VS生物学

 翌日の空も梅雨一色で、朝から降る雨は、三限目が終わった今でも校庭を濡らし続けている。この日、雨が止むのは下校時刻をとうに過ぎた頃。安定しきった六月の天気は、そう何度も変化しちゃくれない。先日のような、目に見えた奇跡が起きてくれれば、もう少し自信が持てたのにと、芽亜凛はこれからの予定を憂いた。


 ――教師という立場を利用して生徒に乱暴する奴なんて、死んでしまえばいいんじゃないの。

 心の奥底に潜む悪魔が囁いた。自分の手の届かない悪事に、無関係な者たちが平然と揶揄するように。上っ面だけならどうとでも言えてしまえるみたいに。


(それでも私は守らなきゃいけないの)


 誰も死なせない、犠牲者を出さないために。

 笠部かさべ淳一じゅんいちが目を付ける生徒は不確定で、その後の生死も行動もあやふやである。ある意味ここが一番厄介と言っていいだろう。様子見のできないぶっつけ本番で、どう防ぐべきか。どうやって先生を守ろうか。

 何にしろ、死のトリガーになり得るのはひとつだけ。それさえクリアできれば、笠部の命は保証される。


「凛、教科書ある?」


 移動教室への準備は万全。普段どおりの口ぶりで立ち上がった芽亜凛を、凛は素っ頓狂な顔で見上げた。今のは自分に向けられた言葉なのだろうかと、くりくりなふたつの目が訴えかける。

 そうして三秒ほど見つめ合ってから、凛は弾かれたように机のなかを漁った。


「あっ、ない……。えっ嘘、忘れた?」

「よかったら、私が見せるわ」


 芽亜凛は両手で抱えた教科書をトランプのカードのようにずらした。凛は、忘れ物をなぜ知っていたのかと問い返す素振りもなく、ホッと息を吐き出す。


「いいの?」

「うん」

「ありがとう……」


 そう言って席を立つ凛を映す視界の端で、こちらを注目している影があった。芽亜凛はそちらを見ないように背を向けて、「先に行って席取ってるね」と無愛想に教室を出ていく。

「あっ……うん」と凛は何か言いたそうにしていた。そのすぐ後に、「凛、移動するぞー」と、先ほどまでこちらを見ていた渉の声が聞こえる。


 渉と千里は、『幼馴染』と『親友』という確保された枠組みにいる二人。同時に――今まで何度も途中退場してきた芽亜凛にとって、これは憶測でしかないが――はじまりと終わりの枠にも指定されている。

 はじまりは千里の失踪。終わりは渉を――おそらく未来永劫、誰にも見つからない場所に閉じ込めて、呪いの生贄にすること。

 つまり今さら、渉や千里を凛と引き剥がしても、その枠組みは覆らない。ならば、いらぬ波風を立てぬよう、芽亜凛も努めるだけだ。


 ――けれどほかの者は違う。妙な接触の仕方をして茉結華に睨まれたら、先生であろうと引きずり込まれる。

 凛には近付けさせない。

 さあ行こう。生物学の時間だ。


    * * *


 生物学室には、授業のまとめにペンを走らせる音と、生徒らを監視するかのごとく行き来する笠部先生の靴音が、不気味なほど大きく響いている。いち早くまとめ終えた芽亜凛は、どんなに見つめても速まることのない時計の針を確認した。

 授業終了まで残り十分――あとは笠部の反応を待つだけ――


 待つ間にも芽亜凛は様々な手を考えていた。まず、凛が残るように言われた場合は、芽亜凛も一緒に残る。二人いれば手出しされないかもしれない、という小さな望みにかけてだ。

 次に、それが駄目だった場合は、敢えて笠部に傷害事件を起こさせる。学校側で隠蔽できないような大事にしてしまえば、今日にでも警察が出動する。笠部を逮捕することで、警察に守ってもらうのだ。

 だがそのためには、芽亜凛が死なない程度に襲われる必要がある。死んでしまったらすべて水の泡……。腕、足、脇腹――少しくらい切られても大丈夫な箇所を狙わせなくてはならない。


 そうこう考えているうちに、カツ……カツ……ッ、と。笠部の鈍い足取りが、芽亜凛の真横で止まった。覗き込むように見下ろす生物学教師の影が、芽亜凛と凛の間で開く一冊の教科書へと落ちてくる。


「教科書は? 忘れたのか?」


 一目見ただけで疑ってくる笠部の無遠慮さに背筋が寒くなる。

 隣でまとめを書いていた凛はシャーペンを置いて、「すみません。私が忘れました」とまっすぐ笠部を見上げて、礼儀よく頭を下げた。前方の席にいる渉が振り返る。芽亜凛の心臓に緊張が走る。さあ、どう来る――?

 教科書の上で、笠部の影はゆらりと持ち上がった。


「珍しいな百井ももい、次はちゃんと持ってくるように」

「はい! 気をつけます」


 凛は部活の挨拶くらいハキハキとした声で言って、通り過ぎゆく笠部先生を見送った。追及されずに済んだ凛は、芽亜凛の隣で安堵する。その横顔を見て、芽亜凛のなかで張り詰めていた緊張の糸も人知れず緩んだ。

 長すぎると感じた十分間はあっという間に過ぎる。先生が合図を出し、クラス委員の号令がかかり――生物学の授業は、平穏無事に幕を下ろした。


「えへへ、橘さん本っ当にありがとう。助かりました!」


 生物学室を出る手前、凛は笑ってお辞儀する。彼女が笠部を苦手としているのは知っているため、いろんな意味を含めてのお礼なのだろうと芽亜凛はほくそ笑んだ。――こちらこそ、問題なく終えられてよかった。


