Curiosity killed the cat

 刑事は名刺を差し出して、金古メテオと名乗った。流星と書いてメテオと読む。あだ名はネコメで、ぜひそう呼んでくださいと響弥に話した。


『カネコメテオでネコメ刑事ね……』


 茉結華は隣で、くくく、と笑う。犬のおまわりさんではなく、猫のおまわりさんだったわけだが。言われてみれば、彼のアーモンド型の大きな瞳もそれっぽく見えてきた。


「あのー……俺、逮捕されるんすか?」


 問えば、ネコメは甘くて冷たいクレープを飲み込んで、「何か心当たりでも?」と聞き返した。表情はまったく変わらない。


「いや、ないっすけど……」

『何の用で来たんだろうね』


 茉結華は傲慢そうに頬杖をついて、ネコメを舐め回すように観察している。それは響弥にもわからなかった。今さら警察の厄介になることはないはずである。だから響弥は、どこからともなく召喚された使い魔と相対しているような、不思議な気持ちになっていた。

 刑事は物凄いスピードでクレープをたいらげていく。ひとつじゃ足りないんじゃないかと思うくらい、見事な食べっぷりだった。仮にもアイスが乗っているクレープだろう、頭が痛くなったりはしないのか。


「響弥くんのご実家は神永分寺かみながぶんじというお寺さんのようですね。お父さんは元気にしていますか?」


 少食で、食べるスピードも遅い響弥は、ぱちぱちと瞬きした。

 なぜそんなことを尋ねるのだろう。世間話にしては、切り込んできた感じが否めない。それともこれは、響弥の家を調べていることを遠回しに伝えているのか。

 響弥は表情を維持したまま、口元のアイスを舐め取るのに必死なふりをした。案の定、ネコメは響弥の困惑を読み取って理由を述べる。


「最近ご住職の姿をお見かけしないなあと、気になっていたところなんですよ」

「……親父は出張中で今はいないっす」

「おや、そうでしたか。ご挨拶に伺いたかったのですが」

「刑事さん、親父と知り合いなんすか?」

「いえ、憶えているのは私だけですよ」


 言葉に違和感を覚えたが、響弥は少しだけホッとした。父親の知り合いならば話が早い。ネコメは響弥にではなく、父親のほうに用があって訪ねてきたのだ。

 なんだ、そういうことか、と安心してアイスの残りを減らしていくと、ネコメは「あっ」と言って眉をひそめた。


「となると……響弥くんは今お家で一人ということですか? ご飯はちゃんと食べています?」


 響弥はニヤリと笑みを浮かべた。直前であれば、警戒心を示すべきだっただろう。だが今は、刑事に抱いていた恐怖心も緊張も和らいでいる。ここらでやり返してやるのもいいはずだ。


「刑事さん俺のこと調べてるでしょ」

「何のことですか?」

「だって普通は、母親がいると思ってそんなこと言わねーじゃん」


 このとき刑事ははじめて視線を逸らした。テーブルの上に指を組んで、諦めたような顔をする。


「さすが、藤北に通う生徒は賢いですね。口が滑ってしまいました」


 それは心を許したあんたのミスだよ、と響弥は思ったが、煽るのはそこまでにしておいた。褒められて悪い気はしない。


「別にいいっすよ。やましいことなんて何もないし」

「……すみません。つい、心配のあまり……」


 刑事はそこで言葉を終えた。心配している姿は演技ではないように見える。母親もおらず父親も不在な子供を前に、居ても立っても居られなくなったのだ。別に同情されても響弥は何とも思わないが。


「大丈夫っすよ。今は――」


 叔母さんがいるから。そう続けようとした響弥を、『待って』と茉結華の鋭い声が止める。


『嫌な予感がする……。あまり喋らないほうがいいよ。こいつ、相手に話をさせるよう誘導してる』


 響弥はアイスから顔をずらして、ネコメの様子を窺った。視線がばちりと交差して、響弥は浮かべていた微笑を消す。


『こいつ、油断させるためにわざと情報を開示したね。ミスしたのはこっちだったかも』


 茉結華の言うとおりだった。さっきまで響弥がしていたことを、今は刑事が受け身となってやっている。自然と振る舞いが逆転しているのだ。

 茉結華は、気を緩めた響弥に代わってずっと刑事を注視していた。おだてられて調子に乗ってしまったのは事実。響弥はあのまま低姿勢でいるべきだったのだ。


『それにいちいち響弥の動きを観察してる。警察こいつといる間、もうここはフードコーナーじゃないよ。狭い取調室だと思って。油断してると食われるかもよ』


 響弥は濃厚なバニラ味を飲み込むと、ぺろりと舌舐めずりした。響弥がアイスを食べ切るまで大人しくしていた刑事は、再びその表情に少年の笑みを取り戻す。何を言われるのかと身構えていると、刑事は予想だにしない柔らかな部分に踏み込んできた。


