回避して、終わらせて
それはランニング中の会話だった。
『芽亜凛ちゃんが知りたいのは護身術……でいいんだよね? それなら教えられるよ。軽くだったら』
芽亜凛が死のループに気づいた、三周目の体育のこと。隣を走る凛は、芽亜凛の急な訴えを聞き入れて、
『準備運動が終わってからでいい? ちょうど男子がマット運動なんだよね、一枚借りてやろっか。ほんとは見て覚えたほうが早いんだけど……男子苦手なんだもんね? うーん、どうしよっかなあ……』
凛は護身術の手本に、柔道部に協力してもらう気のようだった。女子の柔道部は凛しかいないため、その場合は必然的に男子を呼ぶことになる。
芽亜凛は『
『え、
渉は男子随一の柔軟性を持つ。そのきっかけが、幼少期に凛の柔術の的になっていたから、という話はこのとき知った。
ならば自分が身をもって経験しよう。芽亜凛はその旨を伝える。
『でも、結構痛いよ、大丈夫?』
芽亜凛は小さく首を振り、大丈夫と継ぐ。
『わかった。それならやってみるね』
今日の体育は雨天の自習。教師が到着するのは遅いし、跳び箱をする女子の横で、ひと組マット運動をしていても気づかれない。
二人はマットを余分に用意し、七段の跳び箱の横で向かい合った。
『今から教えるのは逮捕術。これはね、私の得意技なの。芽亜凛ちゃんにも伝授してあげる――』
今でも体育をするたびに、いろんな光景が蘇る。
千里を失って柔術に励んだことも、崩れる跳び箱から三城を守れたことも、生物学後、呼び出された凛をその柔術で助けたことも。
行動力があるのは凛のほうだ。芽亜凛は彼女に触発されて格好つけているに過ぎない。本当は消極的で、引っ込み思案で、人との触れ合いが怖い臆病者。
変えてくれたのは凛だ。凛がいたから芽亜凛はここまで強くなれた。強くあろうと、自分を奮い立たせられた。凛の隣で、凛に相応しい友達であろうとした。
芽亜凛は、凛の横でストレッチをしながら、こともなげに紡いだ。
「私、跳び箱で死のうとしたことがあるの」
芽亜凛と同じように交差する凛の腕が、緩やかに解かれる。
「転校した翌日。たった一日で、この世を去ろうとしてた。……でも死ねなかった。凛の教えが――私を救ってくれたの」
柔道、護身術、受け身の取り方。凛の教えてくれたすべてが、芽亜凛の死を予期せず防いだ。
「凛は私にありがとうって言ってくれた。私も凛にありがとうって言いたい。いつも私のなかにいてくれて、ありがとう」
たとえ教えてくれたのが今の凛じゃなくても、芽亜凛にとっては同じ、かけがえのない存在だ。ずっと、ずっと、友達でいてくれたのは凛だけだ。
私を受け入れてくれて、ありがとう。芽亜凛は微笑み、そう言った。
いつ、自分に死が訪れてもいいように――
「駄目だよ」
と、心のうちを覗き見たように、凛は首を横に振った。
「もう死のうなんて思わないで。ううん、思わせない。死なせない。私は絶対に、芽亜凛ちゃんを死なせないよ」
力強い笑みを浮かべて、凛は小指を差し出した。約束、と言って芽亜凛を射抜く。
求められるのは『これっきりにする』覚悟だった。
終わりにする覚悟。私の物語を閉じる覚悟。
――……わかってる。
芽亜凛はゆっくりと深呼吸をし、差し出された指に自分のものを繋いだ。
* * *
器具運びに手を痛めたふりをして、響弥はマットの上にあぐらをかいた。
「ひ弱なんよ」と
「もう休憩かぁ? ほかの手伝わなくていいの?」
「いいんだよ、俺らのマットはここだから」
「
「力仕事は体育会系に任せる」
「賛成ぇ」と、ゴウは挙手してマットに飛び込んだ。
いつメンのなかでも体力のない響弥、清水、ゴウは早々にマット運びを離脱する。女子に手伝おうかと声をかけて、しっしとあしらわれる
(憂鬱だ……)
芽亜凛のポニーテール姿にテンションが上がったのもつかの間、響弥は頬杖をつきため息を漏らす。
心に靄がかかって晴れない。理由はわかっていた。先日の告白が原因だ。
「おいおいどうした、元気ねえなぁ」
「フラれたからじゃない?」
「フラれてねえ」
芽亜凛に告白した男子が五人いたという話は、とうに広まっている。そのうちのひとりが響弥であるといつメンは知っているし、渉には今朝の体育館で話した。もっとも、渉が訊いたのは響弥の元気がなかったためであるが。
(そりゃあ保留ってさぁ……もやつくよなぁ)
保留とはつまり、告白を受け付けないということ。返事を考えさせてほしい? もしくは、もう一度時間を置いて告白してこいと?
