雲隠れする真意
「何だ、お前た――」
ち、と笠部が言い切る前に、向葉総司は彼を殴り飛ばしていた。笠部は短く呻きながら横転する。そしてどこからか滑り落ちたデジタルカメラを、向葉は素早く拾い上げた。
「このクソ野郎。こいつで何撮ってた? あ? 言わなくていいよ、どうせ全部わかることだ。てめぇがクソったれの淫行教師だってこともな」
向葉は学ランを脱いで安浦の身体に掛ける。芽亜凛は呆然とする彼女に代わって手早くボタンを留めると、脱いだ痕跡のある制服を拾って扉の外へと連れ出した。
「安浦さん……」
大丈夫――? ではなさそうだ。怪我はないが、安浦は真っ青な顔で硬直している。何があったか今は聞き出せそうにない。
芽亜凛は向葉にも早く出るよう準備室のなかに顔を向けた。向葉はまだ床に倒れている笠部を、侮蔑の満ちた目で見下ろしている。笠部の口元には血が滲んでいた。
「くっ……教師への暴行……退学だな」
「言ってろよ、証拠は押さえた。お前のことも撮ってやろうか?」
そう言って向葉がデジタルカメラを向けた途端、笠部は目を剥き咆哮した。
「俺を撮るなあああああっ!」
埃だらけの空気がびりびりと震える。芽亜凛は笠部の手にメスが握られているのを目視して、向葉の腕をぐいと引っ張った。
「早く逃げて!」
よろよろと笠部が起き上がる前に、バタンと扉を閉める。安浦を連れて廊下へと飛び出し、三人で階段を駆け下りていった。向葉は「何なんだよもう!」と苛立ちをあらわにする。踊り場で上階を見上げたが、笠部が追ってきている気配はなかった。
決め事のように保健室へと駆けこむと、「ど、どうしたの?」と、椅子に腰掛けていた猪俣教諭がいつになく慌てる。向葉は「入って」と安浦をベッドに座らせて、カーテンを閉めた。
「緊急事態です」
芽亜凛が説明するよりも先に、猪俣は保健室常連の生徒らを追い出す。それから女性のスクールカウンセラーを呼んで、安浦のケアに回らせた。芽亜凛は向葉から受け取ったデジカメの中身を確認して、わけを話した。
「……笠部先生が――これを」
カメラの中身は――、女子生徒の写真で溢れていた。そのどれもが下着姿、または制服をはだけさせたもの。一番新しいものが安浦の写真である。すべて、笠部が撮ったものだろう。
猪俣教諭にも確認してもらい、芽亜凛も椅子に腰掛ける。カーテン越しに、安浦のすすり泣きが聞こえていた。
「……これはまずいわね」
「あのセン公あたおかだろ」向葉は椅子の上でうなだれる。「今すぐ警察呼ぶべきじゃない?」
「……そうね」
猪俣先生はしぶしぶと決断し、ベッドのカーテンから頭を覗かせる。
「安浦さん話せる? 今から石橋先生呼んでくるけど」
安浦は意外にも頷いたのか、猪俣は足早に保健室を出ていった。じきに石橋先生と教頭が訪れて、事情説明がされるだろう。デジカメという紛れもない証拠がある以上、警察も呼ばれるはずだ。
芽亜凛は立ち上がり、そっとカーテンをめくった。安浦はまだ制服に着替えられておらず、向葉の学ランをてるてる坊主のようにまとったまま。目元は泣き腫らして赤くなっている。
「安浦さん……先生に、何かされた?」
安浦は唇を一文字に結んでかぶりを振り、
「写真撮られたけど……す、すごく怖かったけど……何も手は、出されて、ません……」
と、涙声で語った。
「手は出してなくても、アウトだよ」
ベッドの外で向葉が呟く。まったくもってそのとおりだが、まずは未遂であることに安堵すべきか――
「……そうだけど……。笠部先生……申し訳ないって……謝ってまし、た……」
そこまで言って、安浦は再びひっくひっくと泣き出してしまう。まるで庇うような言い草だ。
(そういえば……以前凛を助けたときも、笠部はカメラで撮られたことに酷く動揺していたような……)
