第五話

闘える者

 生臭いにおいがした。腐乱臭ではない。水と魚のにおいだ。

 視界をこぽこぽと漂う小さな泡々は、橋から川へ突き落とされた時を彷彿とさせる。苦しくはなかった。揺らめく髪も見えない。今あるのは、仕切りで隔たれたふたつの水槽の向こう側で、貝殻のような大きなヒレをはためかせて泳ぐベタたちだけだった。


『そんなに珍しいかい?』


 フローリングに膝をつき、熱心に眺めている自分に向けられた、優しい声色。

 振り向くと、来客用のお盆にお茶を用意する先生の姿があった。顔は赤褐色の影が斜めに差し込んでいて、口元の微笑しか確認できない。


『先生は魚が好きなんですか?』


 尋ねると、『どうしてそう思うんだい?』と聞き返されたので、部屋を見渡して呟いた。


『闘魚と……クーラーボックスが』


 先生の住むマンションの一室には、クーラーボックスがたくさん置かれていた。視界で捉えられる範囲でも、片指以上の数が隅に山積みされている。


『それだけで決めつけるにはまだまだ証拠が足りないな』


 先生は朗らかに笑って座椅子にあぐらをかくと、『金古かねこは生き物が好き?』と、お茶を一口すすって尋ねた。

 金古流星メテオは考え考え、『はい』と静かに答えた。


『それならいつでも来るといいよ。先生は、お前がこうして外に出てくれたことが嬉しいんだ。もっとも、登校してきてくれるのが一番だけれどね』


 そうか、自分は学校に行っていないのかと、金古少年は無常感を抱いた。気づかされた気もするし、しかしずっと前からこうだったような当然さが尾を引く。

 自分が行くと、不幸になるから。だから金古は、学校に行くのをやめた。先生はそんな不登校の生徒に見かねて、それなら先生の家においでと誘ったのだった。


『学校は大変みたいですね……また、』


 そう言いながら物惜しげにお茶をちびちびと飲む。最後の言葉には、今年もという意味のほかに、自分だけが知る今回という意味も含まれていた。先生にはもちろん前者の意味しか通用しておらず、『ああ、お前の隣の席の子なんだよ。可哀想にな……』と哀れんだ。

 自分の通う学校のクラスから行方不明者が出た。次に消えるのはまたしても同じクラスの親友か。

 呪われた教室から逃げたって何の意味もないとわかった今、はたして学校に行くべきなのだろうかと。考えあぐねたところで、かねてから誘われていた先生の家に訪れたような気がする。


 お前が呪い人なんだろ。死ねよ。消えろよ。

 お前のせいだろ。もう学校に来んじゃねえよ。

 死ね。死ね。

 消えろ。消えろ。

 幾度となく浴びせられた灰色の言葉が魚のように頭中を泳ぐ。


 虚ろな瞳を上げると、クーラーボックスを開ける先生の手が目に入った。反射的に首を傾げかけたが、僅かな挙動でぴたりと止まる。

 にこりと振り返った先生は、尾ビレの付け根を鷲掴みにして自慢した。掴んでいたのは魚じゃなかった。凍った誰かの足首だった。


『もう自己紹介できなくなっちゃったね。頭はどこに入れたかな』


 先生はお気に入りのおもちゃを探す子供みたいにクーラーボックスのなかを掻き回した。手首、肘、太腿らしき肉の氷塊。ごろごろと取り出される誰かの何かは次第に溶け出して、床に真っ赤な水たまりを作る。

 まだまだ証拠が足りないな。先生の言葉のとおり、この部屋には釣り道具が見当たらなかったのだ。


『先生、』


 溶け切ったそれらは陸に上げられた魚のようにびちゃびちゃと跳ね出して、金古の膝に、腰に、巻き付いた。お前のせいだ、お前のせいだと責め立てるように、未練がましくしがみつく。