「あぁぁぁぁ……わかんねえぇぇぇぇ」
芽亜凛の言った保留の意味が、神永響弥には理解できない。いっそのこと振られたほうが清々しかった。そうしたらさっぱり諦められただろうに……いや、それでも諦められないか。
わからない。自分の気持ちも芽亜凛の気持ちもわからない。そのせいで四六時中、彼女のことを考えてしまう。
恋にうつつを抜かしていては、
「重症だな」
「だねぇ」
「恋煩い」
「神永には早すぎたんだ」
「だなぁ……。あ、あいつだ」
清水の視線が素早く動く。響弥は話題の変化を感じて仕方なく顔を上げた。
よく目立つ白っぽい金髪の長身が、体育倉庫の前にいた。
「やったー!」
「来てくれた!」
「せんせーこっちこっちー」と、女子に囲まれてキャーキャー言われている。
ゴウは眩しいものを見るかのように「うわー……」と目を細めた。
「やっぱ顔か……顔なんだな……」
「すんげえなぁ、E組の教育実習生」
肯定的な二人に比べて、響弥は「そうかぁ?」と不貞腐れる。
「そこまでイケメンじゃなくね?」
「イケメンだろあの顔は」
「イケメンっつーか……美人じゃね?」
「神永……」
「ついに目覚めたか」
「目覚めてねえっつの」
一般的に、教育実習の期間は五月から六月だそうだ。六月に転校生が来た今、少し遅れて実習生がやってきても珍しさはない。どちらも二年E組に入るとは誰も思わなかっただろうけれど。
転校生と実習生。二年生の話題は今、そのふたつで持ちきりである。だが響弥の気持ちは『興味がない』の一択だった。言わずもがな、教育実習生に。
「なんか揉めてるみたいだね」
体育倉庫の出入り口付近には、依然として人集りができている。器具はひととおり運び終えたというのに、みんななかなか戻ってこない。実習生が中心となって何かしているようだった。
響弥はよく見ようとして立ち上がり、身体を傾けて静止した。
「これは趣味が悪い。いや、たちが悪い。見えない切れ込みが何本も入っています。中心に重みを加えた途端、板割りの要領でぱっくり行きますよ。運んでいる最中に崩れなくてよかった」
実習生は跳び箱の一部を縦に置き、その内側を覗き込んでいた。そばには凛と芽亜凛と、渉と柿沼もいて、授業を受けるみたいな真剣な面持ちで聞いている。
彼が何に気づいたのか。話が聞こえなくても、響弥には手に取るようにわかった。
(あいつ……)
舌打ちをこらえて実習生を睨む。
彼が説明していた跳び箱は体育倉庫に戻された。響弥が事前に仕掛けておいた、細工入りの七段の跳び箱。
そして誰の提案か、代わりに高跳び用のバーが設置される。
「お、なんか終わったみたいだな」
「なんだったんだろうね」
「さあ……?」
肩をすくめる二人の横で、響弥は「俺あいつ嫌い」と、実習生の評価を一新させた。
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