運命の人

 おはようございます、と笑顔で挨拶を交わし、ネコメは警視庁本部刑事部の扉をくぐった。片付けたはずのデスク周りには、別のファイルや書類が山積みにされている。昨夜ネコメが出られなかった捜査会議の資料だ。

 席に着いてすぐ、キレのある動きで、しかし足音を控えた上品な気配が近付いてくる。同じ班の灰本はいもと刑事だと、ネコメには見なくともわかった。


「おはようございます。灰本さん、この書類は誰が?」

「声かける前に察しないでくださいよ……。そのファイルは長海ながみが……って、初日の分は片付けたんですか?」

「はい、昨日来たときに。綾瀬あやせさんは朝練ですかぁ?」


 灰本はため息混じりに「長海も一緒ですよ」と頷く。年下や後輩にも敬語で話す彼の癖は変わっていない。彼のパートナー刑事である綾瀬は道場で一汗流している――これも変わりない習慣だ。

 ネコメは「また一緒に働けて光栄です」と言って、大きく深呼吸した。


「はあ……東京の空気、いいですねぇ」

「そうですか……?」

「活力になります」


 東京でも地方でも、ネコメのやることは変わらない。

 魔術、呪い、超能力、心霊――そんなオカルト事件が浮上するたびに、ネコメには特別な異動が命じられる。ほとんどが一時的なものだが、捜査本部が置かれた場合には居座ることもある。

 今回の異動はネコメから申し出たものだった。志願の理由は、十年前の未解決事件の捜査。ある学校の記事を書いた新聞記者殺し――その犯人探し――と、あくまで便宜上はなっている。

 そして、捜査一課で最もネコメを知る人物が集まり、最も自由に動けるのがここ――強行犯捜査第五係である。


「よおメテオちゃん。久しぶりぃ」


 フロアの扉がガチャリと開いて、陽気な声が飛び込んできた。デスク整理を止めてそちらを見ると、よれたスーツを着た三十代半ばの刑事が、にこやかに手を振っている。


「おはようございます別府べっぷさん、お久しぶりですー。警部補に昇進されたそうですねー。お噂はかねがね聞いていますよー」


 ネコメは椅子から立ち上がり、別府刑事と対峙する。別府はハタリと笑みを消し、不満げに眉を吊り上げた。


「ずっと地方におればよかったのに、また急に異動か」

「はい、俺は特別なので」

「ははは。調子に乗んなよガキ」

「別府さんにご迷惑はかけませんよ」

「またその女顔を毎日見るんか思うと胸焼けがするわ」

「それはそれは、嬉しいの間違いでは? 一度は恋した相手の顔ですよー?」

「んなこと言った覚えはねえ」

「男でいいから結婚してくれーって酒の席で抱きついてきたのは別府さんでしょう」

「相っ変わらずベラッベラと……よく回る舌やなぁ」

「お褒めいただき光栄です」


 睨めつける別府にニコニコと笑顔を返しながらネコメは思い出話に花を咲かせる。別府もまた、同じ第五係の一員であった。ただし、ネコメとは異なる班で班長を務めている。


「別府さん、その辺にしといてもらえませんか? ネコメはうちの班に入りました。そちらに迷惑はかからないかと」

ほまれちゃーん、わかってないねぇ」

「わかってないですねー」

「下の名前で呼ばないでください」


 まったく……と灰本はずり落ちそうな眼鏡をかけ直す。ネコメの知らない刑事がフロアにやって来たのはそのときだった。


「おはようございま――」

「おう、ジューゴ。おはよう」

「……おはようございます」


 別府にジューゴと呼ばれた彼はちらりとネコメを見た。ネコメも、彼を見据えた。「ジューゴ?」と思わず呟きながら。

 別府は彼の肩に肘を掛けて、ネコメを顎で指す。


「念願だった恋人ちゃん。お似合いやな」

「恋人?」

「冗談や。お前ほんと堅いな。お初やろ?」

「……はい、どうも」

「どうもー。ネコメでーす」


 ネコメはぺこりとお辞儀をする。頭を上げたときわずかにドライヤーの香りがした。シャワーを浴びて戻ってきたのだろう。


「まあ、せいぜい仲良くな。慈朗じろうにもよろしく」


 ほなさいなら、とエセ関西弁使いの別府は部署を後にした。残された同班の刑事たちは顔を見合わせる。


「長海、紹介します。こちらが昨日話していたネコメです」

「長海十護とうごです。これからよろしくお願いします」

「…………」


 スッと前に出された長海の手を、ネコメは静かに見下ろした。どこからともなく風が吹き、足元を枯れ葉が流れていく。土と擦り傷にまみれた手が、記憶のなかでその手を握り取った。


