また会いましょう

 頭上に影が落ちるまで、渉は気がつかなかった。

 見上げた先からナイフの柄が振り下ろされる。対応の余地なく頭を殴られた渉は、茉結華の上から仰向けに転がる。それを、まるで引力でも作用しているみたいに追うのは、ルイスだった。

 ルイスは茉結華の身体を跨いで通り、上体を起こしかけた渉の身体を踏みつける。胸や腹を何度も、何度も。そして動かなくなった渉に馬乗りになると、サバイバルナイフを両手で構えた。

 殺す気なんだと脳が認識する前に、カッと見開いた渉が腹筋で跳ね起きる。間一髪で左肩をかすめた刃には目もくれず、渉はルイスの左腕に噛み付いた。


「うわあああああっ!」


 相打ちみたいな状態でルイスの悲鳴が轟く。そのさなかにナイフを片手で握り直したのを渉は見逃さず、早急に腕から離れて。声にならない叫び声を上げて後ずさったルイスの手に触れたのは、床に転がっていたスタンガンだった。


 その光景を、茉結華はぼんやりと見つめていた。電撃という不意打ちを食らった渉は背中から崩れる。「動くな動くな動くなっ! この害虫がぁ!」ルイスは立て続けにスタンガンを浴びせた。


(……渉、くん……)


 渉の顔は反対側を向いていて見えない。身体のあらゆる場所を強制的に痙攣させられ、もはや意識があるのかさえ定かではない。

 息を切らしつつ、ルイスは渉の身体をうつ伏せにした。ごろんと渉の顔がこちらを向く。瞳は閉ざされ、口から血と涎が垂れていた。

 足元へと向かったルイスの手には、しっかりとサバイバルナイフが握られている。しゃがんで、渉の両脚を固定し――――彼が何をするつもりなのか本能的に察した茉結華は、意識を覚醒させた。


「駄目っ! ルイスさん――!」


 結束バンドによって余計に揃えられた渉の足首を、ルイスはサバイバルナイフで斬った。渉は息継ぎのように喘いで背中を仰け反らし、その場で嘔吐した。


「ルイスさんっ!」


 茉結華は自身を奮い立たせて起き上がると、ルイスの手からサバイバルナイフを引ったくった。

 弾かれたようにルイスは茉結華を見る。


「茉結華! 痛かったね、痛かったね……もう大丈夫、僕がついてるよ」


 強い力で茉結華を抱き締めたルイスの身体は、乾いた汗で冷たかった。ブルブルと伝わる振動はルイスのものではなく、下敷きの渉がひきつけを起こしているからである。

 茉結華は渉の両足を見た。ぱっくりと割れた足首からは、蛇口をひねったような血が溢れ出ている。ルイスは、渉の足を切断しようとしたのだ。だが骨を断つことはできず、両足は中途半端に繋がったまま。血と繊維がこびりついたサバイバルナイフは刃こぼれしていた。


「……止血しないと」

「ああ、すぐにタオルを持ってくるよ」


 茉結華の呟きに脊髄反射で答えて、ルイスは足早に防音室を出ていった。倒れているもう一人の少女には気づいていないようだった。――ルイスがこんなにも早く帰ってくるなんて。急ぎ家に帰らねばならぬ理由ができたのだろうか。


 茉結華は部屋を見渡して、何か使えるものはないかと探した。窓のないこの部屋にはカーテンだってない。仕様がない、とシャツを破きかけて手を止めた。この身体に包帯を巻いてくれた、渉のあの優しかった手付きを思い出した。

 すぐさま包帯を抜き取り、汚れの有無を確認して渉の足首に目をやる。白かった靴下と畳は真っ赤に染まっていた。


 不要になった結束バンドを切り捨てて、代わりに包帯でぐるぐると巻きつける。そのさなか、様々な映像が走馬灯のように脳裏を駆けた。

 頬杖を付いてシャーペンを回す渉。ゲームセンターで銃型コントローラーを持つ渉。スコアを出してハイタッチをする渉。カラオケ店で好物の唐揚げを頬張る渉。放課後バスケ部の助っ人をする渉。

 目が合うと笑い、手を振ると照れくさそうに返してくれた。茉結華じゃない、自分へと。


 もう一緒に、歩くことはできない。外出することも叶わない。

 まだ行ったことのない海で、一緒に遊んで泳いで、そんな未来すら叶わない。

 渉は一生、両足を引きずって、この狭い箱庭のなかで生きていく。運動が好きな渉は、この日のことを思い出して涙する。茉結華のことを、死ぬまで憎む。もしかしたら、生きる希望さえも失ってしまうかもしれない。