 助けを求める前に、首に冷たい衝撃が与えられた。折れたかと思ったが、生きていた。自分は横殴りにされただけであった。誰に。先生に。


 錆びついた機械と化した首をひねり、注視すると、先生は網で掬い取ったベタを同じ水槽のなかに入れていた。互いの存在に気づいたベタは途端に動きを速めて威嚇行動をはじめる。逃すまいと噛みつき、突付き合い、片方が死ぬまで絡み合う闘魚たちの様子を、先生は満足気に見つめていた。


『大丈夫だよ。金古は死なないから。だから学校に来なさい』


 先生は床にしゃがみこむと、動けなくなった少年の頭をわしわしと撫でた。背後に見える狭い水槽のなかで、粉々になったヒレの欠片が落ちていく。身体が動かないのは深い眠気のせいだった。頭のなかにぱらぱらと降り積もる結晶が、一面の白となって空間を埋めていく。

 先生……と唇だけ動かした。声が出なくても伝わっていた。


『大丈夫だよ。見える位置には残さない』


 誰にも言いませんから……と心の声が漏れた。


『うん、言ってもいいよ。でもね、警察は証拠がないと動かないんだ』

 ――それなら、この家を調べて……。

『警察にそんな執行力はないよ。令状がないと家には上がれないんだ』

 ――そんな……。

『金古は警察なのに、そんなことも知らないのか?』


 まだまだ勉強不足だな、と先生は白い歯を見せた。


 ――俺が警察……?

『そうだよ』


 先生はそう言って金古のシャツを捲りあげると、ぴっと鞭をしならせた。柔肌に赤い一線が走り、肉が容易くふたつに裂ける。


『今はネコメと呼ばれているんだろう?』


 どこまでも優しく、変わりない先生の声が、暗闇のなかにこだました。抵抗しようにもできなかった。痛みよりも眠気のほうが強かったからだ。


『先生と仲良くなった証だよ』


 先生は、服の上からは見えない位置に傷を残していった。許してください、助けてくださいと懇願させるべく、起きてすぐには動けないよう、最後に両肩の関節を外して――


 ネコメがソファーで目を覚ましたとき、辺りは薄明かりに包まれていた。胸の上にはすぅすぅと寝息を立てる一匹の白猫が、身体を丸めて眠っている。首を動かして見た無地のカーテンからは、日の光が漏れていた。

 ここはいったい? と考えるよりも先に、ネコメは部屋の空気を吸って安心感を覚える。見知らぬ部屋には長海ながみ十護とうごの香りが漂っていた。昨夜開かれた歓迎会で悪酔いして、どうやら相棒の家に運ばれたらしい。


 察すると同時に、部屋の脇に垂れ下がった暖簾から、肌着姿の長海が頭をタオルでくしゃくしゃと拭きつつ出てきた。長海は揺らぎのないまっすぐな瞳でネコメを一瞥すると、冷蔵庫からペットボトルの水を二本取り出し、ソファーの傍らまで来て片方を渡した。


「ありがとうございます」

「大丈夫か?」


 え? と唇を動かし、拍子に身体を起こしかけたが、胸の上で眠る真っ白な温もりを見て中断した。


「ユキだ」


 長海はネコメの視線に気づいて、愛猫を紹介する。


「ユキさん。長海さんのご家族ですか」


 ネコメの不思議な言い回しに長海は瞼を持ち上げたが、すぐにいつもの仏頂面に戻って、「ああ」と低く肯定した。


「すみません、昨夜は面倒をおかけしたようです」

「弱いなら飲むな」

「飲みの付き合いも仕事のひとつですから」


 班長の風田かぜた刑事が中心となって開いてくれた、長海の相棒祝い兼ネコメの歓迎会に、主役が出ないわけにはいかない。会と言っても居酒屋でごちそうになっただけであるが、多忙な時間を詰めて開いてくれたことには感謝するほかないだろう。


