飛んで火に入る夏の

 帰る支度を済ませてA組の教室を覗いたとき、朝霧は渉の顔を見るや、「先帰ってて」と苦笑した。相変わらず家に泊まりに来てはくれないが、こうして帰りを一緒にする仲にはなっている。今日も約束をして訪れたはいいが、なんだか朝霧は忙しそうだ。


「待ってるよ、つーか手伝おうか? 大変そうだし……」


 渉が言うと、朝霧は「え、本当に? いいの? 助かるよ」と満更でもない様子を見せた。朝霧が向かい合っているのは、生徒会に提出するノートだ。各委員会が出した報告をひとつにまとめる作業で、E組では凛や萩野が時折やっていることだった。

 こんな大雨の日に一人で帰るのも陰鬱だ。武道場に行けば凛に会えるだろうが、渉も暇を持て余すことになるし、それなら先約を優先して手伝ってあげたほうがいい。

 渉は、机に積まれた各委員会のファイルとノートを、まとめ終えたものから順に片付けていった。


 校舎を包み込む雨のBGMに、ペンをカリカリと走らせる音が重なる。ノートをめくる乾いた音も、教室を行き来する軽快な足音も。

 二人だけの教室に、二人だけの気配が動いていた。


(……響弥たちなら……今頃楽しくカラオケにでもいるのかな)


 窓際にもたれ掛かって思考する渉を、朝霧は頬杖をつき覗き見た。


「浮かない顔だね」

「……そう?」


 渉はその一言で視線を持ち上げると、ニコニコとこちらを観察するような、朝霧のにやけ面にムッと唇を曲げた。


「俺は雨が嫌いなんだよ」

「濡れるしうるさいし暗いから?」

「知ってるなら察しろよ」

「ふーん、なーんだ。今頃神永くんたちは何してるのかなーとか、考えて落ち込んでるのかと思った」


 うぐ、と渉は押し黙る。心の奥まで見透かすなよ。


「図星だった?」

「図星じゃなくても落ち込むだろ、そんなこと言われたら」

「なるほど、望月くんは僕じゃ満足できないと」

「お前なぁ……喋ってないで手ぇ動か――」


 教室中がチカチカと白い光に照らされ、渉は反射的に飛び跳ねた。思わず机の陰に隠れると、太鼓を叩くような轟音が背後から追撃する。

 身をすくめた渉は胸に手を当てて息を吐いた。そうしてふと顔を上げると、きょとんと目を丸めて渉を見下ろす朝霧が、


「雷怖いの?」

「最悪だ」

「怖いんだぁ?」

「最悪だ……」


 渉が苦手なのは梅雨の雨音だけじゃない。湿気の多いジメジメとした空気も、窓を揺さぶる風の音も、ゴロゴロと鳴り響く雷も、全部全部含めて大嫌いだ。特に雷の音は――クラスメートの前じゃ我慢していたのに……。てかなんで朝霧こいつは嬉しそうなんだ。


「そっかそっか、またひとつ望月くんのこと知っちゃったな」

「お前だって苦手のひとつやふたつくらいあるだろ」

「例えば?」

「た……、……おばけとか」

「子供か」


 朝霧は鼻で笑って足を組み替える。


(仕様がないだろ……自分のこと話さないんだから)


 それとも朝霧は訊いてほしいんだろうか。自分のことをもっと訊いて、知って、踏み込んでほしい――?


「そうだ、空いてるならそこのプリント、処分してきてくれないかな?」


 朝霧はどこまでもマイペースに、黒板横の棚にペンを向けた。配布されたプリントの残りがカゴのなかに入っている。数を調節して配るのも処分するのも広報委員の役目だが、E組でも溜まりがちなため掃除時間に処理されることが多い。


「ゴミ箱に捨てちゃ駄目なの?」

「A組じゃシュレッダーにかける規則になってるんだ。職員室に持っていけば教えてくれるはずだよ」

「……わかった。行ってくる」


 職員室に一人で行くのは苦手だが、致し方ない。渉はプリントの束を抱えて教室を出ることにした。


 廊下を歩いている間も、頭では響弥のことを考えていた。

 あれから一週間が経つというのに、いつまで経っても会いに来ない。それは渉にも言えることだが、互いに謝るタイミングを逃しているような気がしていた。中学からの付き合いだというのに、この程度のいざこざで離れてしまう関係だったなんて――そんなこと、思いたくない。


 職員室にいた先生に声をかけてシュレッダーを使わせてもらう。朝霧はこんなふうにクラスメートの尻拭いをしているんだろうか。クラス委員とはいえ気が利きすぎているというか、働きすぎというか、いい人すぎないかと思う。

