正義の一撃
コンクリートを叩く雨は行きよりもさらに激しく勢いを増していた。幸い雷は見えないが、霧雨がかった視界は不良で、あっという間に靴に水が染みてくる。
渉は、途中の横断歩道で信号無視をしたトラックに轢かれそうになりながらも、来た道を戻って学校に辿り着いた。濡れた裾を折って靴下を脱ぎ、裸足で上履きに履き替える。室内部活中の生徒たちが好奇な目で見てくるが、構わずまっすぐに教室へと向かった。
朝霧は、二年A組の教室にいた。窓際にもたれて、まるで渉が来るのを待っていたかのごとく扉に顔を向けて。目線がかち合う。
「やあ、望月くん」
待ちくたびれたよ、とでも言い出しそうな雰囲気がそこにはあった。階下のほうから時折部員たちの掛け声が聞こえてくるだけで、教室内にほかに人はいない。渉は踏み入って、教壇の上に鞄を落とした。
「どうしたの、顔色が悪いね?」
「話がある」
「そんなに濡れたままだと風邪引くよ」
「大事な話なんだ。正直に答えてほしい。場合によってはお前のこと殴り飛ばすけど、いいよな?」
「いいよ」
一息に言った渉の無茶苦茶な提案にも、朝霧は淀みなく頷いた。とうに覚悟ができているのはお互い様なのか。渉は小さく深呼吸をして話しはじめた。
「お前さ……夜、女の人と会ってんの? 彼女じゃない女の人と」
「普段から会う人なんてたくさんいるよ」
「そうじゃなくて、……例えば、ホテルとかで」
「望月くんも泊まりたい?」
渉は、濡れたスラックスの横でぎゅっと拳を握り締めた。朝霧がこういう奴だというのははじめからわかっていたことだが、真面目な話をするときもこうなのか。あるいは相手が渉だからか。
はっきりと気持ちを証明しない。主張しない。大事な部分でいつもかわされてしまう。真剣になれよ。
――今俺はお前の話をしてんだよ。
「どうなんだよ。……その、金銭のやり取りとか、」
渉はめげず引かずに愚直のまま尋ねる。だが冷静さを維持できたのはそこまでだった。
朝霧は、渉が言葉を切った途端に語調を強めて言った。
「望月くんは、僕にどう答えてほしい? きみの大好きな優等生朝霧修として答えてほしいか、それとも、僕自身の答えを聞きたいか」
教室中の電気が音もなく消えた。思考ごとブレーカーを落とされたような錯覚に、渉は肩を強張らせる。どこかで、雷が落ちたんだ。
しかし突然の停電にも朝霧は動じない。射るような視線の先で渉が選ぶのを待っている。いつもの調子で茶化してくる彼が、今は別人のように見えた。
「嘘偽りのない、お前自身に答えてほしい」
「そう。それなら、あるよ」
「――あ、」
ある?
声に出しかけた当惑を、渉は唇の動きだけに留めた。切れた頭の回線が、少しずつ回復していく。
あるって、つまり、金銭のやり取りが――
「小遣い稼ぎみたいなものだよ。僕も利益になってありがたいし、相手も満足できてハッピー。ウィンウィンな関係だろ?」
頭を殴られたようなショックだった。朝霧は水たまりで跳ねる子供のように渉の神経を踏み荒らす。濡れたスラックスがひんやりと冷気を放ち、渉の心まで冷やしていった。
朝霧はこの瞬間、売春行為を認めたのだ。
「……お前、本気で言ってんのか?」
その声は、自覚できるほどに掠れ震えていた。
朝霧はよく通る声と言葉で無邪気に足跡を付けていく。
「嘘偽りのないって言っただろ? だから望月くんには特別に明かしてあげよう。ほかの人には秘密だよ? 僕ときみだけの――」
「殴っていいか」
渉は吐息と共にそれだけ短く吐き出した。『殴りたいなら殴れよ』と、冬の昇降口で放った言葉が、今度は自分に向けて放たれる。
朝霧は窓際から背を離し、席の間に立つ渉の前へと出た。そして、
「いいよ」
その声を合図に、渉は何のためらいもなく、朝霧修をぶん殴った。
* * *
来ると思っていたよ、望月くん。
一瞬の出来事が、スローモーションで流れていた。渉の固めた拳は見えなかったけれど、彼の重心から左手と予測できた。発達した脳と運動能力を持つ朝霧の反射神経ならば、一歩下がれば避けられる。しかし朝霧はその間に歯を噛み合わせて、目を閉じるのを忘れたことまで認識した。
遅れて右頬に痛みがやってくる。容赦のない一撃に身体が後ろ向きに倒れかけて、渉は飛び込むように朝霧の胸ぐらを掴んだ。支えたのではない。そのまま二人で床に倒れ込む。
