偽りの華

 女の子なら前日のうちにデートに着ていく服を、鏡の前でウンウン悩みつつ選ぶのだろうか。それとも、恋する相手を思えばたとえ男であろうと、不安で眠れなくなったり準備にもたついたりするのか。それが『普通』なのか。

 あいにく、朝霧あさぎりしゅうにはそのどれも縁がなかった。誰かを好きになったり、相手を思って苦悩したり、そういった心の動きは持ち合わせていない。デートに行く服選びにも迷ったためしがないのだ。


 同学年の女子と会う日は、なるべく背伸びできるような大人っぽい服を選んでいる。例えば彼女である小坂こさかめぐみ。彼女には可愛いよりもかっこよさ重視の、知的でスマートな服を選ぶようにしている。きっと朝霧が何を着ていっても同じように喜ぶだろうが、彼女の可愛さを引き立ててやるのも『完璧な彼氏』を演じる上での務めだ。

 逆に歳上の女性や、学校の男子と会う日は、オーバーサイズの緩やかなファッション――こちらがメイン――を選ぶ。知的なだけでなく、無邪気さや子供らしさを兼ね備えた甘めの服装は相手の警戒心を解きやすい。


 今日は白のTシャツに七分丈のジャケットを重ねた、清潔感重視のカジュアルコーデ。上のシルエットが緩やかなので、下はスキニーパンツを合わせている。

 着替え終えた朝霧は、腕時計の時刻を確認した。約束の時間にはまだまだ猶予がある。コーヒーでも飲んで一息つこうか、家を出て軽食を食べに行こうか――考えながらリビングに向かった。


 飾り気のない真っ白な壁に、光沢を放つ滑らかなフローリング。義務程度に敷かれたシックなカーペットと二人用のソファーは新品同様で、埃ひとつ被っていない。

 置かれているのは必要最低限の家具だけの、まるで越してきたばかりの涼し気な空気を漂わせるリビングだが、テレビの横にはゲーム機の収納ラックがこれでもかというほど並んでいる。それもきちんと整理整頓されたもので、やはりこの家の生活感を表すには弱い代物であったが、娯楽に手を抜かない彼の異常さを表すには十分すぎるものだった。


 親との折り合いが悪く、家に帰っていない放浪少年。朝霧のことを、一部の生徒や教師はそう思い込んでいる。だが実際の彼は、傍から見れば高級マンションに見えそうな、エレベーター付きのアパートに住んでいた。

『バイト』先の都合でホテルを転々とし、周囲からの同情を保つためにクラスメートの家に泊まることもあって、自宅とは名ばかりのものになっているが、しかし確かな一人だけの空間。恋人はおろか、誰もその住所を知らない、朝霧修の帰る場所である。


 どうせ出先で食べ歩くだろうから、コーヒーを淹れるとしよう。キッチンの棚から買い置きの豆を取り出して、全自動コーヒーメーカーのミルにブレンドしながら流し込む。

 朝霧は自前でコーヒーメーカーを買うほどコーヒーが好きだった。ホテルでは缶コーヒーやインスタントを嗜んでいるが、香りを楽しむには挽きたてに限る。おいしいコーヒーを求めて喫茶店や専門店で飲むこともあった。だが自宅ではストレスフリーで、且つ手っ取り早く愛飲したい。故のコーヒーメーカーである。


 給水タンクに水を入れてスイッチを押すと、ポケットのなかでタイミング悪くスマホがメロディーを鳴らした。鋭い刃でガリガリと豆を挽くミルの音が大きいため、朝霧は寝室にUターンして電話に出る。


『修! 助けて!』


 口を開く前に耳にしたのは小坂めぐみの切羽詰まった声だった。


    * * *


 神永響弥きょうやは養子である。生年月日は、二〇〇二年十二月二十五日。しかしこの日付も、ネコメ曰く正確ではなかった。

 響弥は、赤ん坊の頃に神永分寺の前に置き去りにされていた捨て子だった。そして、寺の住職に拾われたその日は、クリスマス――現在の響弥の誕生日となっている。


 ネコメ刑事が驚いたのは、住職の人柄についてだった。ネコメが知る神永分寺の住職――つまり響弥の父親は、赤ん坊を拾って自分の養子にするような人ではない。他人だからこそ育てようと決めたのだろうかと、電話越しのネコメはぼやいていた。