 朝霧がクラス委員だというのは後々知ったことだった。生徒会執行部なのは響弥から聞いていたが、クラス委員についてはA組に通うようになって気づいたことである。


 そうやって観察していてわかったことといえば、頭がよくて顔がよくていい匂いがして、元バスケ部で運動もできて女子からもモテて、クラスメートから頼りにされて、いつもニコニコ笑って人のことからかってきて、性格が悪くて、ピンク髪の彼女と中学生の妹がいることくらい。


 肝心の中身は空っぽのままで――だから、


 本当は渉がいなくてもいいんじゃないか。今助けてもらっているのは渉のほうで、朝霧には必要ないんじゃないか。

 そう考えると寂しさがあって、自分は朝霧を響弥の代わりにして、心の隙間を埋めているだけなんじゃないかって。響弥との関係を戻さない限り、この自責の念はいつまでも付きまとうだろう。


「まだいるよあの子」


 職員室を出た帰り道。廊下の曲がり角から、くすくすと女子の笑い声が聞こえてきた。体操服を着ている運動部のようだった。彼女らは窓の外を見て笑みを浮かべている。


「悲惨じゃーん」

「きたなーい」


 なんだ? と、渉はすぐそばの窓から彼女たちの視線の先を窺った。


「えっ」


 自然と声が漏れていた。

 校舎の裏には、制服姿の女子が一人、ずぶ濡れで膝をついていたのだ。

 渉は弾かれたように方向転換し、生徒玄関へ走った。外靴に履き替えて傘を手に取り、水たまりをかわしながら大慌てで彼女の元に向かう。


 女子生徒は、傘も差さずに草むらを掻き分けていた。制服はスカートまで濡れて色が変わり、白のタイツは土で汚れ、雨水を垂らすポニーテールは、背中にびしゃりと張り付いている。廊下の生徒たちの笑い声も相まって、まるで新手のいじめのように見えてしまう。渉は居ても立っても居られなくなった。

 駆け寄ろうとして、その手前に何か落ちていることに気がつく。拾い上げたそれは、臙脂えんじ色の生徒手帳。藤北配布のものである。落ちた拍子に開いたのか、二年B組、晩夏すみれと記されてあった。


 渉は「ねえっ……!」と声を張り、「探しものってこれ?」と彼女に傘を差し出す。振り向いた彼女の顔は、水滴を落とした生徒手帳の写真と――ただひとつの特徴を除いて一致していた。写真ではかけているはずの、黒縁の大きな眼鏡がなかったのだ。

 晩夏は目を細めて渉の顔を見ると、「……何?」と掠れた声で言った。渉は「せ、生徒手帳」と、彼女の目と鼻の先にそれを持っていく。受け取って、晩夏は力なくうつむいた。


「……私が探しているのは眼鏡」


 頬を濡らす雨水が涙のように顎を伝う。予想はついていたがやはりそうだったかと、渉は一人で納得した。おそらく生徒手帳は眼鏡を探すのに夢中で、胸ポケットから落ちたのだろう。


「眼鏡ってさ、スペアとかないの?」

「……教室の鞄のなかにある」


 渉は「取ってくるよ」と迷わず答えた。晩夏は眉間のしわを解いて、「本当?」と顔を上げる。


「うん。席教えて? 二年B組でいいんだよね?」


 晩夏は頷き、自分の席順を明かした。渉は「オッケー」と返事をし、「取ってくるから、傘持ってて」と手渡して走り去る。

 急いで校内に戻ると、階段を一段飛ばしで駆け上がって、二年B組の教室に滑り込んだ。そして、教えてもらった席に目を留めると、頭のなかに自然とクエスチョンマークが浮かんで、渉は目をぱちくりする。

 晩夏の席には机の上に、眼鏡が置かれていた。写真で見たのと同じ黒縁眼鏡だった。


(これ……で、合ってるんだよな?)