 たった一度。


 たった一度だけ、ネコメはその手に救われたことがある。あの日は確かに見上げていた、交番勤務だったおまわりさんの手。上司から、ジューゴと呼ばれていたその人の――


「…………ながみ……長海、十護さん……」


 ネコメは、ぶつぶつと咀嚼するように、舌の上で彼の名を転がした。

 ――長海さん。長海十護さん。俺の新しいパートナー。


「ふふふっ」


 極自然と笑みをこぼして、ネコメは彼の手を握り取る。


「はじめまして――長海さん。あなたは俺の、運命の人ですね」


    * * *


 長海十護は眉間に刻んだしわを濃くした。握手を交わした手が燃えるように熱くて、思わずすっ込めたくなる。相手のモッズコートから覗く手は、雪のように白くきめ細かいのに。

 ネコメは椅子に腰を下ろすと、「さっそくですが調べたいことがあるので俺は先に出ます」と、昨日長海が取っておいた書類をてきぱきと片付けていった。報告書に目を通し、情報の整理を素早く行う。仕事はできるんだなと感心した。


(金古……メテオ。歳は二十六。階級は……俺より上の警部補……)


 最低限の情報には事前に目を通していたが、こんなに奇妙な人だとは。長海はもう一度、頭の先から爪先までを眺めた。

 ――若すぎる。まだ学生服を着ていても違和感はない。いや、そんなことよりもだ。


「このあとは捜査会議ですよ。どこへ行くおつもりですか」

「んーちょっと野暮用で。てか長海さんも来ます? 俺たち相棒でしょ?」


 相手の軽薄さに長海はため息をつき、


「犯罪捜査規範第九十――」

「第九十八条『捜査方針を立て、またはこれに検討を加えるため必要があると認められるときは、随時捜査会議を開き、なるべく多くの者の意見を聞くように努めなければならない』。捜査会議は毎朝八時半からはじまる。わかってますよ」


 ネコメは完璧な解答をして立ち上がる。


「欠席するって班長に伝えておいてください。あぁそれから、長海さん」

「……なんでしょう」

「タメ語。俺上とか下とか気にしないんで、タメ語でオッケーですよー。長海さんのほうが年上だし」


 ね? と首をすくめて戯ける相棒の刑事。なるほど。事前調査が済んでいるのは相手も同じのようだ。


「それなら言わせてもらう。その髪は?」

「髪?」

「なんで刑事が金髪なんだ……目立つだろ。ここは日本だぞ。あとそのモッズコート。見ていて暑苦しい」


 脱げとまでは言わないが、季節はもう夏。初夏に似合わない厚手のモッズコートは、さすがに刑事ドラマの見過ぎじゃないか。

 そして長海が一番妙に感じたのは、顔立ちの若さよりもその髪色。白に近い金髪――プラチナブロンド。生まれも育ちも日本と聞いていたが、まさかハーフなのか。そんなこと誰も教えてくれなかったが。