 母親がいないことは知っていたけれど、まさかそんな事実があったなんて。一日経った今でも、芽亜凛の脳内にはそのことばかりが浮上し続けていた。


「沈黙されても困るんだよね。いくら僕でもテレパシーの心得はないよ」


 まだ鍵も開いていなかった早朝の保健室で、朝霧は芽亜凛の顔色を窺った。二人を隔てるテーブルの上には、職員室から拝借した鍵と、先ほど朝霧が勝手に封を切ったナッツの袋が置かれている。


「朝ご飯食べてないならきみもどうぞ」

「食べてないんですか」

「食べたよ。でもナッツは美容と健康にいいから」

「女子高生ですか」

「男子だから朝食後に食べてるんだろ?」

「……でもこれ猪俣いのまた先生のですよね」

「置いていくのが悪い」


 しゃあしゃあと自分の無実を主張して、朝霧はナッツを噛み砕く。すっかり芽亜凛の前だと遠慮しなくなったのは、出会って早々、猪俣先生に猫被りをバラされたからか。はたまた芽亜凛の抱いている嫌悪感を感じ取っているからか。自由にされるのは構わないが、朝霧のこの姿はほかの女子に見せたくなる。一瞬で幻滅されるだろうに。


「で、さっきから上の空だけど、聞きたいことは僕の健康状態? なーんか失恋したみたいな顔してるね」


 そんなわけないじゃないですか、と突っ込むのはやめた。心配なんて露ほどもしていないだろうし、ただ芽亜凛の反応を引き出したいだけである。今はこちらもスイッチを切り替えよう。


りんを……デートに誘ったりしてませんよね?」


 突拍子もない話に朝霧は片眉をくにゃりと曲げた。


百井ももいさんを? うん、してないよ」

「ならいいですけど」


 朝霧は三時のおやつ感覚でナッツを摘まんでいく。彼ならいろいろと勘繰ってきそうだなと思ったが、意外にもその気配はなかった。まあ訊かれたところで答える気はない。


「百井さんじゃないけど、日曜日に小坂さんと遊園地へ行くことになったよ。チケットが手に入ったから、二人で行ってくる」

「そうですか。楽しんで」


 そのチケットこそ凛用にと、ずっと前から用意していたものじゃないのか。しかし小坂との仲が戻り、凛を誘っている場合じゃないのが現状である。常識的な対応と言えるだろう。

 が、無駄にするくらいならいっそ彼女とのデートに有効利用しよう――という黒い魂胆が透けて見えるのは、相手がこの朝霧修だからだろうか。


「聞きたいことってそれだけ?」


 登校してくる朝霧を生徒玄関で待ち伏せして、保健室に呼び出したのは芽亜凛のほうだ。尋ねたかったのは遊園地デートのことだけで、チケットの処理まで聞かされては、正直もう用はなかった。直接会って話をしたのは、彼と連絡先を交換していないからであって、話の内容も重要ではない。けれど、


「どうして小坂さんを引き入れたんですか?」


 ――って、本当は聞くまでもないことだが。

 この際だから指摘してしまおうか。彼の黒い中身を。


「引き入れた?」


 朝霧はふふっと不敵に笑った。


「ええ。最初の保健室で、私にクラスに来るよう指示した時から気になってました。あなたなら、しようと思えば人目を避けられたはずです。でもわざわざ私をA組まで呼び、そこから二人でC組に向かったのは……小坂さんの気を引くためですよね。あなたが見知らぬ女子と歩いていれば、小坂さんは必ず探りを入れるはずだから」


 なんで小坂さんがここにいるの? と、あのとき放った朝霧の冷たい言葉と態度は違和感だらけだった。あれは一度突き放すことで、彼の役に立ちたい、と小坂に思い起こさせるためのフェイントのように思う。後にピンチを装い、協力するよう焚き付けたのも作戦だろう。