「えっと……あのね、どうして私が教科書忘れたって思ったの?」


 凛は今になって、来ると予想していた疑問をそのまま訊いてきた。芽亜凛はあらかじめ用意していた答えを返す。


「実は今日、私も忘れちゃったの。登校中に気づいて、家まで取りに戻ってね。それで、凛は大丈夫かなって、ふと思っただけ。……先生に怒られなくてよかった」


 同意を促すように最後の語調を強めて微笑む。凛は納得した顔で首を上下した。言葉が嘘にならぬようわざと教科書を忘れて、本当に取りに戻った芽亜凛の純粋な努力が伝わったのかもしれない。


「優しいね、橘さん。……よかったぁ。私、ちょっと嫌われてるのかなーって思ってたんだ」

「――そんなことない!」


 つい口走って、あっ……とうろたえた芽亜凛は、挙動不審に瞳を動かす。そういえば、初日に冷たい態度を取ったにも関わらず、普通に『凛』と呼んでしまっていた。凛の前では自然と笑えていたことにも、芽亜凛は気がつく。


「も、百井さんはずっと友達だから……何があっても、私はあなたの友達」


 たとえそこに絆がなくても、一方的な片思いだとしても、それだけは決して変わらない。芽亜凛は凛が突き放してくれるまで、彼女のことを友達だと言い続けるだろう。


「職員室行ってくるでしょ? 荷物、教室に置いてくるわ」


 呆気に取られていた凛は、芽亜凛の差し出した手を見て我へと返る。


「あ、ありがとう……」


 たじたじと言って、教科書やノート、ペンケースを芽亜凛に預けた。階段の手前まで一緒に歩き、二人は他人行儀の空気のまま別れた。




 なんであんなこと言っちゃったんだろう。

 芽亜凛は昼休みを迎えた教室で席に着き、一人猛省する。


(絶対おかしな子だと思われた……ううん、それはいい。駄目なのは、つい本音を口にしてしまったこと)


 抑えられずに、否定してしまった。――私が凛のことを嫌いだって? そんなのあるわけない。

 誤解されるのは構わない。だけど、それで凛が悩んだり、悲しんだりするのは嫌だ。

 千里が、渉が、いなくなったら凛が悲しむ。自分のせいだと言って、彼女は自らを責めてしまう。十年前のネコメがそうだったように……。

 そんなの嫌だ、凛が悲しむのは嫌だ。取り乱してはいけない。もっと感情を――自分自身を抑制しなければ。いつどこで怪しまれるかもわからないのに、友達の前であんなふうに曝け出してしまうなんて……。


(呪い人と巡る人……その両方を担っていたネコメさんも、こんな思いをしてきたのね……)


 呪い人救済措置の、本来あるべき姿。それを一人で抱え込むのはどんなにつらく、厳しく、大変なことか。当事者たちにしかわかり得ぬ苦悩だ。


「チオ大丈夫かな」


 塞ぎ込む芽亜凛の聴覚を叩き起こしたのは、三城さんじょうかえでのそんな声だった。


「一人で笠部に呼び出されたって、まずくない?」

「見に行く?」と椎葉しいばが。

「怒られてるかもねー」と桜井さくらいが水を差す。


 芽亜凛は椅子を飛ばしかねない勢いで腰を上げた。安浦やすうら千織ちおりが――笠部に呼び出されたって?


(どうして……!)


 ぐるりと教室を見渡しても、彼女の姿はどこにもない。芽亜凛が一度経験しているように、まさか安浦も。

 彼女は気の弱い子だ。笠部からの誘いを断れるはずがない――

 もしも芽亜凛が気づかなかっただけで、今までに何度もあったとしたら……?


 芽亜凛はぎゅっと下唇を噛んだ。女の子だったら誰でもいいのか、それとも本命は彼女だったのか。


(今すぐ助けに行かなくちゃ。だけど、一人で……?)


 いいや、協力者が必要だ。誰か――凛と関わりが浅くて、周りへの関心も薄く、その上頼りになる人……。柔道部でもなくて、幼馴染でもなくて、クラス委員でもなくて……決して凛と繋がりを持たないような、そんな人。


 芽亜凛はもう一度、クラス中に視線を走らせる。そして、一人の生徒に目を留めた。

 金とピンクがグラデーションになった、派手な髪色の男子生徒――以前笠部に怒られたこともあるという、この機に最も相応しい人物。


向葉むかいばさん……っ、一緒に来てください」


 芽亜凛の後ろの席――スマホをいじっていた向葉総司そうじは、退屈そうな顔を画面からのんびりと上げた。


「どこに?」

「お願いします、一緒に来てください。後で山ほどお菓子を奢るので、とにかく急いで」


 芽亜凛はつい熱くなってしまわぬよう、声のボリュームに気をつけて頼み込む。緊急事態とも伝わっていないだろう、向葉は端正な顔立ちをぴくりとも変えずに難なく腰を上げた。お菓子という言葉に釣られたらしい。


 後ろから付いてくる彼を振り返る余裕もなく、芽亜凛は小走りで生物学室へと急いだ。見なくても向葉が付いてきてくれていることは気配で察知できる。


「どこまで行くの?」


 生物学室まで戻ってきて、芽亜凛は呼吸を整える。軽い足取りで付いてくる向葉を隣に寄せて、物置部屋でもある準備室のドアノブを回した。鍵はかかっておらず、勢いよく扉を開ける。そして、息を呑んだ。

 薄暗い部屋の奥には笠部が佇んでいて、ちょうど扉のすぐ脇には、下着姿の安浦千織が。強張った顔つきで、身をすくめていた。

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