一位対二位

 会議室の用事を済ませた朝霧は、まだ帰還者の少ない自分のクラスへと戻る。各A組の教室がどの委員会にも使われないのは特進クラスゆえの待遇だろう。他クラスみたいに廊下で待つ必要もなく、活動が終わり次第すぐに入れるのは楽なものだ。

 席に着き、生徒会ノートをまとめようと机に手を入れると、かさりと指先に何かが触れた。ほかの男子とは違って、朝霧に不要なプリントを溜める習慣はない。


 滑らせて出てきたのは、十字に四つ折りされた小さな紙だった。ノートの切れ端みたいで、ご丁寧に片手で収まるサイズになっている。

 机の下でさっと開いて閉じると、「朝霧くん、今日の委員会はどうでしたか?」と担任の声が斜め上から落ちてきた。


「問題はありませんでしたか?」


 委員会直後にかけられる圧力のような言葉にも、朝霧は平常心のまま、鞄から抜いたスマホをポケットに入れて立ち上がる。


籠尾かごお先生、ネクタイが」


 朝霧は担任の籠尾に歩み寄り、形の崩れたネクタイを締め直した。特進クラスの生徒だろうと、みな平等に厳しく接する生真面目な籠尾先生は「あ、ああ……」とうろたえて視線を下げる。


「問題ありません。クラスのことは僕に任せてください」


 そう言ってネクタイに指を伝わせてやると、籠尾はばつが悪そうに唇と顎を引いた。以前は眼鏡をかけていたその瞳は熱を帯びている。眼鏡を外した顔も素敵ですね。籠尾は朝霧のその一言で、翌日からコンタクトに変えてきた男だ。

 教師の好感度は上々。さて、紙切れの送り主でも見に行くとするか。


    * * *


 校舎の角を曲がる手前、朝霧はスマホ画面をタップした。

 雷鳴轟く空の下、校舎裏で朝霧を待っていたその人物は、虚ろな瞳で左頬を撫でている。そしてこちらに気づくや開口一番、


「遅い」


 姿勢を正した女子生徒は、朝霧に冷ややかな視線を向けた。文句を言われる筋合いはないと、朝霧は肩をすくめる。


「何か用?」

「その様子じゃデートでも遅刻してるんだね」

「このいたずらはきみがしたのかな、晩夏ばんかすみれさん」


 朝霧は指で摘んだ紙切れをひらひらと見せる。紙にはミミズのような字で、『ヒミツを知った。校舎裏に来い』と書いてあった。一見、わざと字を誤魔化しているようにも取れるが、朝霧はこの筆跡に見覚えがあった。

 晩夏すみれ。一年の頃A組で一緒にクラス委員を担った女子生徒。現在は二年B組に移った、学年成績二位の優等生で、朝霧の前では決して笑わない女の子。

 予想は的中したようだ。「ごめんなさいは?」と晩夏は左頬を撫でながら言う。


「遅刻してごめんなさいって、早く」

「用がないなら帰るよ」


 相手のペースに合わせる気はない。朝霧が背を向けると、「先日、女の人といるところを見た」と晩夏は話し出した。はじめから素直に言えばいいものを。朝霧が向き直ると、晩夏はまっすぐこちらまで歩いてくる。


「二人きりでホテルに入っていくところを見た」

「人違いじゃない?」

「人違いじゃない」


 朝霧は深くため息をついた。


「晩夏さん、口で言うのは簡単だよ。だけどさ、」

「証拠ならある。これ」


 晩夏は取り出したスマホ画面を朝霧に見せた。そこにはビジネスホテルに入っていく朝霧と、その『バイト』相手の女性が写っていた。


「この日だけじゃない。ほかにもある」


 晩夏がスライドして見せる写真には、すべて同じ人が映っている。最近はその人――リピーターの一人――に絞っていたから当然ではあるが、問題はそれじゃない。

 朝霧は『バイト』をするとき、学生が寄り付かない場所――少なくとも藤北に通う生徒の行動圏から外れたところを選んでいる。写真の相手も例外ではない。


「よく撮れてるでしょう。人違いなんて言えないくらい」

「きみは僕のストーカー?」

「ここに行ったことは認めるんだね」

「僕をつけたことは認めるんだな?」


 晩夏の言うとおり、写真の顔は明瞭だ。僕じゃないよと言うには無理がある。しかし、一緒にいるのは同じ一人のみ。これ以前に撮られていたら、その時点で晩夏すみれは接触してきたはずだ。


「その人はただの友達。都会に慣れてないから案内してただけだよ」

「嘘ばっかり。おばさん相手に寝てるんでしょ? 汚いよ」


 朝霧は再びため息をついた。二十代後半の女性をおばさん呼ばわりか。晩夏の言うことは口先ばかりで、論破するには証拠が足りない。決定的なものを用意してから来てくれと朝霧は呆れる。


「嘘じゃないよ……信じて?」

「…………」


 母性をくすぐる用の朝霧の目に、晩夏は一瞬揺らいだ顔を見せた。だがすぐに「騙されないから」と静かに突っぱねる。それならもっと攻撃的に責めてくれれば、かえって朝霧は助かるのに、ただお喋りしに来ただけなのか。一瞬でも女の顔を見せる必要はなかっただろうに。


