連鎖反応
午後の授業も問題なく進み、帰りのホームルームで明日の予定と提出物の確認をしたら、一日の活動は終了する。
渉はポケットからスマホを取り出して、メモアプリを起動した。買い物一覧と書かれた下には、味噌、牛乳、ラップ、トイレットペーパーと続いている。今日買う予定の品々だった。
望月家では出張と夜勤で忙しい両親に代わって、買い出しの手伝いを姉弟が行なっている。食品は休日に母が済ませてくれるため、渉たちが買うのは日用品がメイン。
渉の担当は、自分で使うものと全体で足りていないもの。姉の
お金は共有の電子マネーでやりくりされるので、記録の確認もしやすいが、急にシャンプーを変えたりすると揉める。渉もはじめてヘアワックスを買ったとき、自分の小遣いで買いなさいよと果奈に怒られた。
味噌と牛乳は昨日の母の買い忘れだ。急ぐ必要はないが、先延ばしする前に買ってしまおうと、渉は鞄を手に席を立つ。本当は自転車通学の日に買うのが楽なのだけれど、これくらいの量なら徒歩でも差し支えないだろう。
部活に行く生徒に紛れて教室を出ると、E組の廊下に響弥が一人、壁にもたれて立っていた。渉は目を見開き、不味い味がするような顔になる。なんで、というのが単刀直入の心の声だった。
響弥は渉の視線に気づいてこちらを見ると、同じように瞠目した。そして、ぱちぱちと二度瞬きをすると、決まり事みたいにへへっと笑う。
「よお! 一緒に帰ろうぜ」
渉は面食い、ぽかんとした。今のは自分に向けられた言葉なのだろうかと、思わず背後を振り返る。響弥は「そんなお約束な反応すんなよ」と笑い、渉は自分のことだと認めた。
「べ、別にいいけど……買い物行って帰るぞ?」
「いいよ、付き合うぜ」
颯爽と横に並んだ響弥は渉と足並み揃えて、昇降口へと歩き出す。渉は話の仕方に頭を悩ませた。
何を――何を話そうか。親友との間に流れる沈黙を恐れるなんてはじめてのことだった。久しぶりだなと切り出すべきか、それとも、急にどうしたんだよと尋ねるべきか。どちらも先日の喧嘩に触れて、空気を悪くしてしまうんじゃないか……。
ならば何も言うまい。響弥が話し出すまで口をつぐんで、身構えていればいい――
とてつもなく長い十秒程度の沈黙の後、響弥は、「実は渉に言いたいことあってさ……」とぼんやり口を開いた。渉はほとんど条件反射で「待った」と声に出す。
「それ、俺から言う」
「へ?」
階段の踊り場で足を止めて、渉は、ふぅ……と息を吐き、「こないだは……ごめん」と、頭を下げた。
「い、言い過ぎた……悪かったと思ってる。全部、撤回する」
響弥が教室に来なくなった途端、あの日放った言葉が自分自身に跳ね返り、渉の胸を責めていた。だったらもう誘うなよ。わかってくれないならもういいよ――自分がそう言ったから、響弥は誘わなくなったんだ。会いに来なくなったんだ。自業自得じゃないかと後悔しても遅かった。
――やっと、謝れた。
苦し紛れにその穴を埋めようとしても、こいつの代わりはいないんだって心から思えた。響弥はほかの誰でもない、渉の大切な親友なのだから。
響弥は「もうー」と悔しげな声を上げ、「俺から言おうとしてたのにー」と間延びをする。
「謝るのは俺のほう。ごめん、悪かった!」
今度は渉とすれ違うように響弥が頭を下げた。渉が小刻みに首を横に振っていると、響弥は「へへっ」と言って顔を上げ、ごしごしと鼻を掻く。
「渉と話せない間にさ、去年の冬休みを思い出したよ」
「去年?」
聞きながら、再び歩き出した親友の隣に並ぶ。去年の冬に響弥と喧嘩なんかしたっけ。
「憶えてねえの? まあ悪かったのは俺なんだけど……」
「俺は中学の頃を思い出したよ。それも冬だった」
「何かあったっけ」
「憶えてねえのかよ……って、あれは俺が悪かったんだけどさ」
そこまで言って顔を見合わせ、渉と響弥は同時に吹き出して笑った。
「自分が悪かったことだけ憶えてるのかよー!」
「仕様がないだろ、責任感じるんだよ」
