転校生の自宅

 地図アプリで現在地と目的地とを確認しながら、萩野はインターホンを鳴らした。プリントに記載された住所どおりなら、ここが転校生の住むアパートの二〇二号室である。

 しわにならぬよう封筒を脇で抱えて、緊張した面持ちで待つこと三秒。返ってきた『はい』という二文字は、小鳥のように澄んだ声の持ち主であることを明確に表していた。おそらく転校生その人だろうと思い、萩野は用件を告げる。


「藤ヶ咲北高校二年E組の、萩野です。ノートのコピーを持ってきました」


 すると今度は返事もなく、ブツッとノイズが事切れた。本当にこの住所で合っているのか、一気に不安になる。だが、人違いならそうだとはっきり言ってくるだろうし――そう考えている間に、ロックの外れる音がして萩野は安堵する。

 ドアが開き、現れたその人の容姿に萩野は目が点になった。上は白のノースリーブに、下はショートパンツ。ラフな部屋着とはちぐはぐなスレンダー体型と、長すぎる脚線がそこにあった。スタイルいいな……というのが率直な感想で、萩野は思わず見惚れる。


「上がってきてください。入ったら鍵、ちゃんと掛けてくださいね」

「あ、えっ」


 玄関先で書類を渡すだけのつもりで来たのに。萩野が口にする前に、転校生は長い髪を翻して――フローラルフルーティーな香りが鼻をくすぐった――部屋の奥へと進む。香りは部屋全体にも薄っすらと漂っている。この匂いは不快じゃない。

 萩野は「お邪魔します」と言って家に上がった。靴を脱ぐ前に、言われたとおりドアに鍵をする。

 花柄の刺繍がされた暖簾をくぐってリビングに出ると、ミニ冷蔵庫を開ける転校生の後ろ姿が見えた。転校生はコップに入れた烏龍茶を運びながら、


「適当に掛けてください」


 萩野は中央のテーブルを目で追い、カーペットの上にあぐらで座った。向かいの座椅子には転校生が座る。


「橘芽亜凛です。どうぞよろしく」

「あ、どうも……萩野拓哉です」


 よそよそしい挨拶を交わして、周囲を見渡す。今のところ親の姿はない――だけでなく、この家に人一人以上住んでいる気配が感じ取れない。テレビもないし、テーブルは目の前のひとつのみ。閉ざされた部屋は彼女の寝室だろう。


「橘ってもしかして、一人暮らし?」

「はい」

「へえ……偉いな」


 萩野は本音を漏らして笑みを浮かべる。

 両親と弟と幼い妹の五人で暮らしている萩野にとって、一人暮らしとは憧れだった。金銭に余裕ができれば自分もいつかははじめてみたいと思っている。


「石橋先生から、どこまで聞かされましたか」

「プリントとノートのコピーを渡してくれって。これ、今日の分の」


 萩野はそれら一式が入った角形封筒を手渡す。ノートは相方の凛が取ってくれたものをコピーしてホッチキスで綴じてある。

 芽亜凛は受け取った封筒の中身を見ることなく机上に置いた。


「萩野くんを指名したのは、石橋先生じゃなくて、私なんですよ」

「えっ?」


 咄嗟に彼女の顔を見ると、まっすぐな瞳が向けられていた。


「これからする話を、どうか真剣に聞いてください」


 萩野は目を瞬かせる。芽亜凛が自分を呼んだ真意がこの話にあるのか。彼女の語調からただならぬ様子を感じ取り、萩野は背筋をスッと伸ばして頷いた。

 芽亜凛は肩の力を抜いて言う。


「萩野くんも知ってのとおり、今日、六月三日に私は転校するはずでした。みんなは四月に聞かされたという二年E組の話を、私も百井凛から聞かされます。『呪い人』という、藤北の、黒の歴史についてです」