「響弥くん――私はきみを救いたいです。もし悩みやつらいことがあるのなら、ご相談ください。刑事……いえ、私個人として力になりますよ」


 ネコメの真剣な声色に、響弥は瞼を持ち上げた。この刑事は……いったいどこまで知っているのだろう。

 両親の話で同情しているふうではない。もっと深く、まるで響弥の心の状態を案じているようだった。

 そして、決して見ることのできない茉結華の姿も、この刑事には見えているような気がした。


    * * *


(救いたいって言われてもなぁ……)


 勇気ある告白をしてみせた目の前の彼女を、渉は訝しげに見据える。写真を見せれば納得するとでも思ったのだろうか。晩夏は、反発的で大した驚きも見せない渉の反応に、不満げな面持ちになった。

 私はあなたの味方だよと両手を広げられたとしても、渉は晩夏のことを信用できないだろう。今日以上の大雨の、あの悪夢のような出会いから現在に至るまで、彼女への信用はゼロに近いのだ。


 晩夏はスマホを引っ込めて、代わりに鞄から授業ノートを取り出した。適当なページを開いて渉の前に滑らせる。ノートに目を落として、渉はぎょっとした。

 教科は物理のようだが、綴られているすべての字の一画一画が、小刻みに波打っている。汚いと一言で済ませてしまうには統一性のある字だった。意図的に筋肉を硬直させて書けば、こんなふうになりそうだが……。


「汚いって思ったよね。でもそれが私の後遺症なの」


 後遺症という言葉に重みを感じつつ、渉は顔を上げることで話の続きを促した。晩夏は左頬を、やはり指先で上下に撫でる。


「私は幼稚園の頃に彼に傷付けられて、以来、絵が描けなくなった。ペンを持つこともできなくなって、必死に練習した今でも、何か書こうとすると手が震える」


 渉は信じられない思いで、ぽかんと口を開いた。


「朝霧と幼稚園が一緒だったのは、きみだったのか」


 昼休みに聞いたばかりの話が、まさかこんなふうに繋がり、正体が明かされるだなんて。


「彼は平気で嘘をつくし、平気で人を傷付けるよ。表じゃ彼女とよりを戻して、裏ではおばさん相手に売春行為をしてる。最低だと思わない? 彼女が可哀想……」

「でも……まだそうと決まったわけじゃないだろ」


 渉はこの期に及んでもまだ朝霧を庇い続ける。幼少期のいざこざなんて年相応にあるものだろう。渉だって――女子に暴力を振るったことはないが、泣かせたことはある。

 売春に至っては晩夏の憶測に過ぎないし、本当に友達と会ってホテルでただ話していただけという可能性も捨てきれない。悪い方向に決めつけるには早いんじゃないかと渉は思った。だが、


「そうかな。きみも心当たりがあるんじゃないの」


 思い悩む渉に、晩夏はいとも容易く揺さぶりをかけてくる。


(心当たりなんて……)


 ない、とは言い切れなかった。朝霧が夜どんなふうに過ごしているかなんて、渉にはわからない。けれど朝霧は、渉が家に来るかと尋ねても、『用事があるから』と言っていつもはぐらかしていた。

 。ずっと感じていたことだ。そしてその根本が、今はすぐ目の前にある気がした。


『案外女とうとったりして』

 思い浮かんだのはヌギ先輩の言葉だった。先輩の家に泊まった次の日のことである。確か、布団がひとつしかなくて文句を言いに行った――

 あの日は、五日だ。その夜、朝霧は女と会って、ホテルに入っていた……。


「彼は言葉巧みに人を操って、利用する。笑顔の仮面の下はね、真っ黒い汚物の塊だよ」

「…………」


 浮気。売春。恋人への不誠実な企み。あらゆる可能性のなかに真実があるとすれば――それは、本人に直接聞かなければ確かめようのないことだ。


「わかった」


 そう言って腰を上げる渉を見上げて、晩夏は「わかってくれた?」と顔を綻ばせる。渉は「ああ」と頷いた。


「俺が聞いてやる。俺があいつに、バシッと言ってやる」


 目をぱちくりと見開く晩夏から視線を外して、渉はテーブルに小銭を置いた。この時間なら、朝霧はまだ学校にいるだろう。渉は自分の荷物を持って、店を後にした。

 ――真実が何なのか、俺が確かめてやる。

 渉は朝霧を信じていた。だから朝霧がそうと言えば、渉はそれを信じることにする。自分自身を納得させるためにも、彼に会って直接話すしかないのだ。

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