「顔色が悪いぞ」

「元からじゃないですか?」

「血の気がないという意味だ」


 ネコメの冗談にも真面目に返して、長海は再び洗面所の暖簾をくぐっていった。

 二人の話し声で目を覚ましたユキが胸の上で伸びをする。そろりと顎の下に指を持っていくと、ゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄ってきた。しばらくくすぐってやると、満足したみたいに胸から下りて、水飲み場に闊歩していった。猫と入れ替わりで、長海がソファーに戻ってくる。


「お前もシャワーを浴びたらどうだ」と、持っていた新しいタオルをネコメにパスした。

「いいんですか? ではありがたくお借りします」


 タオルもシャワーもという意味で借りるとしよう。

 実際ネコメは汗ひとつかいていなかった。悪夢を見たぐらいで冷や汗をかくほど、ネコメは人間できていない。そんな凡夫な神経はとっくの昔に卒業している。

 顔色の変化のなさには自信があったが、長海はよく人を見ているようだ。嬉しくなってつい冗談でかわそうとしたことは内緒である。


「お前は何を調べているんだ」


 長海は、水を飲もうと身体を起こしたネコメに問うた。


「頼まれた寺の様子は変わりない。時間が許す限り張り込むようにしているが、お前の言った怪しい男の出入りはゼロだ。あの家には学生しかいない。お前の情報源は確かなのか?」


 神永かみなが家の調査をしている間、長海には神永分寺の見張りを頼んでいた。迷える少女、たちばな芽亜凛めありから聞いた二十代前半の男のことである。素性がわかればこっちのものにできる。長海にはその特徴を伝えて、空き時間でいいから探してくれないかと協力を要請した。

 長海は真面目な男である。いまだに遺体慣れしておらず、つい犯人に熱くなって手を出しかけることもあるが、刑事である前に一人の人間として誠実な男だ。だから張り込みもその都度時間帯を変えて行なっているし、ネコメもそれは把握していた。


「情報は確かです」

「どうしてそう言い切れるんだ」

「嘘をつくメリットがないからですよ」

「お前は人を信じ過ぎだ」


 長海は情報が誤りではないかと疑っているらしい。普通の警察なら抱いて当然の心理だ。

 それに長海は、ネコメが情報源を伏せている点にも疑念を持っているのだろう。かと言って女子高生から聞いたと説明しても、彼が納得するかどうか……。最悪、協力を打ち切られる恐れがある。


「わかりました。あとは俺一人でやります」


 そろそろ潮時だろうとネコメも感じていた。慣れたことだ、ネコメと相棒になった警察官が、彼の言動に音を上げることなど――


「舐めるなよ」


 長海は語調に苛立ちを滲ませて、眉間のしわを濃くした。


「何を調べているんだと訊いている。言えないということは、俺を信用していないのか」

「長海さんこそ」


 口にするのは至極簡単だ。ネコメは警察官に、絶対的な信頼を寄せている。

 だけど、相手もそうとは限らない。無条件に自分に付いてきてくれる人なんて、ネコメは一度たりとも巡り会えたことがないのだから。

 長海は呆れた様子で瞳を閉じ、胸の前で腕を組んだ。やってられるか、とその表情は語っている。組んだ腕を人差し指でイライラと叩き、考え終えた長海はじとりと目を据わらせた。


「わかった、俺が無駄だと判断するまで張り込みは続ける。だがそのときは、お前の相棒もやめさせてもらうからな」


 てっきり、このまま文句を頂戴して口論になるかと思いきや、ネコメは長海の執念深さに驚いた。と同時に、喜びにも浸った。


「はい。よろしくお願いします」


 胸の中心がぽかぽかと熱い。ネコメは嬉しそうにはにかんだ。

 ネコメは諦めの悪い人が好きだった。自分と同じ――

 生真面目さの下に根性を持ち合わせた長海警察官が音を上げるのは、まだまだ遠い先のようらしい。

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