「おあいこだな」と言う響弥に、「だな」と返して、渉は笑い涙を拭く。くだらないことで喧嘩して、自分に非があった出来事だけ憶えている。自分たちらしいなと、つい顔がにやけてしまった。
渉が気にしていた間、響弥も同じように思っていたんだ。気づいた心が足取りと一体化して、くすぐったく弾む。今までのこと全部忘れてしまえそうである。
そのあと、「トークに顔出した?」「出してない」という話になり、また笑い合った。考えていることが同じ過ぎて可笑しくなる。何を意地張っていたんだろう。こんなことならもっと早く謝っておけばよかった。響弥もきっと、同じことを思ったはずだ。
生徒玄関で傘を手に取り、響弥は空を覆う雨雲を見上げる。
「渉、今日自転車じゃねえじゃん。運ぶの大変じゃね?」
「大丈夫だよ、買うのも切れてる分だけだし」
「家まで送ってやろうか?」
「か弱いんだから無駄に体力使うな」
響弥は渉の辛辣な返しにも、へへへ、と嬉しそうに笑う。渉もにやにやしっ放しだった。気持ちだけ頂戴してスーパーに向かうとしよう。
「車があったらなー」
ブーンブーンと言いながら、響弥は片手のジェスチャーでハンドルを回す。渉は「運転できないだろ」と突っ込んだ。「無免許運転は犯罪ですよ」と、
渉じゃない、誰かが介入した。校門を抜けようとした矢先のことだった。「え?」とふたりは反応する。
校門の陰からぬらりと現れたのは、ビニール傘を差した奇妙な青年だった。ぶら下げていたのは真っ白な笑み。
「どうもー。国家権力です」
渉はダブルミーニングで目を細めた。ひとつは、なんだこの怪しい人、と警戒して。もうひとつは、一目見たときから白くて眩しいなと思ってだ。スーツの上から着込んだモッズコートの厚さと、髪と肌の色素の薄さに目がチカチカする。そして何より奇妙なのは――
なぜか顔に、鼻眼鏡を着けていることだった。下校する帰宅部の好奇な目は、彼の一点に注がれている。
「神永響弥くん、すこーしお時間よろしいですかぁ?」
男は物腰柔らかに響弥を捉えた。渉は『知り合い?』という目で響弥を見たが、どうにもそんなふうではない。眉をひそめているし、首を大きく傾けている。
「誰っすか?」
「犬のおまわりさんですよー」
わんわんっ、と陽気に鳴き真似しながら、彼は懐から警察手帳を取り出して、はらりと開いた。つい顔写真を見てしまうところだが、渉は手帳下部に注視する。金と銀の輝く記章に、警視庁の文字が入っていた。本物だ……。
えーっ偽物じゃないっすかー? と普段の響弥なら茶化しそうなのに、今日の彼は大人しく顔色を変えた。
「悪い、渉……買い物付き合えねえや」
響弥は苦々しくへらりと笑って、「また連絡する」と手を振った。警察が来るような心当たりがあるのだろうか。それとも時間を取らせるのは悪いからと、自分に気を遣っているのだろうか。連れて行かれる親友の姿に二の句が継げず、渉はただ頷くしかできなかった。
信じられないものを見た気持ちを引きずって、一人でスーパーへと向かう。警察手帳が本物であろうと、あの人が本物の刑事とは限らない。渉はそんな矛盾した思考を抱いた。ならばなぜ親友を助けなかった?
答えは簡単である。あの人の雰囲気が本物だったからだ。
通常、警察官は二人一組で勤務に当たるらしいが、どうして単独で動いていたのだろう。まだ一人で動く時間帯なのだろうか。学校の前で待ち伏せして、名前も知っていて……いったい響弥に何の用があって?
「というかあの鼻眼鏡は何だ……」
彼への疑問は尽きない。渉は独り言を漏らして横断歩道の先を見据えた。ここを渡ればスーパーはもう目と鼻の先である――
それを目にした瞬間、ひゅっ……、と呼吸が不可解な音を上げて聴覚を遮断した。
スーパーの前。駐輪場のゲートに、正真正銘、大きな眼鏡を掛けたあの子が腰を下ろしている。
雨の線が走る視界で、彼女――晩夏すみれは、まっすぐ渉を射抜いていた。
渉は渇いた喉に無理やり唾を押し込み、どうなってんだよ、と口のなかで呟いた。もう勘弁してくれ。心が悲鳴を上げていた。
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