待ち人たち

 中学二年生の冬に一度だけ。

 毎日当たり前のように一緒にいた響弥と、二週間以上口を利かなかったことがある。思えばあの時も、喧嘩をしたのは昼食時だった。

 クリスマスが近付くと、学校ではケーキの部数調査が行われる。選べるのはショートケーキ、チーズケーキ、チョコレートケーキのなかからひとつだけ。大抵は冬休み前の最後の給食に出されて、生徒はアンケート実施から大賑わい。


 渉はその日の配膳中に、『俺甘いの苦手なんだよー』と、苦しそうにショートケーキを食べていた去年の響弥を思い返した。無理して食べるなよと諭しつつも渉が食べかけを手伝うことはなく、響弥はむしゃむしゃと必死にクリームの塊を頬張っていた。無理をしてでも残さず食べるという意識がそこにはあったのだろう。

 だから渉は、つい親切で。


『なあ響弥、甘いもの苦手だろ?』


 響弥のケーキをトングで挟みながら改めて渉は尋ねた。響弥は『え、いや……』と半笑いで右往左往とする。食べなきゃ怒られるからと、困っているように渉の目には映った。


『だ、大丈夫! 我慢して食うよ』

『何言ってんだよ、遠慮すんなって』


 そう言って渉は、『これ誰か食う人ー?』と、響弥のケーキをほかの生徒に配った。俺も俺もと立候補者はすぐに集まり、ケーキ争奪戦がはじまる。

 これでよし、と見た親友の横顔には笑みがなかった。渉は思わず目を見開き、穴が空くほど見つめてしまった。

 血の気が失せて、目の焦点は定まっていなくて、唇は物言いたげに半分だけ開いたまま。その視線の先には、今も男子たちに揉みくちゃにされている響弥のショートケーキがあった。

 配膳中の渉はそれ以上声をかけることができず、響弥もまた、給食の時間になっても無言を貫いていた。昼休みになっても、掃除時間になっても――親友の顔に、笑みが戻ることはなかった。


(結局次の日も話しかけられないまま、終業式を迎えて、冬休みに入って……。響弥の誕生日も祝えずに、すっげえ後悔したっけ……)


 そんな中学の頃の苦い思い出が蘇り、渉は体育館の隅でため息をついた。甘いものが苦手というのは、きっと響弥の嘘であり、強がりであり、だ。

 ――本当は好きなくせに、苦手なふりしてかっこつけて。そのくせ奪われたらいじける。子供かよって、子供だったか。

 今日みたいな言い争いはしょっちゅうあるが、どうせすぐに仲直りする。明日には何事もなかったかのように、響弥のほうから話しかけてくるだろう。渉は平常どおり対応すればいい。……昼休み以降のグループトークには、渉も響弥もまだ顔を出していないけれど。


「何をしけた顔しとるんじゃ」


 先ほど着替えてくると言って更衣室へと消えていった四月朔日わたぬぎは、ユニフォーム姿で表に出てきた。「部活しにきたんじゃなかろう?」とバッシュを手のひらで拭く癖をしながら、待ち人の顔を覗きこむ。