「そう。別にきみにどう思われようと僕は平気だけど。きみの盗撮はどうする?」


 ぬるい手しか見せないようなので、次はこちらのターン。晩夏は「……は?」と瞼を持ち上げた。


「盗撮だよ。あと僕を尾行した件も、執行部に提出していいよね? フェアじゃないし」


 朝霧は修学旅行の日程を確認するような口ぶりで晩夏の反応を仰ぐ。


「学年二位の晩夏すみれさんは、自分たちが撮られる側だとばかりに思ってる? 学生による盗撮も今じゃ横行されし問題だよ」


 晩夏は乏しい表情筋を強張らせる。怒りを宿らせたみたいだ。


「それよりも早く私がこの写真をばら撒く。第一、あなたには提示できる証拠がない」


 そう来るだろうと思っていた。朝霧はポケットからスマホを取り出し、つけっぱなしの画面を見せる。開いているのは、ここに来る前にタップした録音アプリだった。

 晩夏は薄く唇を開き、瞠目する。


「盗聴なんて最低……」

「ふふっ、どうしよう。どうする? 仲良く一緒に消そうか。ね?」


 相手に選択する余地を与えつつ、朝霧は小悪魔めいた微笑を浮かべた。写真を出されたところで朝霧は何とでも言い逃れできる。だが晩夏はどうだろう。数日間に渡り後をつけて盗撮した、その自白が朝霧のスマホには記録されている。

 晩夏はゴクリと喉元を上下させて「……わかった」と渋々呟くと、朝霧に見えるように写真を選択して削除する。


「これでいい?」

「いい子だね」


 朝霧は気持ちとは裏腹の言葉を出す。媚びた目が臭かった。お利口すぎて頭のひとつでも撫でてやりたいくらいだ。

 ――晩夏すみれはこんな甘い女ではないはず。

 朝霧はボイスレコーダーを停止して、同じように削除する。きつかった晩夏の表情は幾分も和らぎ、眼鏡の奥の瞳だけが笑ったように見えた。面倒事が増えたが、先手で対処できたのは幸いか。


 今度こそ帰ろうとしたそのとき、晩夏は朝霧の頬に触れて背伸びをした。朝霧は顔を近づける彼女の口元を手で塞ぐ。


「何の真似?」


 晩夏は凝視したまま答えない。


「残念だけど、彼女でもないきみとキスすることはできないよ」

「嘘ばっかり」


 晩夏は塞がれた状態で、もごもごと口を開閉する。唇が手のひらに擦れてリップクリームがべたついた。


「ここで彼女とキスしたんでしょう?」


 何の話だ、と朝霧は眉間にしわを寄せた。が、どうせ小坂が言いふらしているのだろう、とすぐに悟る。

 あのビッグマウスには付き合い立ての頃も何度か面倒をこうむられた。ちゃんと躾けてやったのに、少し放置しただけでこれか。復縁なんてするものじゃないな、と朝霧は肝に銘じる。


「ねえ……私のこと、抱いてみる?」

「……迷惑だよ」


 無表情な晩夏の目を一瞥して、朝霧は拗ねた子供のように顔を背けた。手の内側で晩夏の口角が持ち上がった気がしたが、離すことはできない。仮にこの場を誰かに見られても自分だけは困らぬよう、朝霧は被害者を演じ続けなければならないのだ。

 晩夏は朝霧の手首を掴んで、さらに身体を押し付けた。ふくよかな胸が潰れんばかりに密着する。


「気持ちよくしてあげるよ」


 そう言ってついばむように唇を動かし、厚い舌で渦を描いた。上目遣いでちらりと朝霧を窺うが、無感動に顔を逸らし続ける。晩夏はぴくりともしない朝霧の指の間をなぞり、これでもかと言うほど舌をねじ込んだ。

 まだ望月くんにされたほうがマシだな、と朝霧は禍々しい空を見上げた。


 ――一年前は口もまともに利かなかったのに。

 クラスを移動してまで朝霧と離れたがった彼女が、今頃になって接触してきた理由はなんだ。盗撮の日付から考えるに、尾行をはじめたのは小坂めぐみとよりを戻してから。

 ――まさか、まだ僕に気があるのか? しつこいなぁ。

 どんなに迫られようと朝霧には、いかなる感情も向ける気はなかった。こんなことで揺れ動く心など持ち合わせていないのだ。


 ぽつりぽつりと雨が降ってくる。空を見ていた朝霧は頬に落ちたしずくにいち早く気づくと、眠りから覚めた肉食動物の速さで晩夏の眼鏡を奪い取った。


「っ……!」


 晩夏が「ちょっと!」と声を上げる前に、朝霧は「もう投げた」と冷酷な一言を発する。「……え……?」と晩夏は力なく立ちすくみ、ぶるりと一度大きく震えた。焦りと怯えの満ちたその表情は、ようやく見せた本当の顔だった。


 彼女は一年間共に委員長を務めた仲だけでなく、内に秘めた朝霧の残忍性をほかの生徒よりも知っている。盗聴をしかけてくることも、互いにデータを消去することも計算の内だろう。

 よって、さっき消した写真もおそらくバックアップ済み。だが、白々しい演技は眼鏡を外されるまでのようだった。


 晩夏すみれの裸眼視力は0.01以下。目印になる気は微塵もないので、朝霧は解放された身を翻し、彼女の視界からさよならする。雷が鳴り、雨も激しくなってきた。


 朝霧はもう片方のポケットから新たにスマホを取り出し、録音画面を停止させる。先ほどのは普段使い用で、こっちのはバイト連絡専用端末。いつもは鞄に潜めているが、念のためにと持ち出してよかった。


「あーあ、手が汚れた。じゃあね、すみれちゃん」


 これでおあいこだね。

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