 念のためスペアを持っていこうか悩んだが、女子の鞄ということもあってやめておいた。駆け足で校舎裏に戻ると、晩夏は傘を差したまま、その場を一切移動していなかった。


「あったよ。机の上に」

「机の上?」


 晩夏は受け取った眼鏡をかけると、「捨ててなかったのか……」と呟く。発言の意図がわからず、渉は「ん?」と首をひねった。渉を傘のなかに入れて、晩夏は言う。


「ねえ、保健室まで付いてきてくれる?」

「え?」


 ぽかんと口を開いた渉は、その直後の雷鳴にぎょっとした。近くで雷が落ちたらしい。凄まじい破裂音に心臓が喉を通って口から出るかと思った。


「わ、っ……わかった」


 保健室でもどこでもいい。とにかく早く校内に入りたい一心で、渉はおずおずと承諾する。放課後とは言え、全身ずぶ濡れの晩夏の格好はどうにかしたほうがいいだろう。


 さすがに部活中だからか、保健室には誰もいなかった。渉は開けた扉の前で立ち止まるも、晩夏に袖を掴まれて、半ば強引になかへと引きずり込まれる。


「あの……俺は大丈夫なんですが」

「見張っててよ。着替えするの、一人じゃ心細いよ」


 晩夏は何食わぬ顔で言って、新しい制服を引き出しから取る。


「じゃあ扉の前に――」

「信用できないからそこにいて」


 渉の言葉をぴしゃりと遮り、晩夏はベッドのカーテンの内側に消える。結構厳しい子なのかなと渉は反論を諦めて、大人しく引き出しからタオルを取った。滝のように降る大雨のせいで渉も頭と肩を濡らしている。せっかくだし借りてしまおう。


「ねえ、そこにいる?」と晩夏は静かに問うた。ファスナーを下ろす音がして、布が擦れる音が続く。

「ああ、いるよ」と渉は吐息混じりに答えた。よほど信用されていないのか、「本当にいる?」と繰り返し強く言われる。渉はため息をつきたくなる衝動を抑えて、カーテンへと近付き、「うん、いるよ」と背を向けた。


 その瞬間、強い力で二の腕を引っ張られた。


「え――っ?」


 何? と疑問を口にするよりも先に、渉はタオルを持ったままバランスを崩して、気づいたらベッドの上に倒れ込んでいた。ぼふん、と顔を叩いた布団の感触に仰天しつつ、後ろを振り返ったところで思考は完全にフリーズする。


 肌色。

 肌色。肌色。肌色。あまりの肌色の多さに目がくらむ。

 晩夏すみれは、制服とタイツを取り払った姿で、渉を平然と見下ろしていた。

 目を見開いた渉を襲ったのは熱ではなくて寒気だった。慌てて顔を戻し、ベッドを乗り越えようと手を伸ばすが、後ろからぐいとベルトを掴まれる。「おい――!」と怒鳴る渉に晩夏はのしかかると、


「暴れたら大声上げるからね」

「っ……ざっけんな……」

「可愛いね」


 ふふっ、と後ろで笑ったかと思えば、晩夏は唇で挟み込むようにして渉の耳を噛んだ。ひゅっ、と呑んだ息が喉をじくじくと刺激して、渉は拳を握りしめる。

 ――落ち着け、殴ったら負けだ。暴れたら負けだ。クソ、クソ、クソ! 女じゃなかったら殴り飛ばしているのに!

 渉はここに来てとんでもない女と関わってしまったことを自覚する。背中越しに押し付けられる肉々しさが気持ち悪い。梅雨の空気のように湿った生ぬるい吐息が気持ち悪い。下着が何色かなんてもう覚えちゃいなかった。これなら雨に打たれて風邪を引いたほうがマシである。


「……無理……マジ、無理だから」

「女の子が嫌いなの?」

「ち……」


 違う。が、何を言っても無駄な気がして言葉を切る。最早この状況で答える義理などないし、好き嫌い以前にトラウマになりそうだった。悪寒が全身を支配して止まない。まさか同級生の女子に襲われるなんて夢にも思わなかった。


「ねえ、こっち向いてよ。お礼させてよ」

「無理だ」

「触っていいよ」

「無理だって!」


 渉は腕に置かれた手を払い、片手で上半身を前に引いて晩夏から抜け出すと、頭から一回転して床へと落ちる。すがるようにカーテンを掴み取ったそのとき、「望月渉くん」と、紹介していない名前を呼ばれた。


「朝霧しゅうのことで知りたくなったら私を訪ねて」


 晩夏すみれの一息の言葉に思わず振り返りそうになる。渉は自分の脚に鞭を打って、保健室を逃れ出た。

 扉に背中を預けて、「何なんだあいつ……」と胸を押さえる。心臓が悲鳴を上げて痛かった。どっと吐き出した息が震えている。


 どうして俺の名前を知っていたのだろう。朝霧の知り合い? 知りたくなったらってどういう意味だ。晩夏に対する疑問は次から次へと湧き上がった。


 渉は手洗い場で顔を洗って、口のなかをぐしゅぐしゅとゆすいだ。鏡越しの顔は青ざめて、心なしかやつれている。

 朝霧修のことで知りたくなったら私を訪ねて。晩夏の残した言葉が胸の奥で反響する。耳朶を打った誘惑は、想定外の甘美な響きをまとっていた。

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