あの時は、確かな証拠になればと思い、スマホのカメラを回していた。それがまさか、笠部のほうも撮影目的だったなんて。
笠部は生徒が自主的に脱いだところでカメラを取り出している。脅していることは最悪だが、指一本触れてはいない? つまり淫行は最初からする気ではなく、ただカメラで撮りたかっただけ――
それでも罪は罪。犯罪行為に違いはない。だが、疑問はもうひとつある。
(俺を撮るなって言っていたけれど――あれはまるで……)
まるで、恐れているかのようだった。トラウマをほじくり出されたみたいな取り乱し方と言っていいだろう。撮っていたのは笠部のほうだというのに……。
こんなとき、渉だったらどんな推理をし、どんな答えを導き出すのか。芽亜凛は少しだけ、彼のことを恋しく思った。
* * *
――収穫なし。
生徒間での愚痴も噂もこれといって聞けず、千里は女子トイレを後にした。それもそのはず、今日利用したトイレはいつも通っているほうとは正反対に位置する、A組側のトイレ。利用する者は二年A組かB組に偏っていて、千里の欲しいE組の情報は得られない。
朝霧の言っていた『ストーカー』やらの話も、依然として耳にできていなかった。しばらくは言われたとおりに凛との接触を控えるつもりだが、どうせ一緒にいられないのなら昼休み全部をトイレで過ごしてしまおうかとも思う。小坂から誘われていなければの話だが。
昼休みの二年B組は、彼女の取り巻きたちとで盛り上がっていた。教室に戻ると、「遅いよ千里」と小坂に一喝される。
「ごめんねー、混んでて。何の話だっけ?」
「どこでキスしたかって話ぃ」と答える取り巻きの一号。
「あー……こないだのね」
思わず、復縁したときのね、と言いかけてしまった。別れていたことに少しでも触れると、また勘違いだなんだと小坂に怒られてしまう。
小坂はふふんと頬を上げ、「校舎裏よ」と胸を張る。――あ、嘘ついた。
「えー! やらしいー!」
「当然よ、人目のつかない場所でするものだもん」
(思いっきり人前だったけど)
小坂は慣れた調子で堂々と嘘八百を並べる。
「やっぱり学校でっていうのもあるし、風紀委員に目付けられたら困るでしょ? あんたたちも学校でしたいときは校舎裏をおすすめするわ」
「相手いなーい!」
「あたしはいるけどぉ……さすがに学校では……」
「でもスリルあってよさそうー。いいなぁめぐっちー」
ほんと、おめでたいね。取り巻きたちは口々に持て囃して、机の上のケーキを頬張る。
朝霧との復縁……ならぬ、お熱いキス情報を理由に、彼女たちは小坂にサプライズケーキを用意していた。千里が呼ばれて駆けつけたときにはもうすでに半パーティー状態。B組の一番端の席をいくつか確保して、今もなお盛り上がっている。
(まあ、たまにはこういうワイワイもいいかなー)
生徒会室にいたことを伏せているのは、朝霧に迷惑がかからないようにするためか。大事な話、内緒話としてあの場所を使っていたのだから、ほかに人が来るようになっても困る。
それにしても小坂には罪悪感がなさそうに見えた。仮にもグループ内の友達に嘘をつくのに。
ほとんど顔と名前が一致しない生徒たちのなかから、まるで手拍子で野鳥の群れを追い払うような、場違いな声がした。
「うるさい」と、ただ一言だけ。
声の主は椅子を引いて立った人物だろう。千里と同じく、学校指定のダサいベストを着た女子だった。不人気のそれを着ているだけで、『いい子』『優等生』という風格が出ている。
「今なんか言いましたー?」
取り巻きの二号がすぐさま噛み付く。続いて三号も。
「ねえ
晩夏は闇色のポニーテールを翻し、
「友達ごっこって、そんなに楽しい?」
吐き捨てるように言って、こちらを見ることなく教室を出ていった。
「は? 何あれ」
「感じワルー」
「調子こいてんじゃねえっつーの」
