一日の終わり
松葉家への道は夕方だというのに、随分と暗く感じた。日当たりが悪いのか、それともこの曇天のせいなのか。途中からパタリと街灯がなくなったのも、薄闇を作り出している原因のひとつだろう。芽亜凛の言うとおり、今夜は月が見えなそうだ。
萩野は、隣を歩く芽亜凛をちらりと見る。目立たないようにと、黒の膝丈ワンピースと黒タイツを着た彼女の様は、まるで喪服みたいだ。
萩野も今日は学ランを持ってきていたため、一応着ている。藤北の夏服移行期間は長めに取られている分、完全移行が全国より遅いのだ。芽亜凛に言われる前に自分で羽織ったが、初夏の湿気のなか学ランを着込むのは、十二分に脱いでしまいたい気分になる。
汗を拭うついでに彼方を見上げると、十数羽のカラスが電線の影に厚みをもたらしていた。あちらにもそちらにもカラスの影がある。一帯は人や車よりもカラスのほうが多い通りだ。鳴きもしないでただ集うだけのカラスを見て、何だか監視されてるような不気味さを萩野は感じた。
「あの奥に見えるのが千里の家です。萩野くん、これを」
緩やかな下り坂、急カーブの死角で止まった芽亜凛は、萩野にあるものを渡す。
「防犯ブザー?」
萩野は手のひらに置かれた、銀色の防犯ブザーを見て首をひねる。
「人影が見えたら鳴らして、家の敷地内に投げ入れます。私が先に鳴らすので、萩野くんはそのタイミングでお願いします。スマホの電源は切ってありますね?」
「ああ、言われたとおりに」
「ブザーをふたつ用意したのは、犯人への警告をより強めるためと、位置がバレづらくなるようにです」
「こっちに向かってきたりしない?」
その問いに、もうひとつの防犯ブザーを握り締める芽亜凛の表情が険しくなる。
「それはないと思いますが、相手は夜目が利く夜行性動物です。くれぐれも、姿は見えないようにしてください」
「夜行性動物って……コウモリみたいな奴だな」
「萩野くんは左折したところの電柱に、私は右手奥に隠れます。ピンを抜いたらすぐに投げてくださいね」
萩野は「わかった」と大きく頷く。ボディーガードと言われたときはどうしたものかと不安を抱いたが、犯人への警告――これなら簡単そうだ。
「では、健闘を」
「ああ、橘も」
そう言って二人は別れ、指定の位置に着く。
スマホが使えないため時刻の確認ができないが、芽亜凛が言うには間もなく――犯人は徒歩で現れる。そして、家から出てきた松葉千里を眠らせて車で運び出す、と言っていた。
いったいどんな方法で千里を外まで誘い出すのか見ものであるが、犯人の行動をここまで詳しく知っている芽亜凛は、やはり実際に『見てきた』のだろう。
(そういえば、犯人って誰なんだ)
すっかり聞きそびれてしまったが、芽亜凛はその正体を知っているのだろうか。
(いや、後で聞こう。今は目先のことに集中――)
首を振った萩野の視界に入り込む、ひとつの人影。ドクンと心臓が波を打つ。
(来た!)
萩野は自然と身を縮め、芽亜凛が待機する斜め前方を見やる。彼女も身を縮めているのか、その姿は目視できない。再度犯人に焦点を合わせる。
現れたのは、キャップ帽を深く被り、上下ともに暗色の迷彩服を着た男。脱色しているのか、頭髪だけが白く浮き出て、それ以外は夕闇だけでなく、電柱や塀の汚れにも溶け込んでいる。手に持った傘は、いかにも外出中だというのを示すかのごとく。平衡感覚がないみたいにゆらゆらと歩を進める様も、ランニングが目的でないことを表している。
萩野は思った。影みたいな奴だ。
(あいつが、松葉を……)
芽亜凛の防犯ブザーはまだ鳴らない。萩野は男の観察を続けた。
男は松葉家の玄関ではなく、道路を跨いだ先にある木々へと近付く。一階の窓の、ちょうど正面に当たる木を見上げて、男は懐中電灯を点けた。黒の革手袋と袖との間を覗く、青白い肌が鮮明に見える。まるで血の通った人間の肌に見えなくてぞっとすると同時に、萩野の防犯ブザーを持つ手に力が加わった。
(……何をしてるんだ?)