渉は朝霧に馬乗りになって、胸ぐらを強く引き寄せた。
「お前は! 自分が何やってんのかわかってんのかっ!」
がくがくと揺さぶってくる渉のこめかみには血管が浮かんでいた。瞳は血走り、真っ赤に潤んでいる――以前、冗談で殴られかけたときも渉は左手を使っていた。普段から利き手は使わないように心がけているのだろう――と、朝霧は目の前に見える現在と過去の出来事を頭のなかで並行に走らせる。
「バレたらどうする気だった」
「バレないよ」
「そうやっていつも揉み消してきたんだろ」
「説教かい?」
前髪の隙間から虚ろな瞳を覗かせて、朝霧は不敵に笑った。考えることは誠実さに欠けるものばかりだった。
『殴っちゃったね望月くん』『退学にしてやってもいいんだよ』『逃さないけど』『これからどうしようか』『望月くんは脅しに屈するだろうか』『いや、』『良心を嬲るんだ』『彼の正義感を』『罪悪感を』『心を』
試し尽くすんだ。
「ああ、説教だよ。説教なんかじゃ収まんねえくらい、腹の底から煮えくり返ってるよ! なんで平気で笑えんだよ。なんでヘラヘラしていられんだよ。お前の軽はずみな行動で、相手の人生まで滅茶苦茶になるんだよ!」
なるほど、彼らしい考えだと思った。渉の怒りの根源は、非道徳的な朝霧の行いに対するもの。真っ当な説教である。
それでも朝霧は用意した笑みを剥がさなかった。渉が求めているのはありのままの朝霧だ。本来ならば冷酷に、機械的な受け答えをしているが、朝霧の『素』を見たら渉の勢いはなくなるだろう。ならば笑顔だけを張り付けて、振る舞いだけ明かしてやったほうが愉しめる。
渉は諭すような口調で力強く訴えた。
「お前のしてることはな、悪いことなんだ。最低最悪の、しちゃいけないことなんだよ。絶対に断たなきゃいけない、許されざる行為なんだ」
「求めてくるのは彼女たちのほうだよ」
「だから自分は悪くないって? ふざけんな! 勝手に正当化してんじゃねえよ!」
「じゃあ問おう。僕がいったい誰に迷惑をかけた? 誰を不幸にしてる?」
「俺だよ!」
暗がりのなか、朝霧の黒い瞳が大きく揺れた。
「きみを?」
「そうだよ。迷惑だよ、最悪だよ、不幸だよ!」
「なんできみが」
「お前が傷付いてるからだろうが!」
渉は朝霧の胸ぐらを掴む手に力を加える。まったく理解も共感も得られない渉の言葉に、朝霧は眉をひそめた。疑問と声が同時に出ていた。
「僕が? いつ傷付いた」
「今もお前はずっと傷付いてる。自分のことを売り物みたいにしやがって、そんなことはな、自傷行為と同じなんだよ。自分を、自分自身を……お前は汚して、傷付けてんだよ。そんなの、お前の身体がボロボロになるだけだろ……」
徐々に言葉尻の弱まる渉を前に、朝霧は押し黙った。彼なら朝霧じゃない別の娼年娼女を前にしても、同じ言葉をかけるのだろうと思った。
「お前は一人じゃないだろ……周りに人が……俺が、いるだろうが……。もっと、頼れよ。もっと……甘えろよ」
怒りでできた蝋燭はすっかり短くなっていた。その火が消える前に、渉は泣き出しそうなしわくちゃな顔で瞳を閉じる。
「救いがないなんて、そんな悲しいこと、言うなよ」
切望にも似た信念のある響きだった。だがそのフレーズに朝霧は心当たりがある。
「それ、誰から?」
「知らねえよ。勝手に浮かんだだけだよ。でもお前が、そんなふうに思ってるんじゃないかって……っ」
シャツを掴む手は緩んで、渉はぐったりと頭を垂れた。前髪の下からぽろぽろとこぼれ落ちる涙が見える。
――救いのない人間は自分でどうにかするしかないんだ。
聞き覚えのあったそれは、妹の虹成に言った言葉だった。だからお前も、力強く生きろよ、と。まだ朝霧が家を出る前のことである。
時を駆ける転校生の存在を知らなければ、必然的に伝達者は一人に絞られただろう。だが渉の様子からして、嘘をついているようには見えない。本当に偶然浮かんだ言葉らしい。
ふう、と朝霧は息を吐いた。この停電はいつまで続くんだ、と天を仰ぐ。
「人を殴っておいて泣くなよ」
「お前のせいだろうが」
渉はぐすぐすと鼻をすすった。すっかり心のダムが決壊してしまったらしい。他人の傷を自分のことのように泣けるのは少しだけ、ほんの少しだけ羨ましく思える。
小学校の頃に助けてしまったハーフの男の子もそうだった。彼は朝霧が怪我をしたと思い込んで、隣で号泣していた。あれは感謝と罪悪感が入り混じった故の涙だろうけれど、他人のことで泣けるのは一緒である。
