じゃあもう殺していい?
手当を終えた茉結華は渉にトイレを済まさせて、十分な水分補給を勧めた後、「お客さんが来るから、ここで待ってて」そう言って防音室の押入れを指差した。
空っぽの押入れの上段に渉を乗せて、手足を結束バンドで縛る。それから自身の左手の、まだ渉と繋がったままだった手錠を外して、押入れ上部のパイプに掛けた。本来ならハンガーを吊るして使用する金属製のパイプである。
「誰が来るんだ?」
淡々と事を成していく茉結華を見て、質問せずにはいられなかった。茉結華はその質問には答えずに、手にしたガムテープを適当な長さで切って渉の口元に貼り付けた。
「形だけね」
しわくちゃで隙間だらけのガムテープは、表面上は塞いで見えるかもしれない。しかし口元を動かせばすぐに取れてしまう。表面上なのは茉結華も重々承知らしいが、これでいいみたいだ。
茉結華はゆるりと笑い、
「少しの間大人しくしててね。絶対に出てきちゃダメだよ」
襖に手をかけて――閉め切る手前、茉結華は思い出したように身を乗り出し、渉の口元の――ガムテープに唇を重ねた。問うに問えない状況で襖は閉められ、渉の視界から白い光の一切が見えなくなった。
誰が来るんだ? と言ったけれど、答えなくても知っている。
警察だ。
次に光が差したとき――自分は解放される。その瞬間を想像し、何度も頭のなかでシミュレーションした。はじめに聞かれるのは名前だろう。その後は犯人グループの居場所を問われ、数週間は病院で過ごすことになる。家族と凛と、響弥――みんなが見舞いに来てくれる。学校生活に戻るにはそれなりの時間が掛かるかもしれない。
凛は通報してくれたんだ。それで茉結華は焦って――――逃げ出したのか……? 警察から、連絡があったから?
――っ。
いや、待て、そもそも犯罪者の家に連絡などしないだろう。突然押しかけて、家宅捜索すればいい。それならなぜ、茉結華はこんな行動を起こした? お客さんってのは、警察のことで……でも茉結華は知らなくて……つまりそれは……、来るのは警察ではない?
耳元で誰かの笑い声がする。
いいや、考えるな……襖が開くまでの辛抱だ。そのときすべてがわかる。
凛ならきっと、伝えてくれたはずだから。ここに、
『わたるです。今まゆかのケータイからメールしてる。まゆかの家に監禁されてる。警察に連絡してたすけてほしい。このメッセージは削除する。返信するな。俺はまだ生きている』
まゆか――茉結華。
茉結華とは――誰だ?
* * *
「ねーえー。そろそろ手、離してくれない?」
防音室に入って開口一番。茉結華が言うと、凛は平坦な声で「まだ駄目」と返した。
「凛ちゃんのけぇちぃー! もう手疲れちゃったよ、折るとか物騒なこと言うし。あれって冗談だよねぇ凛ちゃぁん?」
「どのなか?」
「え、無視? 凛ちゃん冷たーい!」
茉結華は普段と倍の声量でからからと騒ぐ。凛は部屋中に目をやっているが注意力は健在のようで、後ろ手を取る力に緩みはない。
――さてさて釣りは成功するのかな。
「んんー! んんんんんー!」
押入れのひとつから上がった、くぐもった声。
その声に凛はハッと反応し、茉結華から手を離すと急いで押入れに駆け寄った。
* * *
ガシャンッ――と激しい音がした。おそらく、外の突っ張り棒か何かを外した音だ。襖が力任せに開かれ、目も眩むほどの強い光に満たされる。ふわりと桃の香りがした。懐かしい匂いだ。
「渉くん? 渉くん……!」
反射で閉じた瞼をこじ開け、渉は目を丸くした。
目の前に、凛がいた。声も、顔も、何もかもがそっくりな幻ではない、透けてなどいない、本物の凛だ。誰よりも大切な幼馴染で、付き合って一日で引き裂かれた愛しい恋人。
――どうして凛が、ここにいる?