 渉は壁にもたれかかりながら、瞬きで頷いた。もちろん、放課後の体育館に訪れた理由はほかにある。


「先輩の顔が、見たかったんですよ」


 なんて冗談を言えば先輩は喜ぶだろうか。四月朔日は眠たげな眼を持ち上げて、ぽかんと口を開いた。


「……マ?」

「マ」


 ぞろぞろと集まりゆく部員たちは体育館を走りはじめる。雨天時は体育館を使いたがる部活が多いが、今日はほかの部が校内ランニングをしているようだ。

 先輩は、やるせない顔を続ける渉の隣に並ぶと、神妙な面持ちで言った。


「何された。あいつに――、何された?」


 今まで聞いたことのないくらいの、真剣な声だった。渉は先輩の瞳をちらりと確認して、意を固める。


「ヌギ先輩……あんたんち、布団ひとつしかなかったんすけど」

「……ん?」

「でも枕はふたつあって……」

「う、ん?」

「あんた姉貴が泊まりに行くとき、」

「つっあぁ! ちょちょちょちょ、チョト待て」


 四月朔日は奇声を上げて遮ると、部員と渉とを交互に見ながら、「え? 話ってそれか?」と真っ赤な顔で問うた。渉は「はい」と即答する。ほかに何だと思ったんだ。


「ぐぐぐ……わしはワタ公が落ちこんどる思うたのに」

「へえー。もうそこまでいってたんすねー。へえー」

「なんじゃもう、あのクソ朝霧に襲われたんじゃないんか……よかったぁ」

「は?」


 ヌギ先輩は心底安心した様子で胸を撫で下ろす。大丈夫かこの先輩。

 渉は布団の文句とそこから推測できる身内の関係性を述べに来ただけであった。だけど、先輩の顔が見たかったのは本心だ。事実、落ちこんでいたから。


「先輩こそ、人んちでサカってないですよね?」

「あるわけないじゃろ!」

「ふーん、どうだか」


 恥ずかしさからか、それとも興奮のせいか、四月朔日の紅潮は引く気がない。姉と先輩の恋愛状況なんて知りたくなかったが、弟には内緒で随分とお熱いようだ。

 四月朔日はゲフンゲフンと誤魔化し用の咳払いをする。


「……で、今日はどうするんじゃ? 朝霧が来るなら果奈かなはうちに泊めるが」


 望月家に朝霧が行って、先輩の家に果奈が行く――おそらくこれが正攻法。何だかんだでヌギ先輩は、後輩たちのことを気にかけてくれている。

 渉はうつむきがちに、ふるふると首を振った。


「今日はいいって言われました。用もあるって……まあたぶん気を遣って言ったんだと思いますけど」


 昼休みに響弥と別れた後、渉はA組に顔を出した。響弥と一刻も早く離れたくて、そして朝霧を引き止めたくて。教室にいた朝霧は『僕が悪いんだし……』と姿勢を低くして笑っていた。それに用事があるから大丈夫だよ、と。


「そりゃぁどうかのぉ。案外女とうとったりして」

「朝霧はそんなこと……」


 咄嗟にそこまで否定して、渉は初歩的な解決策に気がついた。いや、本人の口から聞かなければ思いつかなかったことだが。


「そっか、彼女んちに泊めてもらえばいいのか」

「そうじゃそうじゃ。ワタ公が心配する必要ない」

「ならなんで先輩のところに? やっぱ困ってんじゃねえかな……いや、でも……」


 翌々考えてみると、彼女に心配はかけまいと先輩を頼ったと推理するのが妥当か。もし渉が同じ立場であったら、きっと凛ではなく響弥を頼るように。好きな女の子に迷惑はかけられないだろうと渉は思った。


「ワタ公がええ子すぎて、わしゃ涙が出る」


 先輩は深々と嘆息して天を仰ぐ。朝霧への不信感は健在のようだ。


「まあいいや。言いたいのはそれだけだし、部活ファイトっす」

「わしの愚痴も聞いてくれ」


 渉は立ち去ろうとした足を止めた。


「さっき新堂しんどう明樹はるきに会うてな。部活に来い言うたら、俺に実力で勝てたらなって、あのクソガキャぁ何様のつもり――」

「失礼しまーす」


 渉は話の途中で一礼して、逃げるように体育館を出た。先輩は止めるどころか「気ぃつけて帰りーよー!」と渉の背中に激励する。渉としては話が長くなる前に切り上げただけだが、先輩も本気で愚痴りたい内容ではないのだろう。

 外は、見ているとさらにブルーになりそうな悪天候である。渉は顔を背けて、スマホのトーク画面を開いた。

 響弥たちのグループトークには三十件以上の未読が溜まっている。彼は既読を付けているのだろうか、渉にはわからない。少なくとも最新のメッセージは響弥のものではなかった。


(今日はゲーセンか……俺は行かないけど)


 渉は不貞腐れたようにスマホをしまった。予定がないならバスケ部の手伝いに入ればよかったなと、開いた心の隙間に寂寥感が押し寄せる。買い出しして帰ろうか、凛のいる柔道部に遊びに行くのもありか。


「ん……?」


 ふと遠くに目を配ったとき、渉は昇降口の窓から見えるその人を二度見した。

 律儀に校門前に立っている、女子中学生。土砂降りのなか傘を差して、片手には紙袋のようなものを提げている。まだ部活中の時間帯で帰る生徒も少ない校舎に、姿勢よく佇むその姿は酷く目立っていた。

 渉は靴を履き替え、買ったばかりの傘を差して校門前へと向かう。昨日自転車通学だった渉は傘を持っておらず、朝霧の傘に入るのは申し訳なくて、登校途中に買ったのだった。閑話休題。


