人気者と日陰者、太陽と月

 生徒会室が飲食可能かどうかわからなかったので、渉は教室で弁当をたいらげてから行くことにした。夏季大会に向けた部活動の予算整理に忙しく、先日開かれた委員会の資料がまだ散らかったままなのだという。

 話を聞いたのは今朝だった。『手伝ってくれない?』と珍しく朝霧のほうから持ちかけてきて、じゃあ昼休みにと片付ける約束をしたのだ。


 窓の外に広がる曇りのち雨の天気を横目に廊下を進んで、渉は生徒会室の扉をノックした。――返事はない。朝霧は先に着いているはずだが――扉に近付く人の気配もなかった。渉は、はて、と首を傾げる。

 勝手に入っていいのだろうか。執行部だけの極秘資料や機密の文書があったり……だったらまず誘わないか、と思い直す。うーん、としばらく考えてみて、渉は音を立てずにドアノブを回し、室内の様子を覗き見た。


 朝霧とピンク髪の彼女が濃厚なキスをしていた。抱き寄せるように、彼女の後頭部と細い腰に腕を回して貪っていた。……って、


(――は?)


 人の姿にどきりとする間もなく情報量に目を焼かれて思考が停止する。閉めかけた扉の隙間から、唇を離す朝霧の姿が見えた。


「めぐみの身体が一番大切だから。ね?」

「はい……」


 研ぎ澄まされた聴覚でなんとかそれだけ聞き取ると、渉は気づかれる前に扉を閉め切って、その場でうなだれた。ため息を抑え、鼓膜にドクドクと響き出した心音を落ち着かせる。


(あいつは……何をやってんだ、こんなところで)


 あまりの衝撃に声が出なかった。というか出すべきではないが。そう思った次の瞬間、目の前の扉が大きく開かれて「っ!」と息を呑んだ。

 出てきたのは小坂めぐみだった。高揚した顔は耳まで赤く、頭が振り子のようにゆったりと左右に揺れている。


「あっ……え、と……」


 咄嗟に言い訳しようと慌てるものの、とろんと潤んだ小坂の瞳は渉の胸辺りに向けられたまま、意識はどこか遠くにあるみたいだった。あたふたしながら道を譲ると、小坂はふらふらと歩きはじめ、そのまま廊下の奥へと消えていった。

 その後ろ姿を最後まで見届けて、渉はハッと生徒会室を見やる。机にもたれかかった朝霧が口角を上げていた。


「やあ。見てたの?」

「お前さぁ……」


 呆れ声を漏らしながら生徒会室に入って、渉は後ろ手で扉を閉めた。


「なーんだ?」

「……結構チャラチャラしてるよな。校内でチューとか、普通しないだろ」

「苺ジャムの味だったよ」

「聞いてねえよ」


 人を呼んでおいて女を連れ込むなと、怒りのような呆れのような感情が渦を巻く。一番近い気持ちは嫉妬だった。それが何に対するものかは渉自身も説明できない。


「しばらくできないから代わりにね」

「何の代わりだか」


 机上のファイルに手を置いてから「ん?」と動きを止める。――今の会話の流れ、おかしくないか? 何の代わりって、何の代わりだ?

 ちらりと朝霧の顔を見ると、彼も渉の顔をじーっと見つめていた。このあと行われる渉の反応、そして動向を観察しているみたいだった。……まずい。このままでは察しの悪い奴だと思われる。強がりだが、渉は女性経験のない奴だとは思われたくなかった。


「あー……体調悪いとか?」

「そのはずなんだけどね」


 どうにか的を射たようで、朝霧は流暢な返しをしてくれた。


「あれは僕に言ったことも忘れてるな……まあ嘘なのはわかってる」

「仮病?」

「みたいなものだよ。想像仮病」

「何だそれ。造語?」

「A止まりの望月くんにはわからないかもね」

「今すげえイラっとした」


 渉のありのままの反応に、朝霧はくすくすと笑っている。よかった、と渉は人知れず安堵した。

 晩夏ばんかすみれって子知ってる?