外から茉結華の声が聞こえて、咄嗟に叫んでしまったけれど、目の前の信じられない光景に頭が追いつかない。
凛は背伸びをして、渉の口からガムテープを剥がした。
「凛、なんでここに……!」
渉が心中と同じ疑問を発するなか、凛はショルダーバッグを置いて、なかからペットボトルを取り出した。透明なミネラルウォーターを一口口に含むと、片膝を立てて上り、渉に口づけをする。仰天する間もなく、開いた唇から流れ込んできたものを、渉は不器用に飲み込んだ。
唇を離した凛は、ある種の使命感を抱いているような――凛とした顔つきだった。
「迎えに来たんだよ。一緒に帰ろう?」
言葉にしたそのとき、凛の後ろから影が差した。バチバチバチッ! けたたましい音と電流が炸裂して、渉は身を強張らせる。
恐る恐る目を開いたときには、うなだれた凛の首根っこを掴んでいる茉結華が見えた。
「凛っ!」
茉結華の片手には見覚えのある警棒――もとい、以前ルイスから向けられたスタンガン。いまだ防音室に常備してあったそのスタンガンを、凛の首に当てたのだ。
茉結華は押入れから凛を引きずり出し、そのままずりずりと後退する。渉は茉結華を追って、素早く床に足をつけた。勢い余って転びそうになったところを、背後の手錠に引き止められる。
「くそ! おい! 凛に……触るな! これ、外せよ!」
パイプに繋がった手錠と茉結華とを交互に睨んで吠えるが、まるで無視される。
茉結華は凛の右手――利き手――を後ろ手に締め上げ、スタンガンを床に放ると、空いた手で見せつけるかのように、彼女の身体をなぞった。
熱が渉の内側を一瞬にして駆け巡り、瞳は血走る。喉の奥から絞り出された声はとても自分のものとは思えなかった。
茉結華はようやくこちらを一瞥すると、腰のホルスターからサバイバルナイフを抜き取って凛の首筋に当てる。
「やめろ……何する気っ――」
「静かにっ! ……して?」
茉結華は渉の声に被せて怒鳴ると、影の落ちた顔を上げた。
「私よりも凛ちゃんを選んだ、裏切り者の渉くん? ん、違うな。私たちの間に、情も信頼も最初からなかったね――じゃあもう殺していい?」
充血しきった茉結華の虚ろな瞳に渉は息を呑む。
――バレていたのか、いつから? 今朝? それとも、凛が来たときから……?
不毛な疑念が渦を巻く。渉は静かに首を振った。
「駄目だ、やめろ」
「外面じゃ素直に応じて、心のなかでは警察が来るのを今か今かと待ってた渉くん! 本当は私のことなんか、心配してなかったんでしょ……? 自分が助かればそれでいい、そう思ってたんでしょ!?」
「…………」
昨夜確かに、茉結華のスマホからメールを送った。スマホは、膝の上で寝ている彼のポケットが四角く膨らんでいたのですぐにわかった。どうせパスワードが掛かっているだろうし、時間だけでも確認しよう。そう思い電源を入れると、求められたのは指紋認証だった。深手を負い、目の前で眠っている茉結華。手には、主の指紋を求めるスマートフォン――
駄目だとわかっていながらも、渉はロックを解除した。話し声で気づかれてしまうことを恐れて、一一〇番は押せなかった。代わりに、最も信頼できる人物にメールを送った。送ったメッセージは、短い割に拙かったと思う。手で支えられないためスマホは床に置き、人差し指で必死に打ち込んだのだ。おそらく一分はかかっただろう、その間で茉結華が目を覚まさないか気が気でならず、全神経を研ぎ澄ませて指を滑らせた。あの一分間は、この世で一番長いものだ。
「黙るってことはそうなんだ」
茉結華は薄ら笑いを浮かべて言った。そんなことないよ、なんて――今さら言えない。茉結華だって言い訳は聞きたくないだろう。それに、
「お前だってそうだろ」
渉は強く反論した。
「凛が来ることを知ったお前は、俺と凛が協力してると思ったんだ。今朝俺を移したがったのは手当のためじゃない、この状況を作り出すためだ。俺の目の前で凛を甚振ることはあの部屋でだってできたはず」
