第六話
右往左往
「どう、知りたくなった?」
「お前……
「やめてよ気持ち悪い」
渉がため息混じりに問えば、晩夏は能面のようなその顔にぴしりと亀裂を走らせた。どうやら朝霧に対しては、嫌い寄りの感情を持っているらしい。予想どおりと言っては失礼かもしれないが、ライバル心のようなものが少なからずあるのではないかと渉は思った。
あれから晩夏すみれのことは自分なりに調べたつもりだ。テストの成績は常に学年二位で、一年の頃は特進クラスのA組にいたという。朝霧
その立場を不憫に思って、彼女を応援する者がいればよかったのだが、渉の聞いた範囲じゃそのような生徒は一人も見当たらなかった。晩夏はクラスでも孤立しているらしく、友達がいないようなのだ。
対する朝霧は人好きのする優等生。誰も彼を引きずり落とそうとは願わないし、むしろ活躍に期待する。朝霧を嫌うことは、二年生では珍しい類に入り、晩夏はますます孤立する。それほど朝霧の評価は高い位置にあるのだ。
しかし、彼女の嫌悪感はそれだけじゃない気がする。ただの対抗心ではない。憎しみに似た、執着心のような何か。じゃなきゃ、あの朝霧を指して気持ち悪いなどと言えるだろうか。
晩夏は、すとん、とゲートの上から下り、憂いの帯びた瞳を伏せた。拍子に眼鏡が下がるが、彼女は気にする様子を見せない。
「私は彼に、一生かけても塞がらない傷を与えられたの」
そう言って、左頬を痒そうに指先で撫でる。
「彼の本性、私が教えてあげるよ」
微かな笑みを湛えて、晩夏は渉を見据えた。言いたくて言いたくて堪らないといった悪意のある顔つきにゾッとする。
朝霧への個人的な恨みにすぎないなら、渉は『聞きたくない』と今ここで一蹴するべきだった。しかし晩夏は拒否権など与えず、傘を持つ渉の手を取ってバサリと差した。
「自分の傘あるだろ」
自然と肩を寄せる晩夏に、渉は反射で身を遠ざけた。見たところ持っているようには見えないが、濡れていないのだから折り畳み傘を隠し持っているはずだ。
「いいじゃん。こないだだってしたでしょ」
「俺お前のこと結構アレルギーなんだけど」
「面白いこと言うね」
人の傘で勝手に相合い傘を形成した晩夏すみれは、くすくすと笑う。そこは怒るところじゃないのか。渉の正直な気持ちにも、晩夏は傷付く素振りを見せない。冗談だと思われているのか、馬鹿にされているのか。
まだよしとも言っていないのに話を聞くことになって、渉はため息をついた。遅かれ早かれ、彼女とは再び接触するだろうと思っていた。
仕方なくできるだけ彼女から距離を取りつつ、渉は肩が濡れるのを我慢して晩夏に傘を差し続けた。どこかの王族の召使いにでもなった気分である。雨の日に立ち話をするわけにも行かず、渉は彼女の指示に従って、二人きりになれる場所を探した。
* * *
いったいどこへ向かっているのだろう。
穢れを知らない亜麻色の髪とミルク色の滑らかそうな肌が、梅雨空の下でも眩しい。厚着で誤魔化しているようだが、身体つきは細身のようだった。男にしては顔の大きさも小さい。
まさか徒歩で来たとは考えにくいが、捜査車両の場所はわからなかった。少なくとも学校周辺には止まってなさそうである。
響弥と並んで歩いていても、刑事はパーティー用の鼻眼鏡を着けたままだった。街で戯ける若者という認識をされているのか、道行く人はたまにこちらを一瞥しても、すぐに興味をなくしていった。何の意図があるのか不明だが、まだ雨の日でよかったと思う。でなければ、もっと注目を集めていただろう。
刑事に連れてこられたのは、最寄りのショッピングモールだった。目的地に着いて早々、刑事は不意に話しかけてくる。
「ここのたこ焼き屋、すごーくおいしいんですよ。でも今日はやっていないようですね。なかに入って座りましょうか。響弥くん、何か食べたいものはあります?」
「いや、別に、特には」
「そうですか、夕飯食べられなくなっちゃいますものね」
刑事はそう言って傘を下ろすと、バサバサと開閉して雨粒を飛ばした。響弥も傘を畳んで水を切る。
ショッピングモールの隣でやっている屋台のたこ焼き屋は、今日は影も形もない。雨の日だからだろう。警視庁の刑事のくせに、街の状態にも詳しいのか。
刑事は鼻眼鏡を外して、スーツの内ポケットにしまった。
「ではアイスクリームでいいですか?」
響弥は思わず薄く唇を開いた。問われたことに対してではない、刑事の素顔に驚いたのだ。そのあまりにも整った顔立ちに、響弥の心拍数が脱兎のごとく跳ね上がる。
美しかった。彼を作るすべての造形が。一つひとつの整ったパーツが、彼という作品を生み出しているようだった。
(あっぶねー……)
刑事は女の顔に少年の笑みを添えている。響弥は刑事から視線を逸らし、心音を落ち着かせようと胸元を押さえた。異様に見えた日本人離れした髪色も、心から美しいと思った。
「あー……イケメンだから変装してたんすね」
イケメンというより女顔の美人だが。白金の刑事は「刑事に見えなくていいでしょう?」と言ってにこりと微笑んだ。言われ慣れているのか、自分の顔がいいことは否定しない。