 委員会があった日の放課後から、ずっとその一言が出せずにいた。朝霧のことをよく知っていそうな謎の少女。彼女の存在が心を巣食って消えず、朝霧とうまく接することが難しくなっていた。

 だが今の調子だと大丈夫そうだ。いつもどおりの会話ができている気がする。


 与太話もそこまでにして作業に移ろう。この優等生が校内でキスしていようが、彼女の性交渉を断ろうが、渉には一切関係ないことだ。


「遊園地行ってきたんだろ? どうだったんだよ」


 適当に話を振りながら、渉は机上に乱雑に放られたノートやファイルを揃える。表紙の番号どおりに並び替えたそれを、朝霧は生徒会室の棚にてきぱきと片付けていった。


「それなりに楽しかったよ。あ、お土産忘れてた」

「いいよ俺は」

「違う違う。渡しそびれてたなって」


 そう言って朝霧は鞄から土産物を取り出して、「はい」と渉に手渡した。箱詰めのクッキーと、小さなラッピング袋。サイズ的にキーホルダーっぽかった。


「お、おう、サンキュー。見ていい?」

「どうぞ」


 破かないように丁寧に袋を開けて中身を出す。手のひらに転がったのは、ピンクの兎のキーホルダーだった。荷札にはレプスディアランドのマスコットキャラクターと記載されている。

 渉は顔をしかめた。不気味というか、キモカワというか、兎の目がイッている。マスコットキャラにしてはホラー感が強い。子供、泣くんじゃないか。


 反応に困っていると、「どっちも限定品だよ」と念を押された。そんなことはわかっているが、どこに付けようか悩んでしまう。とりあえず今は「ありがたく受け取っておく」と言って、袋に封印した。

 遊園地に行くことは事前に聞かされていたが、土産物を貰えるとは思っていなかった。ほかの人にも渡しているだろうけれど、そのなかの一人になれたことが素直に嬉しい。


「今度は二人でどこか行こうよ」

「どこって?」


 鞄にしまいながら渉は尋ねる。


「天気を気にせず行けるのは水族館かな。きみが嫌じゃなきゃ僕はどこだっていいから」

「昨日は晴れてよかったな」

「誘った事実が大事なんだよ」

「それ別に行きたくなかったって聞こえるけど」


 冗談にしては酷い失言をしてしまい、渉はつい朝霧の顔色を注視する。が、朝霧は傷付いた様子もなく、どころか満更でもない表情をしていた。今にも、バレちゃった? と言い出しそうないたずらな笑みである。


「お前、小坂さんのどこに惹かれたの?」

「純粋なところ。笑顔が素敵なところ」


 手際と同様、流れるような妥当な回答に、渉はジトリと目を細める。


「いかにも準備してたみたいな返しだな」

「よく訊かれるからね。きみも不相応だと思ってるんだろ?」

「……意外な組み合わせだなとは思ってるけど。俺も人のこと言えないし」


 傍から見れば渉も同じようなものだ。

 朝霧は「どうして?」と興味ありげに訊く。渉は片付けを再開させつつ、自嘲的な薄ら笑みをしてみせた。


「どう見ても合わないだろ。人気者のお前と、日陰者の俺じゃあ」


 現に、A組の教室や廊下で何度か耳にしている。なんであいつが? どこの男子? 地味そう。正反対だな。朝霧くんに合わない。

 運動も勉強も平均以上にできるけれど、成績のよしあしではない。外見や周りの評価が主な対象であった。どの言葉にも、渉は言い返せなかった。


「僕は対等だと思ってるよ。他人からどう思われようと、僕らは僕らだろ」


 渉は本人を前に弱音を吐いてしまったことを一瞬だけ後悔したが、朝霧のまっすぐな言葉に感銘を受けて、心がすぅっと軽くなるのを感じた。「そうかな……」と呟く渉に、朝霧は「そうだよ」と笑い掛ける。お世辞かもしれないけれど、そんなふうにはっきり言われるのは照れ臭い。


「そういう望月くんは百井さんのどこが好き?」

「っ……、はっ?」


 不意を突いた質問に思わず声が裏返った。朝霧は、はーあ、とため息を声にして肩をすくめる。


「隠してるつもりなら望月くん相当鈍感だね」

「だって……お前の前で言ったことないし」


 好きな子いる? と以前に訊かれたが、凛の名前は出していない。気持ちを明かしているのは響弥と千里くらいで、それ以外はせいぜい幼馴染をネタにいじってくるくらいだ。どこでバレたのか見当もつかない。