男の行動は不可解そのものだった。懐中電灯を傘の取っ手に吊るして、傘ごと木の枝に引っ掛ける。
――まさか傘を囮に千里を外に誘い出すつもりか? そんな馬鹿な……と思った、そのときだった。
どこからともなく、防犯ブザーの音が鳴り響く。あまりの騒音と距離感から、一瞬どこから鳴っているのかわからなかったが、斜め前にいる芽亜凛がピンを外したのだ。そう頭で考える前に、萩野も防犯ブザーを鳴らし、芽亜凛とわずかな差で松葉家の庭へと放った。
途端、家のなかから慌ただしく人が出てくる。
「何、なになに!? いたずら!? うるさー! ねえ、お母さーん!」
現れたのは千里だ。千里は玄関に顔だけ入れて母親を呼ぶ。
母親はすぐに懐中電灯を持った状態で現れた。庭の草むらを二人して指差して、母親が防犯ブザーのひとつを拾い上げる。もうひとつを千里が拾って、母親に渡す。母親は怪訝そうな顔で手元を睨むと、家のなかへと戻っていった。後に千里も続き、玄関前で止まって、振り返る。
千里は、何かをじっと見つめ、ドアノブから手を離した。
(っ――まさか!)
萩野は、傘が掛けられた木を見た。
千里の目線は一直線に傘へと注がれており、ぱたぱたと小走りで駆け寄っていく。犯人の姿はどこにも見当たらない、だがまだあの近くにいるはず――まずい。
「……これ、わたしの傘だ」
木を目前にした千里は周囲を窺う。きょろきょろと振れる顔には恐怖と不快感が滲んでいた。
そっと手を伸ばし、掴むのをためらって、千里の腕は宙で静止する。どうか触らないでくれ、頼む、と萩野は祈った――
しかし、千里は素早く傘を掴んで取ると、玄関目掛けて猛ダッシュ。そのまま家のなかへと転がり込んでいった。
家のなかから漏れていたブザー音は、いつの間にやら止んでいる。
(よかった……)
萩野はホッと息を吐き、顔を綻ばせた――瞬間、後ろから二の腕を掴まれた。
「――っ!」
振り返り、安堵する。
大きな瞳でこちらを見上げていたのは、芽亜凛だった。
芽亜凛は曲げた人差し指で小さく帰路を指す。萩野は胸を撫で下ろし、静かに頷いた。総立ちしていた鳥肌は、彼女と並んで歩いているうちに治まっていた。
* * *
「これで松葉は大丈夫なんだな?」
アパートに帰り、制服の上着を脱いで萩野は訊く。芽亜凛は目を伏せて答える。
「まだ、結果はわかりません。でもきっと、おそらく……何かが変わったはず」
「俺もそう思いたい」
詰まるところ今回の策ははじめての試みなのだろう。
防犯ブザーを鳴らして投げた。それだけのことでどう運命が左右されるのか、それは萩野にも、芽亜凛にもわからないことなのだ。
「橘は松葉と仲がよかったんだな?」
まだ、彼女が千里を救おうとしている理由を聞いていなかった。そのことを思い出して尋ねる。
芽亜凛と千里は仲がよかった。だから救おうと必死になっている。萩野はそう一人で思ったが――
「え?」と言って、芽亜凛は顔を上げた。
(あれ……?)