確かに、校門前にいた生徒たちには刑事に見えなかったはずだ。響弥だって警察手帳を見るまでは半信半疑だったし、遠目からなら鼻眼鏡同様、おもちゃに見えただろう。こちらとしても警察に連れて行かれたなんて噂が立っては迷惑極まりない。
入口ですれ違った若い女性らが、「綺麗な人だねー」などと話し合っている。響弥は刑事に連れられて、二階のアイスクリーム店に向かった。学校の知り合いがいないか一応辺りを見回したが、藤北の生徒はいないようだ。まあ、いたところで警察と一緒だとは思わないだろう。
刑事は年上らしく奢ってくれるそうで、ふたり分のアイスを頼みに行った。椅子に座って待っていると、響弥の頼んだシングルアイスと、自分用らしい分厚いクレープを持って戻ってくる。いや、アイスじゃないのかよ。受け取って、響弥もクレープにすればよかった……と少しだけ羨んだ。
席に着いたのは、刑事と、もうひとりいた。
お手並み拝見だね、と。刑事と向かい合う形で、隣に
* * *
「お前、なんで俺の名前知ってたの?」
店の一番奥の席に座って、渉は晩夏に尋ねた。二人が入ったのは、学生の寄り付かなそうなコーヒー専門店。客は会社帰りのサラリーマンや高齢者が数人いて、若い子の姿は一人も見当たらなかった。それを見越して晩夏も店選びをしたのだろう。
「だってあなた、有名だもん。便利屋
「そんなに有名でもないけど……」
渉はアイスコーヒーを一杯頼んだ。晩夏は好きではないのか、首を左右に振る。渉は鞄からタオルを取って、雨で濡れた肩を拭いた。
「私の名前は、もう知ってるよね」
「知ってる。二年B組、晩夏すみれ。生徒手帳に書いてあった」
「その節はどうもありがとう。本当に、あのときは助かったんだよ」
「そりゃあどうも」
「あんなに優しくされたのはじめてだった。あなたは優しくて、いい人だね、望月渉くん。普通の人にはできないことだよ」
俺はあんなに恐怖を抱いたのははじめてだったが。晩夏が頬をぽっぽと赤らめて言うので、渉は黙っていた。
「私たち、このまま付き合っちゃおうか」
「は……?」
少女の一種の告白にも渉は動じない。いったい何の冗談だ、と目を細めた。
「私はいいよ。あなたがいいのなら」
「言ってる意味がわからない」
「私の裸を見たでしょう」
「見せてきたのはお前だろ」
「相手の裸を見た男性はその人と結婚しなくちゃいけない。日本古来の陰陽和合を知らないの?」
「お前俺より頭いいんだろ? だったらもう少しちゃんとしてくれないか」
「ふぅん。私のこと調べてくれてたんだ」
あ、と渉は口を開いた。晩夏の顔には、引っかかってやんのー、と書いてある。
朝霧と言い晩夏と言い、どうして優等生はみな変化球を投げてくるのか。この手の戯言吐きを前にしたとき、まともに相手をしたほうが負けだということを、頭の固い渉は知るべきだった。
やがて頼んだアイスコーヒーが届く。一口すすって心を鎮めているさなかにも、晩夏は渉にスマホ画面を見せてきた。渉は片眉を吊り上げて注視する。
どんなふざけた写真かと思えば、これこそが本題だった。晩夏は先ほどとは打って変わった神妙な面持ちになる。
「彼、夜になるとね、大人の人と会ってるの。友達だって言ってたけど、嘘だよ」
画面に映っていたのは、朝霧修だった。若い大人の女性と二人きりでホテルに入っていくところを、何枚かに分けて撮られている。
「これって盗撮だよね」
「今はいいでしょそんなこと」
怒りにも似た素早い切り返しに渉は、うっ、と息を呑む。冗談でも論点のすり替えは許さないみたいだ。
「えっと……日付は?」
「六月五日から、休日を抜いて十日まで」
「ってことは四日間……」
ほぼ毎日だった。そうまでして朝霧をつけ狙う晩夏の執念にも驚くけれど。
渉はコーヒーカップを置いて、苦い顔をした。
「朝霧は……ホテルで何を?」
「男と女がホテルですることなんて決まってると思うけど」
「でも毎日やるか?」
「セクハラだよ望月渉くん」
「ごめん……」
言いながら、渉は完全に頭を抱えてしまった。
朝霧は親と不仲で帰る家がなくて困っていて、ヌギ先輩を頼って、渉を頼って、それがきっかけで仲良くなった。わかりにくい冗談を言う奴だが、勉強もできて運動もできて友達も多いのに、渉と仲良くしてくれている。悪い奴じゃない。絶対に、悪い奴では……。
『それ別に行きたくなかったって聞こえるけど』『お前、
ああ、なんであんなことを言ってしまったんだろう。まさか朝霧は、本当は……本当に……。
「売春――かもね。よくあるでしょう、優等生の裏の顔」
「……きみも相当裏がありそうだけど」
しぶしぶ渉は顔を上げ、コーヒーを口にする。
――大丈夫だ。落ち着いて考えればきっと……。カフェインで頭は冴えているはずだろう?
だけど朝霧のことを考えると、どうしたって擁護してしまう。頭ごなしになってはいけない。自分でもわかっているはずなのに。
「私はあなたに救われた。だから私は、あなたを救いたいんだよ」
眼鏡越しの強い眼差しが渉に注がれる。晩夏すみれはそう言って左頬を撫でた。それが彼女の癖なのだと、渉は遅かれながらにして気づいた。
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