 考え込む渉をよそに、朝霧はふふっと無邪気に微笑んだ。


「嘘嘘。鎌を掛けてみただけ」

「なんだ、嘘かよ……」

「って安心したところで後の祭りだけどね。幼馴染なんだろ? いいね、そういうの」


 ほっとしたのも束の間だった。半ば自白とも取れる反応によって確定されてしまい、自分の無防備さを悔やむ。こいつ、そういう手を使ってくるのか。完全に油断していた。だったらこっちも……と、渉は咳払いする。


「朝霧は昔馴染みの友達とかいないの?」


 さもノリで訊いたかのように装い、渉は声色を一定に保った。質問の本意は幼少期のエピソードを聞き出すことである。ストレートに問うのではなく、別の角度から切り込んで――


「幼馴染ってほどじゃないけど、幼稚園が一緒だった子は一人いるよ」


 狙いとは違う予想外の結果に、手からノートが滑り落ちそうになった。「マジ? この学校に?」と、身体が自然と前のめりになる。朝霧は、うん、と難なく肯定した。昔話を聞くチャンスが、まさかそんな棚ぼたを引くとは。


「知りたい?」


 ノートを受け取り尋ねる朝霧に、渉は力強く頷いた。ここで引いたって仕様がないだろう。


「だったら身体で払ってもらおうかな」


 朝霧は余裕たっぷりに言うと、長テーブルに腰を掛けて足をスッと優雅に組んだ。その意図を自己なりに汲み取って、渉はムッとしかめっ面になる。バラバラだったファイルも大方片付け終わったところだ。ここらで休憩してもいいだろう。

 渉はその場で跪いて、朝霧の上履きを脱がした。


「おー、足つぼマッサージ?」

「違う。整体だよ」

「できるの?」

「柔道の先生に教わったからな、自信あるよ」


 ふぅん、と朝霧は鼻を鳴らした。

 中学で剣道部に入るまで通っていた柔道クラブの教えは、今も身についている。渉ができるのは歪みの矯正と筋肉をほぐすこと。痛いか気持ちいいかはその人の身体次第だが、する前と後ではまったく違う、と藤北の柔道部員にも絶賛された。


「横になれよ。足上げる」

「え? ここでやるの?」

「お前がそこ座ったんだろ。それとも床に寝転ぶか?」


 朝霧は、本気でやるつもりかと疑っているような目で、床とテーブルを交互に見た。一見、床に汚れはないが、制服が白くなる可能性はある。渉は「ほら、早くしろって」と朝霧の両肩を掴んだ。


「痛くしないでよ?」

「その保証はできない」


 有無を言わさず寝転ばせたとき、生徒会室の扉がガチャリと音を立てた。ん? と二人は揃って顔を向ける。そこには、委員会ノート、とマジックペンで書かれたノートを胸に抱えた女子が、呆然とした様子で立っていた。

 女子生徒は二人と目が合うや、「し、失礼しました!」と飛び跳ねて扉を閉める。何だったんだと渉は瞬きをした。


「一年で委員長をしてる子だね。美術部の子だ」と朝霧は渉の下で口を動かす。

「何か用だったんじゃないのか」

「さあ。もしかしたら誤解されたかも」

「どんな?」


 朝霧は渉の手を押し退けてひょいと身体を起こし、上目遣いで真っ白な歯を見せる。


「昼休み、二人きりの生徒会室。机の上に押し倒された僕と、今にも襲いかかろうとする望月くん」


 歌うように語る朝霧の話を渉は沈黙で受け止めた。そして、


「……えっ、喧嘩か! それはやばいな……」


 追いかけて誤解を解いたほうがいいんじゃないかと訴える渉に、「こういうジョークは通じないのか」と朝霧はかぶりを振って腕時計を見た。気づけば昼休み終了間近。遊んでいられるのもそこまでだと時計の針が告げる。

 二人は急いで教室へと帰還した。今日の昼休み――朝霧との時間は、眼鏡を掛けたあの子のことを忘れるほど、有意義なものだった。


 二人の関係が変わってしまうまで、あと少し。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る