取り巻きたちは、自己防衛本能のごとく口悪く言いはじめる。この人たちにはこれが普通なんだろうなーと、千里は顔では苦笑しつつぼんやりと考えた。
他クラスにもいろんな事情があるように、晩夏という女子はB組のなかでも浮いている存在らしい。でも人前ではっきりと言えるあの子のほうがまともだなー。そんなふうに思いながら千里は軽い腰を上げた。
「ごめんねー、わたしそろそろクラスに戻らないと。また呼んでね!」
冷めきった空気とは真逆の温度でスマイルを撒き、千里はB組を出ていく。そして廊下の右を見て、左を見て、階段を数歩下りたところで後ろから腕を引かれた。
「ちょっと待って! 修の言ったこと忘れたの?」
振り向いて目の前にいたのは小坂だった。職員室で配布物の整理整頓などをしているであろう凛の元に行くと思ったのか、小坂は千里の動きを封じにかかる。――バレてたか。
「違うよー。さっきの子が気になって」
「なんで?」
「え、怒られたから」
謝りに行こうと思って。と、嘘と本音を半々に混ぜてさらりと答える。事実、騒いでしまってごめんなさいの気持ちはあるし。
けれど、一番の本音は小坂の言ったとおり、凛の元に逃げたくなった。あれから顔を合わせて話せていないし、ちょっとくらいならいいだろうって――
「嘘でしょ」
「嘘じゃないよ」
「嘘よ。あんた親友のところに行く気なんでしょ。顔に書いてあるんだから」
「うそーん」
右から左へと聞き流しながら、千里は顔をごしごしとこすった。適当に返せば誤魔化せるかと思っていたが、小坂は腕を離そうとしない。
「いい? 駄目なものは駄目なの。わかった?」
「でもちょっとだけだよ?」
「駄目」
「先っちょだけ!」
「駄目!」
戯け続ける千里の二の腕を、小坂はさらに強く握った。ネイルの整った指で痛いくらいに締め付けてくる。
「めぐっちは友達たくさんいるけど、わたしの親友は凛ちゃんだけなの。わたしは凛ちゃんといるときが、一番落ち着くんだよ」
千里は笑顔を保って言い切った。家に匿ってもらっている身であるため、できるだけ良好な関係を築こうと小坂の呼び出しやわがままにも応えてきたけれど――
取り繕うのにも、ちょうど疲れてきた頃合いである。
「めぐと一緒にいたくないってわけ?」
「そ、そうは言ってないよ?」
「言ってるわよ!」
小坂の泣き叫ぶような声が辺り一帯に反響する。
「あんたが誰に依存していようとめぐには関係ない。でも、修に言われたことはきっちり果たしてもらうから。泣き言なんて聞きたくないの。私はあんたのこと、監禁してでも守ってやるんだから」
「監禁って……」
――そんな大げさな……。
でもその言葉には、小坂の覚悟のようなものが感じ取れる。きっかけが何であれ、彼女はどんなことをしてでも千里を守ろうとしているのだ。たとえその本質が、愛する恋人への下心だとしても。
「なんで、わかんないのよ……あいつの言うとおりだって」
「え?」
――あいつって……さっきの子のこと? 友達ごっこ、と吐き捨てていたあの。
小坂は悔しげに眉根を寄せると、千里から手を離した。
「……私に友達はいない。友達って、心から呼べる人がいないの」
「でも……あんなにいっぱいいたのに?」
「あいつらは……あの子たちは、違う」
一見仲がよさそうに見えたけれど――全員が『その他大勢』に見えている千里には、取り巻きと友達と他者との区別が付かない。全部同じ。全部イコール。親友の凛以外はみんな同じであり、彼女たちの振る舞いは極々普通のものである。
そんな鈍すぎる千里に向けて、小坂めぐみは「だ、だから……」と。
震えた声で勇気を振り絞るように、嘘偽りのない言葉を紡ぎ出した。
「あんたは、私のそばにいなさいよ」
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