 ネコメは懐からカードを取り出し、長海に表側を向けた。


「地毛証明書。上着は寒がりなだけですよ。信じてもらえました?」

「…………」


 長海は、納得の行かない目でネコメを見る。人好きのする顔立ちはニコニコと笑い続けていた。こんな目立つ奴とコンビを組むなんて……。


「長海、謝ったほうがいいですよ」


 灰本が横から口を挟んだ。長海は怪訝に目を細める。


「何を謝るんだ」

「ですからそれは……」

「いいですよ別に。慣れているので構いません」


 ネコメは鞄を手に取って「でも、」と続け、


「長海さんって、人を見た目で判断する人ですか?」


 試すような口ぶりで長海を見上げる。「だったらなんだ」と、長海は強く返した。対等でやっていく以上、ここで弱腰になってはいけない。文句があるなら言えばいい。

 しかしネコメはそれすらも見越していたかのように、にんまりと口元に弧を描いた。


「正しいですよ。疑うのが刑事の仕事ですから」


 ネコメは長海を肯定し、なぜだか満足げに部署を出ていった。やはり試されていたんだろうかと、長海十護は眉をひそめる。


「調べたいことって何なんでしょうね?」

「知らん」


 灰本の問いに短く答えて、長海は力なく席に着く。

 一瞥した隣のデスクはきちんと整理整頓されていた。デスク周りの処理をなかなかできない刑事も多くいるのに。異動時の荷物も含めてこの速さか。

 仕事ぶりは優秀なのだろう。けれど――この先うまくやっていけるだろうか。長海は不安と不満を胸に、このあとの捜査会議へと備えた。


    * * *


「――っくしゅん!」

「うおあっ!」


 向かい合って座る響弥きょうやのくしゃみをかわすべく、渉は食べ終わりそうな弁当箱を持ち上げた。


「手くらい当てろよ!」

「いやぁ風邪じゃねえよ……」


 いつものように渉の机で昼食を取る響弥は、むず痒そうに鼻をこすった。好物の焼きそばパンは吹き出していない。そのことに安堵しつつ、風邪じゃなくても押さえろよ……と渉は内心呆れる。


「どうも朝からくしゃみが止まらなくて……誰か噂してんのかな」

「悪い噂じゃなきゃいいけどな」


 学生間での噂は音速で広まるため、響弥のことなら渉の耳にも入りそうなものだが。渉は箸を握り直し、凛お手製の弁当を空にする。


「大丈夫だって、もう四回以上してるし。えーっと、一に褒められ二に惚れられ、三に憎まれ四に風邪引くってな」

「じゃあ風邪じゃねえか」

「――二と三逆だしね」


 真横からした朝霧の突っ込みに、渉は危うくむせかけた。「やあ望月くん」と、朝霧は渉の肩に手を置く。渉は「おう……」と言って朝霧を見上げた。気配を殺して近付くなよ。

 何しに来たのと問う前に、響弥が人差し指を突きつけて荒ぶりはじめる。


「お、お前は、『一位の男』!」

「一位の男?」

「一年の頃の中間テストと期末テスト、ずっと学年一位だった奴だよ! でもって生徒会推薦枠トップ通過の逸材! お、お前ら知り合いかぁ!?」

「えっ、そんなに頭いいの?」

「なんで知らないんだ渉!」


 ――なんで、と言われても……。昨日知り合ったばかりだし。

 渉はなんで言わないんだよという気持ちで朝霧をじろりと見た。そんなに有名だったのか。道理で女子がきゃーきゃー言うわけだと納得した。


「聞かれなきゃ答えないよ。それより――はい。教科書返しに来たんだ」


 朝霧は片手で持っていたそれを渉に返却する。「あ、俺も返すよ」と、渉は机のなかから朝霧の分を取り出した。

 お互い家に帰っていないため、時間割に必要な教科を補う必要があった。授業スピードは違えど、教科書類は同じもの。幸い、今日の分は二人で交換し合うことで足りている。ヌギ先輩はちゃっかり渉に連絡してきたため、あちらも事なきを得ていた。


「お前の教科書すごいな。ほかの参考書いらないくらいわかりやすいよ」


 渉は返す前に、朝霧の教科書をパラパラとめくった。朝霧から借りた教科書類、そのすべてのページに赤ペンで書き込みがされている。覚えておくといいワードだったり試験に出るポイントだったり、教科書には載っていないユニークな雑学や豆知識も書き込まれていた。

