振るう。わたしも何も、言わなかった。
お母さんは、待ち合わせ時間の三十分前には現れて人を待つような、真面目でしっかり者だったから、あの一言でプライドを傷付けられたのだろう。もしあの時、正直においしいって伝えていれば――お母さんはもっと傷付いていた。慰めだと勘違いして、自分を責めてしまう、そういう人なんだ。
十歳になった頃、誕生日当日にお母さんに謝った。いつもごめんね、おいしいご飯をありがとう。
そうしたら、どうして千里が謝るのって苦笑された。誕生日なんだからいいのよと言って、優しく頭を撫でてくれた。
次の日から、わたしは料理の手伝いをはじめた。晩ご飯限定になっちゃうけど、それでもお母さんは喜んでくれた。三日坊主にならないよう、明日はあれを作りたい、これを作りたい。教えてお母さん――って約束をして。
手伝いは、一日で終わった。
仕事帰りのお父さんに、今日は千里が手伝ってくれたのよってお母さんが嬉しそうに話すと、お父さんは目を剥いて大きな声を出した。
千里に手伝わせただとふざけるなそんなこと危ないじゃないかまだ千里は子供だぞ怪我をしたらどうするんだお前はそれでも母親か母親なら母親らしく一人で家事をしろご飯くらい自分で作れ掃除も洗濯もだ当たり前じゃないか千里に手伝わせるな千里の手を借りるな千里に迷惑を掛けるな、情けない。情けない。情けない。情けない。
お父さんの怒った姿を、わたしははじめて見た。お父さんは、リビングで泣き出したわたしに駆け寄って、またしてもお母さんを責めた。
ごめんな千里、ごめんな。ほら、千里が泣いちゃったじゃないか。お前は何をしているんだ。お前のせいだ。お前が手伝いなんかさせるから。お前が――
廊下に転がった懐中電灯。照らされた警備員の影と、相対するもうひとつの大きな影。警備員が叫び声を上げると、影は人影を頭から飲み込むように一体化し、宙ぶらりんになった二本の足がゆらゆらと映し出された。
職員室のデスクに隠れて、両手で口元を押さえる主人公は呟く。『Oh my god……』わたしの気持ちもオーマイガー。主人公と同じように口元を押さえた。
今の警備員の絶叫、お父さんの声に似てたな。小学校三年生の家庭訪問で、わたしが帰り際に先生の頬にキスしたときの。仕事帰りのお父さんはこめかみに血管を浮かばせて、時間帯も考えずに『貴様あああっ!』って、吠えたんだっけ。
先生はその年、学校を辞めた。若くてかっこいい先生だったのに、残念。でも今は笑い話にできる。あのときのお父さんの慌てっぷり、超面白かった。
夜、お父さんの部屋に行ったとき、ほっぺにキスは家族以外にしちゃいけないことだと教わった。誰彼構わず軽はずみな行為をするのはいけないことだって。
それ、今ならわかるし、理解できるよ。
でも、最初に躾けたのはお父さんでしょう?
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