ワンコール
女は血走った目を見開き、うつ伏せの状態で倒れていた。
首にはロープのようなもので絞められた痕と、抵抗した際に生じる吉川線が浮き出ている。それ以外に目立った外傷はない。
刑事――
「近所の住人によると、朝からいさかうような声が聞こえたそうです。旦那の証言と一致してますね」
「間違いねえな」
平日の昼間から通報があったのは、ボロ屋と言っても過言ではない一軒家。駆けつけた長海らが目にしたのは殺しの現場だった。
容疑者は被害者の旦那で、遺体の第一発見者であり今回の通報者。検視の結果は背後からの不意打ちだった。凶器は掃除機の電源コードで、そちらも旦那の証言は取れている。
「ネコメは? まだ地取りか?」
遺体のそばを離れて綾瀬が問う。
ネコメ……。先日異動してきた刑事の愛称だった。長海より若くて階級は上の、刑事課の問題児。
長海は「それが……」と言葉を濁してわけを話した。瞬間、綾瀬の声が廊下に響き渡る。
「――はあぁ? どこにいるかわからないぃ?」
「声がでかいです」
「なんでコンビ組んですぐ逃げられてんだ。首輪付けてねえのか。相棒だろ」
別に相棒じゃ……という言葉が喉元までせり上がる。
ドラマでは華やかに描かれがちな警察世界だが、実際の刑事課はほとんどが書類作成などのデスクワークだ。事件の証拠品や聞き取りの調書、報告書。受け持っている捜査がなければ、それらの書類作りで丸一日終わることもある。
だが、仕事に大きいも小さいもない。それはもちろん殺しの現場でも同じ。
人はカッとなってつい、相手を殺すことができる。物を捨てられたから殺した。いびきがうるさくて殺した。口論の末に殺した。あの旦那が妻を殺したように、人は二十四時間、いつどこでどんなときだって罪を犯せるのだ。
そして、たとえどんなにくだらない理由で事件が起きたとしても、捜査に全力を尽くすのが刑事の務め。
だというのに、あの白金の刑事はいったい今頃どこで何をしているのだろう。
まばゆいプラチナブロンド、透けるような白い肌、酷く整った女顔に厚着のモッズコート。
どこにいても目を引く容姿が今朝から見当たらない。毎朝八時半から開かれる捜査会議にも奴は現れなかった。
長海よりもネコメに詳しい綾瀬と
『まあネコメだし』
『いないと思ったらいて、いると思ったらいないですよ』
と当然のように返された。
無断欠勤ではないようだが、刑事がそんな神出鬼没であってたまるか。それに相棒なら事前に言っておけと、長海は憤慨する。
『長海さん。あなたは俺の、運命の人ですね』
顔合わせした日にあんなことを言っておいて、信頼はされていないのか。
「班長は知ってるんだろ? 聞いてこいよ」
「異動の理由なら聞きましたけど……」
「十年前の未解決事件の捜査、だろ。ならそっち行ってこいよ。あいつ、放っとくとロクなことねえぞ」
話しつつ、遺体を運び出すための道を開ける。
おそらく
悶々としているところに旦那の聴取を終えた灰本が戻ってきて、「綾瀬さん行きますよ」と目礼した。綾瀬は「おう」と返事して、長海を振り返る。
「いいか、相棒ならちゃんと面倒見ろよ?」
最後まで釘をさして、先輩の女性刑事は先に出ていった。
長海はため息をつき天を仰いで、少し遅れて外に出た。胸ポケットからスマホを取り出し、登録したばかりの連絡先に指を乗せる。仮に見られても特定されないよう、不本意ながら『ネコメ』で登録していた。
通常、捜査中は無線に頼りっぱなしのため、私物の携帯電話はマナーモードにしている。長海は、電源は入っていろよと願いながら、相棒の連絡先をタップした。
『はい』
ワンコールだった。紛れもなくネコメ本人の声と繋がる。
「今どこだ」
『仕事中です』
「どこだと訊いている」
『二年E組の教室ですよー』
「はっ?」
教室? こいつは何を言っているんだと思った。その直後、電話越しから若い女の声が聞こえてくる。耳を疑った。
『金古せんせー、私もトーク登録したーい』
『せんせー誰と話してんのー?』
『ちょっと電話中でしょ、あんたら静かにしなさいよ』
せんせーせんせー、と砂糖をまぶしたような声がいくつも聞こえる。ネコメを取り囲んでいるのは人の気配だった。外ではない。それこそ、本当に学校の教室にでもいるかのような喧騒。
長海は「おい」と低く咎める。
「先生ってなんだ。お前、今どこで何をしている」
『ランチの誘いならお断りしますよ。購買で餡パン食べましたから』
「どこの学校だ」
ネコメはふふっと柔く笑う。
『質問ばかりですね』
刑事のくせに、と言いたげな口調だった。知りたいなら自分で調べてはどうですかと、言ってもない言葉が聞こえてくる。
長海はため息をつくことで舌打ちをこらえた。
『うっわ、ため息なっがぁ』
「夜訊く。早く戻ってこい」
『はぁーい。お疲れ様でーす』
間延びする声から耳を離して、長海は食い気味に電話を切る。
――まったく、なんて奴だ。俺はこんなのの面倒を見なきゃいけないのか。
仕事以前の問題である。口で言えばいいものを、どうして俺が探らなきゃならない。クソッ。鈴のない猫みたいな奴だ。勝手にやってろ。
長海は内心舌打ちをして、不在のペアの代わりに曇り空を睨んだ。
* * *
ネコメが電話を切ると、再び質問コーナーがはじまった。
「せんせー電話終わった? 歳はー?」
「二十二だって」
「せんせーってハーフなの?」
「なんで先生になりたいんですか?」
「好きな食べ物は?」
「コーヒーが苦手なんだって。あと生魚も」
「え、刺し身食べれないの?」
「お寿司も無理じゃーん」
昼休み開始時と比べて人はどんどん集まり、二年E組の教室はあらゆるクラスの女子生徒で溢れ返っていた。ネコメに対する一問一答も、すでに本人が答えずとも賑わいとして成立している。
芽亜凛は、身動きできない人混みのなか、席でじっと質疑応答を見守っていた。男子は教室を追い出され、廊下で指を咥えて待っている。……あるいは歯軋りかもしれない。まるでいつかの、転校初日のような光景だった。
ネコメは教卓の前に座っていて、生徒はその周囲に膝を並べている。昼食を取りつつ開かれた質問コーナーで、教室はいつも以上に汚れていた。
掃除が大変そうだと芽亜凛は他人事のように思う。そしてその掃除をするのはE組の生徒たちである。
ネコメはスマホを内ポケットにしまうと、「校内案内してくれませんか」と手を挙げた。
「はいはいはーい!」
「するするするー!」
一斉に黄色い声が飛び交う。
ようやく騒ぎが収まりそうだと、芽亜凛は安堵した。これでは凛が職員室から戻ってきても座れないし、芽亜凛も動けず千里にも会えない。
ここまでの人気ぶりは容姿か、若さか、はたまた刺激か。そんな考えをぼんやりと浮かべる芽亜凛と、ネコメの視線が交差する。
「できれば転校生に案内してもらいたいんですが」
そう言ってネコメはにこりと口角を上げた。
「復習をかねて。いいでしょう? お勉強に行きましょう」
芽亜凛は無表情のまま瞬きをした。ネコメの言動には慣れてきていたが、この流れで指名されるとは思わなかった。
みんなが芽亜凛を注目している。
芽亜凛は、立ち上がるネコメの瞳を見つめ返した。色素の薄い虹彩に、自分の姿だけ映っている気がした。
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