 朝霧は教科書を受け取って得意げに笑う。


「謎のプリンスと呼んでくれていいよ」

「誰が呼ぶんだよ」

「望月くんのにも書いておいたよ。受けるのはまだ先だろうけど」

「マジで?」

「駄目だった?」

「いや……助かる」

「そう、よかった。お礼に耳たぶ触らせて?」

「はあ? 嫌だよ」

「駄目なの?」

「駄目だよ! それ以上近づいたら噛むぞ」

「冗談で言ったんだけどなぁ」


 ガチガチと歯を鳴らす渉に、朝霧はしたり顔をする。こんなに威嚇をしては自分で弱みを晒しているのと同じ。遅ればせながらに気づいて、うっ……と渉は顔を引きつらせた。


「こんなところでからかうなよ」

「どこならいいの?」

「だからそういうところが――」


 べこ、と。闖入したのは紙パックのへこむ音。

 そろりと向かい側に視線を向けると、響弥が飲み切ったいちごオレを握り潰していた。頬杖をつき、さも退屈そうに目を据えて。


「楽しそうで何よりだなぁ渉」

「そう思うなら助けろよ……」

「いやいや、邪魔するのも悪いと思ってぇ」


 間延びして、響弥は腰を上げた。そして今度はビシッと、親指を自分のほうに向ける。


「渉の親友は俺! この神永響弥だからな。ぜってえ譲らねえぞ優等生!」


 本気か冗談か。謎の宣戦布告を果たした響弥は、珍しく両目を吊り上げていた。

 渉は、「子供か」とドライに突っ込みつつ、手持ち無沙汰で弁当を片付ける。わかりやすくいじける親友に、心なしかくすぐったさを感じてしまう。一方、朝霧はきょとんと目を丸めていた。


「あっ、えっと……ヤキモチだ?」

「おーおー、わかってんじゃねえか」


 響弥は前のめりになって、どこぞのチンピラのように食ってかかる。それもネタの範疇だろうと渉は傍観していた。が、朝霧は「ごめんね……」と弱々しい声で視線を落とし、


「そんな、嫌な気持ちにさせるつもりはなかったんだ。本当に……ごめん」


 長い睫毛がパチパチと開閉する。響弥も瞬きを繰り返した。


「い、いや、そんなにしょんぼりされても」

「望月くん、今日はやめておくよ」

「えっ?」


 泊まるのはやめておくという意味だろう。朝霧は無理やりな笑顔を浮かべて、「気にしないで。教科書ありがとう」と、背中を丸めて去っていった。どうやら、響弥の怒りを本気にしたらしい。

 響弥は「やめておくって何?」と声を潜める。渉は額に手を当てた。


「……お前のせいだからな」

「え?」

「相手の事情をよく知りもしないで責めるのって、俺はどうかと思うぞ」


 朝霧が響弥に気を遣って出ていったのは間違いない。邪魔しちゃ悪いと真に思っていたのは朝霧のほうだった。先輩を頼るほど困っていたのに、大丈夫だろうか。


「な、なんだよ。なんで俺が怒られてんの?」

「別に怒ってないけどさ」

「怒ってんじゃん。大体渉だって、昨日俺らとの約束破ったくせに」

「事前にメールしただろ」

「そういうのドタキャンって言うんだぞ」


 さすがの渉もカチンと来て、響弥をムッと睨んだ。遊んでいた彼らとは違い、こっちは人助けで動いている。グループトークでもごめんと謝ったのに、どうして掘り返してくるんだ。


「俺には俺の事情があるんだよ」

「どんな事情だよ、説明しろよ」

「言いづらいことだってあるだろ」

「親友の俺にも言えないこと?」


 探るような響弥の視線に、渉はつい戸惑った。だがすぐに思考を働かせ、「……うん」とだけ答える。渉だって聞いていない朝霧の事情を、勝手な憶測で話すものではないし、人の困り事を明かすのは親友相手でもためらう。人には人のプライバシーがあるのだから。


「なんだよそれ……朝霧はいいのに俺は駄目ってどういうことだよ」


 響弥は唇を尖らせて拗ねる。親友を、何でも話せる仲だと思っているのか。


「じゃあ逆に、響弥は俺に隠し事してないってのか」

「してねえよ。何をしてるって言うんだよ」

「……聞いてみただけだよ。ムキになるなよ」

「渉はしてる、けど俺はしてない。これが真実だ。わかったか浮気者め」


 渉はついに黙りこくった。苛立ちを通り越して、なんだか悲しくなってくる。なぜ大事な休み時間に、こんなしょうもない話で言い争っているんだ。どうして自分が責められる。

 椅子から立ち上がった渉に、すかさず響弥は声をかけた。


「トイレ?」

「うるさいから移動する」

「は――?」


 口を開けたまま強く反応した響弥を、渉は冷ややかに見下ろした。


「お前がうだうだぐちぐちうるせえから俺が移動するっつってんの。なんだよ小さいことでいつまでも。だったらもう誘うなよ。わかってくれないならもういいよ。早くC組に帰れ馬鹿響弥」


 言い終える前に、響弥の顔はカーッと赤くなっていく。その顔を最後まで見る間もなく、渉は回れ右して教室を出ていった。

 これでもかというくらい文句を垂れてやったが、腹の底に溜まったムカムカは一向に晴れないし雨のノイズはうるさい。「馬鹿は渉だろーがー!」という響弥の叫び声が、廊下の先まで聞こえた。

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