朝霧はポケットティッシュを渉に差し出した。ほとんど新品に近いそれを使い切りそうな勢いで、渉は鼻をかむ。
「落ち着いた?」
「うん……俺のことも殴っていいから」
「殴らないよ」
代わりに渉の頬にそっと触れた。涙の跡を拭うように親指を左右に動かすと、渉は泣き腫らした目をしばたたかせて、照れたように視線を落とした。
――もしかすると彼は、…………。
朝霧は、頭のなかに浮かんだひとつの可能性を血と共に味わった。それは今まで渉に抱いてきた前提が、丸ごと覆されてしまうものだった。これでは壊す以前に、彼の善意を暴く必要性がある。
そしてもしもそのとおりだったら、そのときは朝霧自身も、本当の姿を明かすとしよう。
準備はできてる。やはり渉に任せるのが理想的のようだ。
学校の電気が復旧してもなお、渉は疲れたようにうつむいたままだった。朝霧は天を見上げるついでに、外にいた一人の存在に気がつく。
後ろの扉の小窓から、
まさか、誰も来ないように見張っていた、とか。
朝霧は含み笑いをして、渉の身体を抱き寄せた。誰が来ようと、誰にも邪魔なんてさせない。
これは自分のものであると見せびらかすかのように。自慢するかのように。今だけは。
* * *
響弥は口元ににんまりと逆さまの三日月を描いた。
「実は……恋の悩みがありまして」
恋? とネコメは目で問うてくる。
そう、恋だ。『神永響弥』に悩みやつらいことがあるとしたら、それは恋しかない。
一目惚れして告白したはいいがフラれてしまい、それでもなお諦めきれずにいる切ない恋心。神永響弥が抱いていい悩みはそれしかないのだ。
「どうしたらいいっすかねぇ」
「……恋ですか。私も苦い思い出しかなくて」
「へえー。刑事さんもしかして童貞?」
そう辱めるように言ったのは茉結華だったかもしれない。ネコメは「うふふ」と怪しげに笑って、「そう見えますか?」と聞き返した。
正直言うと見えない。女も(男も)放っておかなそうだし、経験豊富に見える。
「でも刑事さんモテないでしょ! 俺もなんですけどー!」
響弥はなおも挑戦的に無礼を繰り返した。警察に同情されるような不始末はないと、精一杯笑顔でアピールする。
ネコメは目元を和らげて、「大丈夫。私からはモテモテですよ」と、響弥の手に自分の手を重ねた。その手の温もりに、響弥はドキリとする。――この人、体温あっつ。
白い肌には似つかわしくない高温度の熱。身体に流れる血液が、すべて熱湯でできているんじゃないかと思わされる。
響弥は「どうも……」と苦笑いした。
「響弥くんは面白い子ですねぇ」
「は、ははは……刑事さんもね」
「私はずっとあなたたちを見ていますよ」
ニコニコ笑顔で紡ぎ出される不気味な言い回しに、響弥と茉結華は硬直する。
「……たち?」
「ええ」
「それは……親父のこと?」
「はい。関西にお住まいの叔母さんも含めてですよ」
ネコメは手を離そうとしない。このまま逮捕されそうな圧を感じるのは、手の主が警察だからだろうか。上に乗る手は乾いているのに、響弥の手のひらには汗が滲んでいた。
洒落にならないタイミングで、パトカーのサイレン音が近付いてくる。距離は、かなり近い。
「お父さんの妹さん、ご入院中だそうですね。先日お会いしました」
ネコメの笑顔が、安心感を与えるような一生懸命なものに変わる。響弥は「は……、」と顔つきだけで仰天した。
「おや、ご存じなかった? それは失礼」
一礼して、ネコメはようやく響弥の手を離した。どくんどくんと心臓の鼓動が大きくなっていく。
――今この刑事は何と言った? 先日、お会いした?
確かに叔母の神永
「今度お見舞いに行きましょう。きっと喜ばれると思いますよ」
「……しばらく会ってないもので……俺もあんまり、わからないです」
「力になりますよ」
刑事は再び、今度は両手で響弥の手を握り取った。いつの間にか姿を消していた茉結華が、今は響弥の内側から目を赤くして睨んでいる。
こいつははじめから、神永詩子の状態を明かすつもりだったんだ。響弥を調べていることも、全部、最初から――
やはり茉結華の嫌な予感は、当たっていたのだ。
金古流星刑事――邪魔だな。
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