「ま……」


 待て。待て待て待て。萩野は片手を上げて待ったをかける。


「え、どうしてそれを……、石橋先生から聞いたのか?」

「いいえ」


 芽亜凛は小さく首を振った。私は、と言って続ける彼女の話は、とても信じ難い内容だった。


「私は――実際に、この目で見てきたんです。……死ねないんです、私。死ぬと、六月一日の夜に……戻るんです」

「…………」

「信じられませんよね、わかってます。でも事実なんです」


 信じ難い話――だが彼女の憂いを帯びた顔つきは嘘をついていない。

 萩野はゴクリと喉を上下させた。同じ日を何度も繰り返すていの楽曲が、小学生の頃に流行ったのを思い出した。――現実でそんなこと……あり得るのか? 不本意ながら、昼休みに向葉が言っていた『イタい奴も無理』という言葉が脳裏をよぎった。


「その話が本当だとして、誰がきみを殺すの?」

「……殺されるのは私ではありません」


 芽亜凛は何かに怯えるみたいに片腕を抱きすくめる。


「今日殺されるのは――二年C組の、松葉まつば千里ちさとです」

「松葉……」


 聞き覚えのある名前だったが、さすがに他クラスのことまでは把握していない。そう思っていると、「みんなからは、ちーちゃんと呼ばれている子です」と芽亜凛が補足した。


「あ、それなら! えと、百井と仲がいい子かな」

「そうです。殺されると言ってもまだ先の話で……厳密に言うと、今日さらわれるんです」


 萩野は身を乗り出して問う。


「つまり、誘拐?」


 その質問に、芽亜凛は押し黙った。はっきりと肯否しない様子を見て萩野は、目的が殺しならば、誘拐とは少し違うのかもしれないと察する。


「なるほど。それで……俺を呼んだのは、それを松葉に伝えるため?」

「いえ、萩野くんには……」


 芽亜凛はうつむいていた顔を上げて、深呼吸をし、


「私の代わりに、闘ってほしいんです」

「……代わり?」


 ――一緒にではなくて?

 芽亜凛は「はい」と首肯する。

 それならなおさら、萩野は自分が呼ばれた理由がわからなかった。自分はただの高校生で、何か飛び抜けた特技があるわけでもなく、格闘技だって習っていない。二年E組で柔道部の白峰や小林こばやし、それこそ百井凛が適任ではないかと思えてくる。ある日突然試練を突きつけられる少年漫画の主人公はこんな気持ちなのだろうか。


「一人でやれる自信ないんだけど……」

「大丈夫です。今夜は私もいますから」

「今、夜?」


 芽亜凛はこくりと頷いた。


「今夜は、私のボディーガードをしてください。もう、すぐに出ます。支度をしてくるので、萩野くんはここで」

「お、おお……わかった」


 立ち上がった芽亜凛を見て『ほんと急だな』という言葉を飲み込む。ついでに、手を付けていなかった烏龍茶を今のうちに飲んでおく。


「ほかに何か質問は?」

「え、あっと、そうだな……」


 萩野はぐずぐず悩む暇もなく、先ほど抱いた疑問を口にした。


「橘はどうして俺を指名したの? ほかにも、いるじゃん。百井とかさ」

「萩野くんは……無害だからですよ」

「む……」


(無害って……)


 ――彼女はいつもこうなのだろうか。誰に対しても警戒心が薄く、すぐに人を信用してしまう。それとも自分だけ特別に、として舐められてるのか。


「そうかなぁ、実は狼かもしんないぞ?」


 萩野は顔の横で爪を立てるポーズをする。冗談半分で言ったつもりだったが、今から着替える相手に向けて言う台詞ではなかったかと、すぐに冷静になった。

 橘芽亜凛はくすりと笑った。


「大丈夫ですよ。今夜は月、見えませんから」


 そう言うと芽亜凛は、寝室の奥へと消えていく。それがこの日はじめて見た、彼女の笑みだった。

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