 もう二度と、渉の笑顔を見ることはできない。


「……嫌だ……」


 赤く染まった包帯を見つめて、茉結華は呟いた。


「……そんなの、やだぁ……」


 ぽろぽろと涙がこぼれ落ち、血と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしてわんわん泣いた。

 渉とずっとこのまま、一緒にいたかった。そう願い、未来を求めてしまった自分への罰か。変わらないものなんてないって、自分が一番よく知っていたことじゃないか。なのに――

 泣いているのがかもわからない。


「うる、せぇな……」


 渉の掠れた声がすんなりと耳に入ってきた。後ろを振り返れば、肩を使って起きようとしている渉の姿があった。


「入院して、リハビリすれば……少しは回復する。泣くほど嫌なら、病院……一緒に、行くぞ」


 茉結華は一瞬、渉が何を言ってるのかわからなかった。泣いている茉結華の思考を完璧に汲み取っていたからである。

 渉は肩を使って這いずる。


「ほら……お前が、凛を抱えて運べ。んで、車に乗せたら……俺のことも、ついでに…………」


 はあはあと口呼吸を繰り返し、渉は再び動かなくなる。両足の腱を失った渉は、首筋の肉を削がれた茉結華の何倍も酷い出血の仕方をしていた。

 茉結華は「無理だよ……」と否定した。病院には行けない。そして、止血して傷口を塞ぐビジョンはあっても、やはり歩けるようにはならない。それ以前に、今すぐ正しい処置をしなければ、命さえもが危ないのだ。

 だが、負傷している茉結華が渉の手当を行なうなど、ルイスが許さないだろう。


「渉くん、起きて……? 死んじゃ駄目だよ」


 そう言うと、渉は口先をぱくぱくと動かした。――聞こえないよ。茉結華がそばに寄ると、渉は深く息を吸い、


「凛を、頼む」


 茉結華は戦慄した。


(どうして――)


 どうして望月渉という男は、いつも他人のことばかり。

 茉結華は、依然うつ伏せで倒れている凛を見る。あんなことするつもりじゃなかった。あんな酷いこと――

 そのとき、スマホのバイブレーションが鳴った。茉結華のではない、凛のスマホだ。茉結華は凛の傍らに行き、ポケットからスマホを慎重に抜き取る。昨晩の渉もこんなふうに緊張したのだろうか、そんな思いに耽る余裕はなかった。

 表示されている名前を見て茉結華は着信を切る。今はそれどころじゃ――、するとすぐさま掛け直された。


「…………」


 息を殺して電話に出る。


『神永響弥。私、今あなたの家の前にいるの』


 どこか聞き覚えのあるフレーズで、電話先――たちばな芽亜凛めありは言った。

 一言目から、茉結華の心臓が強く鼓動を打つ。どうして、なぜ――そんな疑問よりもまず、彼女にはすべてお見通しであることを冷静に悟った。


『鍵が開いているのだけれど、入ってもいいかしら』

「……いいよ」


 芽亜凛は『そう』とだけ言うと電話を切った。心臓は爆音で動いているが、不思議と心が落ち着く声だった。

 想像もしていなかった相手の襲来に茉結華はフルスロットルで脳みそを働かす。彼女がここへ来た理由は――考えるとすれば凛繋がりか。転校生とは言え、仲がよかったことを思い出した。

 茉結華は渉を抱き起こすと自分のほうへと体重を掛けさせ、首にサバイバルナイフを向けた。渉はまだ意識はあるものの、全身の力は抜けている。


「もう少しだけ、頑張って……」


 茉結華は渉を人質とし、来たるそのときを待った。

 一分も経たずに、防音室の扉が――音もなく開く。

 腰まで届く絹のような黒髪を揺らしながら、こちらに歩み寄る橘芽亜凛。藤ヶ咲北高校の制服を身にまとい、右手には、異様に発光して見えるを持っていた。茉結華は下唇を舐めた。


「いらっしゃい芽亜凛ちゃん。見てのとおり、今お取り込み中なんだよね。何の用かな?」


 腕のなかにいる渉は薄目を開けて、細い息を繰り返している。芽亜凛は部屋の半ばまで来ると、倒れている凛のほうへゆっくりと顔を向けた。


「……凛を殺したの?」

「さあ、どう思う?」


 芽亜凛はじっと見据えた後、


「……まだ息はしてるように見えます」

「そう思いたいなら、どうぞご自由に」


 曖昧な返しをした茉結華を、温度のない瞳が見つめた。今度はこっちが質問していいかな。それは何のための包丁なの? そう問いたい衝動に駆られるが、わざわざ意識を向けさせるのは危険だと判断してやめる。さすがに、人質がいる前で刃物を振り回すとは思えないが――