「復縁を要求されたのは計算外だよ」


 仕組んでいたことは認めるのか。朝霧は眠るように瞳を閉じて、背もたれに身を預けた。


松葉まつばさんを匿うのに都合がいいと思ったんだ。結果きみにとってもそうなった。めぐみを利用しているのはお互い様だろ?」

「利用ではなく協力です」


 芽亜凛は友達を蔑まされた気持ちになって、思わず両目をしかめる。小坂めぐみは朝霧の役に立ちたくて、ただ一途に彼を思っているのに。


「ねじ曲がったやり方はやめてください」

「そうかな。きみは僕と同じ考えをすでに持っているんじゃないの」

「同じ考え?」


 なんですかそれ、と芽亜凛は吐き捨てるように言った。朝霧は身体を起こし、ナッツをひとつ摘んで、人差し指と親指の間でぐりぐりと転がす。


「利用できるものは利用する。たとえそれが生きた人間だろうと。僕だって駒のひとつに過ぎないだろう?」


 そう言ってナッツを一口すると、奥歯でガリゴリと噛み砕いた。眉間の辺りに熱が集う。――そんな薄情者に思われていたのか、私は。

 けれども芽亜凛は完全には否定できず、朝霧の言動を静かに見届けた。


「いい人ぶるのはやめようよ。きみは普通じゃないんだから」


 優しさも猫も被さない言葉が胸に深々と刺さる。顔が熱くなったのは朝霧の言うことがすべて事実だったからだ。芽亜凛は一拍置いて吐息をこぼした。


「駒だなんて思ってません。……いえ、思っていた時期もあります。他人の死に慣れて、心が動かなくなったこともあります。あなたの言うとおり、私は普通じゃない」


 自分は特別だ。特別な自分とそうじゃない周りとではわかり合えない――そう思い、心が荒れ果てたことは何度もあった。徐々に感覚が麻痺して、思い浮かぶすべての思考が凍てていくのが手に取るようにわかるのだ。

 永遠に在り続ける華などない。あるとすればそれは、造りものの華。


「けど、だからこそ、私は人間を捨てるべきじゃない」


 自分を偽ることになっても、手放してはならないものがある。きっとそれは理性だったり、道徳だったり、感情だったりするのだろう。開き直ったそのときは、正真正銘、朝霧と同じ種類になってしまう。

 ――それなら私は紛いものでいい。偽物の下に本物を照らしていたい。


「素敵な考えだね」と、朝霧は思ってもないような台詞をしれっと吐いた。そして、心底称賛しているといった笑みを順序に基づいて作る。


「きみの言う呪い人はまだ発動していない。このまま行けば呪いに便乗せず平和な日常が送れるね。めぐみは松葉さんを、僕は望月もちづきくんをガードするとして」

「……そうですね」


 無意味に芽亜凛の思想を責めるのはやめたようだ。そんなことをしても朝霧にメリットはないし、啓発したい相手は違っている。だから芽亜凛も、朝霧がわたると接触しているのをさらりと理由付きで明かしたことは流してやった。


「あ、さっきの質問は僕を心配してくれたの?」


 朝霧はあたかも今思い出したみたいな様子で両手をぱちんと合わせた。はい? と芽亜凛は瞳で疑問符を訴えかける。朝霧はあとに続く言葉を区切り区切りに強調した。


「百井さんのこと、デートに誘ってないかって。あれ百井さんが呪い人だから警戒してくれたのかなって」

「凛じゃありませんって前にも言いましたよね」


 まだ言っているのかと呆れて言い返すと、朝霧は目元の力をスッと抜いて前傾姿勢になり、唇の前で指を組んだ。


「そう。なら百井さんのそばにはきみがいてやりなよ」


 心臓にあてがわれた一瞬の熱に芽亜凛は開眼した。口元を隠す朝霧の目は笑っている。


「一人で寂しそうだったからさ。百井さんが呪い人じゃないなら構わないだろ?」

「……ええ。そうですね」


 芽亜凛は視線が優柔不断にならぬよう一点に集中させて必死に言葉を返した。

 意地悪だ。凛のことを確信しているくせに、朝霧は鎌をかけている。

 保健室で響弥に宣戦布告した時や、告白を受け入れた時とはわけが違う。対象に近付きすぎればはじめの頃のように、茉結華まゆかは問答無用で芽亜凛を狙ってくるだろう。


 千里ちさとの匿いが成功してこの作戦の先を見据えたとき、一番に思いついたのが、凛が一人になる状況だった。一番の親友を生かしたまま奪うことになる。それは結局、茉結華とやっていることが同じではないのか?

 いい人ぶるのはやめろ。今になってその真髄が理解できる。中途半端に接するくらいなら、凛のことは完全に見捨てろ。そのほうが安全であると、目の前の優等生は石の心で芽亜凛を導いているのだ。


 呪い人と巡る者。ふたつを宿すのは今よりもつらいことだと思っていた。片割れの自分はまだ楽なほうだと。でも今なら否定できる。

 ――私が呪い人だったらよかったのに。全部私が抱え込めたらいいのに。

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