「あのー」と渉が声をかけると、少女は背後に野菜を置かれた猫のように飛び退いた。傘から覗く瞳はゆらゆらと震え、綺麗に組まれた三編みが肩に垂れている。少女の驚き様に渉も動揺しつつ続けた。


「だ、誰か待ってるなら、生徒玄関まで入ってきたら? 雨すげえし……ここからじゃわかりづらいだろ?」

「…………」


 少女の顔つきはまるで警戒心剥き出しで、不審者を見るそれであった。渉が諦めかけたそのとき、「あなた二年生ですか?」と確認を請われる。機械的な声色だったが、渉は話してくれたことに安堵した。


「うん、二年生だよ。何か届け物?」

「……A組の……、あさぎ――」


 少女の警戒心が薄れた瞬間、校舎側から「虹成にいなちゃーん!」と、邪気のない声がぴょんぴょんと跳ねてくる。傘を放り出し、渉の目の前に現れたのはピンクのツインテール――

 彼女は、押し倒しそうな勢いで少女に抱きついた。


「わぷっ」

「ごめんねぇ待った? もう今日虹成ちゃんから連絡貰っておねーさん嬉しくて嬉しくてぇ……。って――誰よあんた」


 ピンク髪は渉に気がつくと、丸かった目つきと声色を鋭く豹変させた。中学生も渉を横目で見る。すでに状況は二対一。渉は、関わっちゃいけない場面に来てしまったのかもしれない……と後ずさった。

 大人しく謝って撤退しようとした矢先、「めぐっち傘傘!」と、地面に転がる傘を拾い上げたのは、


「ちーちゃん!」

「へ? あ、渉くんだ」


 後ろから走ってきたのは、凛の親友――ちーちゃんこと松葉まつば千里ちさとだった。雨天でテニス部の練習は休みなのか、制服のままである。

 めぐっちと呼ばれた女子は傘を受け取った。


「なぁんだ、千里の知り合いか」


 渉への疑心が晴れたところで、虹成は「めぐみさん、苦しいです……」と彼女の腕のなかで身をよじる。どこか既視感のある光景だなと渉は思った。

 解放された虹成は傘を握り直して、紙袋を胸の高さまで持ち上げた。


「これ、以前あの人が家に忘れていったもので……邪魔なので届けてもらえます?」

しゅうの荷物? うん、オッケー。渡しとくね」


 虹成の届け物は何の疑いもなくピンク髪へと手渡される。


(修って……あさぎ……、朝霧修?)


 まさか、と渉は瞠目した。


「せっかくだし会いに行く? 今ならまだ教室に――」

「結構です。さようなら」


 きゅっとシューズを滑らせて帰ろうとする中学生に「待って待って、送ってくってばぁ!」と縋り付く女子高生。そんな二人を眺めながら、渉は後ろ歩きで千里の横へと並んだ。


「なあちーちゃん、あの子誰?」

「めぐっち?」

「も、そうだけど」


 両方気になるというのが正直な気持ちである。

 千里はクラスと名前と、懇切丁寧に立場まで教えてくれた。


「A組の小坂こさかめぐみちゃん。朝霧くんの彼女だよ」

「かっ……朝霧の?」

「お、朝霧くんのことはご存知なのですなぁ」


 千里はホホホとお上品に笑う。朝霧の彼女がどんな人なのか、気にならなかったと言えば嘘になる。しかしまさかこんな派手な子とは……。同じA組なのだから頭はいいのだろう。人は見かけによらないなと渉は思った。

 そしてそんな女子と千里が仲良しだなんて、さすがコミュ力魔神と言うべきか。――凛も知っているのだろうか。


「ってことは、やっぱりあれは朝霧の妹か」

「みたいだねー」


 朝霧虹成。彼女は今もなお、小坂の誘いを拒み続けている。恋人の妹を可愛がろうとする先輩と、それをあしらう後輩の図――

 渉はぴんと来て、なるほどと察した。さっきの既視感の正体は、ヌギ先輩だ。虹成と小坂めぐみのやり取りは、自分とヌギ先輩に似ているのだ。


「うーん、可愛い」

「うん……可愛い」

「え?」

「ん?」


 何気ない独り言に同意した渉を見上げて、千里はズサッと、大げさに一歩下がった。


「ロリコン?」

「違う」


 渉は地面に落ちる雨粒よりも速く否定した。

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