「凛は警察に言いましたよ。だけど、不在ですか」

「そうだよ。警察は動かない」

「あなたが逮捕されず残念です」


 やはり二人は繋がっていたようだ。凛は芽亜凛に相談し連絡を取り合っていたのか。

 凛は確実に通報したはずだ。しかし、警察は来ない。どうやら、茉結華は賭けに勝ったらしい。――もし橘芽亜凛が一一〇番していたなら負けていたが、そんな様子でもなさそうだ。

 彼女はまるで、傍観者である。

 防音室にまた新たな足音が増えた。何も知らずに、タオルと救急箱を持って部屋にやってきたルイスは、刃物を手にした少女を見て「ひっ」と短い悲鳴を漏らした。


「ルイスさん、下がって。私は平気だよ」


 ルイスの喉仏が上下する。芽亜凛はルイスを一瞥して目を細めた。


「そう、協力者ですか。あなただって人間でしたね、ひとりじゃ何もできない」

「ふぅん、芽亜凛ちゃんはひとりでもできるって言うの?」

「……できるわ」


 芽亜凛の、包丁を握る手が力んだのを見て、茉結華は身を縮めた。けれど、刃が茉結華を指すことはなかった。

 芽亜凛は茉結華に背を向けて、自身の首元に包丁を当てた。――何を……? 息を呑んだ茉結華に代わって、渉が低く唸る。


「……や、めろ」

「っ……」


 芽亜凛はぴくりと反応して、顔だけ振り返った。肩で息をする渉を見下ろし、悲しげに笑う。


「渉くん――いえ、……。いつまでも、優しくしてくれて、ありがとう。あなたはよく頑張りました。生きててくれたことを、誇りに思うわ」


 次こそ、必ず……。芽亜凛はそう呟いて、深く息を吐いた。――そうだ。彼女も凛の真似をして『渉くん』と呼んでいた。

 芽亜凛は大きく息を吸い込み、


「どうか、忘れないでください。このことを――私がいたことを――忘れたら、毎晩あなたの夢に出てやります」

「たち、ばな……」


 吐息に近い掠れ声で渉が言うと、芽亜凛は感情をこらえるように、きゅっと唇を引いた。


「ありがとう。次の世界で、また会いましょう」


 彼女が包丁を滑らせると、白い首から鮮血がほとばしった。


    * * *


「これで四回目ですよ」


 資料の整理を行なっていた長海は、相棒の発言に肩をすくませた。


「何がだ?」

「ため息ですよ、たーめーいーき。デスクに戻ってから四回目です。長海さん、ため息をつくと幸せが逃げるって知らないんですかぁ?」


 そう言ってミルクティーを飲んだネコメは椅子の背もたれを前にして座る。よくもまあそんな迷信を言えたものだと長海は思った。ため息は積極的についたほうがいいと言われているのを知らんのか。


「あ、五回目」

「数えるな」

「長海さんだって俺の話数えてるし、俺は長海さんの幸せが逃げた回数を数えます」


 長海は無意識に五回目のため息をついていた。そして六回目。

 てきぱきとデスク作業を進める長海の隣で、ネコメは椅子を左右に揺らしている。


「そんなに落ち込みますか」

「当たり前だ」


 先ほどサイバーチームから、防犯カメラがハッキングされた痕跡はないとの報告を受けた。管理者権限は各々にあり、外部には移されていないという。長海は『もう一度よく調べてくれ』と懇願したが、何度やっても結果は同じだと返された。

 ――管理者たちの記憶違いか? そんなわけはない。確かに外部からの操作はあったのだ、それなのに……。


『まさか犯人側が、警察の介入があると知って手を引いた――?』

 灰本は顔をしかめてそう言った。長海はそんな馬鹿なと返したかったが、ありえない話ではないと思った。正式な解析結果は今夜の捜査会議に発表されるだろう。早々から期待していた長海が落ち込むのは当然のことだった。


「俺と灰本に比べて、お前は元気だな」

「ふふん。例の女子高生の連絡先入手しちゃいましたからねー」


 ネコメは肩を揺らしてくつくつと笑う。病院の後、長海が学校へ迎えに行ってからネコメはずっとご機嫌だ。空元気じゃなければいいが……と、こっちは昼過ぎまで心配していたというのに、そんなことで浮かれているとは――まあいいか。長海はため息を殺した。


「話は聞けたのか?」

「まだ掛けてませんよ」

「……なんで?」

「えぇー!? 金曜の夕方ですよぉ!? 女子高生だって妖怪のウォッチングをしてるかもじゃないですかぁー!」

「さっさと掛けろ!」


 目の前で拳を震わせてやると、ネコメは「はーい」と言って席を立った。

 受話器を手に取り――連絡先と言っているのだからおそらく携帯だろう――何も見ずに番号を打ち込む。よく記憶したものだと感心して、長海はコーヒーをすすった。


 ネコメの耳に聞こえてきたのは、お馴染みの自動音声だった。

 おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、 電源が入っていないため掛かりません。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る