「違った?」
「いえ、別に……仲がいいってほどじゃ……」
芽亜凛は言葉を濁した。本当はすごく仲がよくて、でも照れ臭くて……、そんな照れ隠しで言っているふうではない。控えめにしか返せず、聞かれて困っているように見える。
「とりあえず、今日の任務は終わりってことだろ?」
萩野は話題を変えようと声を張り上げる。芽亜凛は小さく首を振り、「はい。今日できることはここまでです」と言う。
「明日は体育がありますよね、跳び箱に注意をしろと、
三城楓――二年E組で体育委員を務めている生徒だ。気さくで友達が多い印象を萩野は受けている。
「それもやばいのか?」
「人が乗ると跳び箱が崩れるよう姑息な細工がされてるんです。三城楓には、危険だから使用しないようみんなに伝えてくれ、と注意を」
「わかった」
萩野も二年生の時間割はすでに身体に染みついているが、芽亜凛もそうなのか。何も見ずにさらさらと予定を口にし、おまけにクラスメートの指示まで的確だ。記憶力がいいのか、それとも本当に何度も経験しているのか――もしくはその両方。
「萩野くん、今日泊まっていきますか? 夕飯も、たいしたものは出せませんが」
「ああ、大丈夫。帰るよ」
「そうですか、なら最後に――」
芽亜凛はテーブルに置きっぱなしだったスマホを手に取る。
(――って、ちょっと待て)
「橘?」
「はい」
「あ、あー……、そういうことは、男子には言わないほうがいいと思うぞ」
泊まっていきますか、の部分である。つい普通に返してしまったけれど。
芽亜凛はしまったという顔をして静止した後、小刻みに首を振った。
「ごめんなさい! ……失礼でしたね」
「いやいやいや! 俺はさ、別にいいんだけど……誰にでも言ってたら、そいつ勘違いするだろうし」
一人暮らしの少女の家に、指名されて呼ばれた男。それだけでも何やら意味のないことを考え、次第に妄想は膨れ上がり、泊まっていくかと問われれば完全に勘違いしてしまうだろう。なかには逆に、家のなかに招かれた時点で拒否する者もいるだろうけれど。
萩野拓哉はそのどちらの思考も抱かないというだけで、ほかがそうとは限らない。
「誰にでもなんて言いません。私、下心のない男性がわかるんです。萩野くんはそういう人だから、つい軽はずみなことを……」
「俺そんなに脈なし?」
「あ、はい、皆無です」
ていうか萩野くんは、と芽亜凛は続ける。
「見た目や性別に、左右されない人ですよね」
萩野は目を見開いた。
――見た目や性別に、左右されない人。
「どこまでも内面を重視してる人――だからあなたを呼んだんです」
「…………」
それってさ、と萩野は重い口を割る。
「それって、いいことだと思う?」
「はい、私はいいことだと思いますよ。連絡先、交換しておきましょう」
淀みなく言って、芽亜凛はスマホを掲げた。
(内面……。そうか、俺って内面を重視してるんだ)
「……なんか、安心した」
独り言を呟き、萩野はポケットからスマホを取り出した。お互いの電話番号を交換して、次はメールだよなと待機していると、
「メールは駄目です。記録に残るものは、外部から覗かれた際厄介ですので。電話帳の名前も、私のことは『スイーツ大好きクロネコ』でお願いします」
「……」
「私も一応、萩野くんのことはイケメンその一……じゃバレそうなので、『狼さん』で登録しておきます。ほかに候補はありますか?」
「……それでいいよ」
萩野は眉間に手をやり答えた。
――橘芽亜凛。はじめは警戒心の薄い子なのかと思ったが、まったくの逆だ。彼女は警戒心の塊である。そして、実はものすごくユニークな子らしい。
「これでも萩野くんのこと、心配してるんですよ」
「ああ。心配してるから、今日泊まっていくかって聞いてくれたんだろ? ありがとな」
萩野が嬉しそうに言うと、芽亜凛はにこりと笑い、唇に人差し指を当てた。
「今日のことは、ほかの誰にも言わないでください」
「ああ、もちろん」
面白半分に話すことでもないしな、と萩野は思う。
芽亜凛は改まった様子で姿勢を正し、深々と一礼した。
「よろしくお願いします」
こうして、萩野拓哉のはじめての任務が完了した。学校には行かないと言う芽亜凛の家には、これから毎日、部活終わりに通う運びとなった。
明日は跳び箱の内容を三城楓に伝えること。そして何より、松葉千里の登校を確認することだ。自分にできることならなんでもしてやりたいと、萩野は気持ちを固める。
月の見えない曇天に向けて、あっと口を開いた。
犯人が誰なのか、聞けなかったな。
* * *
「燃えろよ燃えろよ
炎よ燃えろ
火の粉を巻き上げ
天まで焦がせ」
立ち上る炎を見上げ、男は陽気に歌っていた。
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