以前、
「そうしなかったのは――俺と凛、二人が共闘したとき、お前が閉じ込められる可能性があるからだ。……この部屋は保険でしかないんだよ。それともうひとつ、俺の真意を確かめるためだ。俺が移動を拒否したら黒、逆でもグレー判定か」
「……」
「でも残念ながら、お前の予想は大外れだよ。俺は凛が来ることを知らなかったし、協力してお前を倒そうなんて微塵も思ってない。……俺はただ、警察が来るのを待っていた。だからお前の言うことにも素直に応じた。よくよく考えればおかしいことなのにな」
この状況は、いくつかの思い違いから生まれたんだ。ふたりして騙し騙され、気づきもしなかった。
「信じてなんかいなかったんだろ? 最初から俺のこと疑ってたくせに、下手な交流までしてきて……」
「だって仕様がないじゃん!」
茉結華のナイフを持つ手が震える。
「……私だって信じたかった。渉くんのこと……はじめて信じたいって、そう思えたのに!」
監禁する者、される者。
なのにどうしてこんなにも、苦しいのだろう――
「……茉結華。俺は、お前のこと……今でも」
今でも――親友だと思っている。今でも……、今でも――――?
今でもって、いつから――?
遠のく視界のなかで、凛の左手が茉結華の手を無駄なく掴んだ。茉結華は一拍遅れて反応し、サバイバルナイフを大きく振れさせる。
「舐めないでよね、××くん……私は、左手だって強――」
しかし少女は気づく。掴んだその手が予想と違い、びくともしないことに。
茉結華は安堵の笑みを湛えた。
「……今の言葉、そっくりそのまま返すよ。舐めないでよね、凛ちゃん。私は、××と違って強いよ」
ふたりが交わす彼の名は、水に埋もれて聞こえない。
* * *
「っ……こっの!」
小さな手を精一杯に伸ばすべく、凛は背中を仰け反らせる。
右手は後ろでひねり上げられ、首にはサバイバルナイフを当てられているというのに、抵抗しようなどとは凛らしい。呂律に余裕がないのは電流を浴びたせいか。
「そんな体勢じゃ、得意の背負投もできないでしょ」
茉結華は嬉しくなって、もっと違いを見せつけたいと思った。
――凛ちゃんが間違えててくれてよかった。舐めているからこうなるんだよ。
リビングでは素人同然の振り方をした。やっぱり弱いな、得物を持っていても意味がない、そう思わせるためだ。――いや、指を折ると言われたときは本気でびびったけどね。
「凛! そいつは腰を負傷してる!」
その声に、茉結華の手首を掴んでいた凛の左手が反対側に素早く回って――空振る。
あっぶな! 茉結華は顔色を蒼くした。もう少し左寄りにいたら危なかった。
「余計なこと言わないでよ」
茉結華は舌打ちをして、凛に足払いを掛ける。背後からの、しかも足元からの襲撃に、茉結華のことを何も知らない凛が対応できるはずがない。ずずっと足を滑らせた凛は、顔を床に打ち付けて呻き声を漏らした。
うつ伏せの凛を茉結華は上から押さえ込む。先ほどから渉が凛のことを呼んで喚いているが知ったことではない。
どうしてやろうかな。とりあえず、
「肩からでいいよね」
茉結華はナイフを逆手に持つと、切っ先を凛の左肩に突き刺した。切れた感触なんて普段は意識しないのに、ぷつっと柔肌に刺した手応えを感じた。「ううっ」と、凛は短い悲鳴を漏らし、渉は鎖を限界まで張って叫んでいる。むろん、凛が倒れている位置は渉から届かない。
「次は二の腕かな」
その次は右肩、少し下げて肩甲骨。凛がリビングで茉結華を脅したのと同じく、左右どちらも。
紺色の体操服は血の染みを広げて黒く染まる。奇麗な
次はどこがいいだろう。腰なんてのは魅力的ではないか?
「まゆか、さん」
「――!」
息も絶え絶えに凛は唇を動かした。
「そう、呼べば、よかったの、かな」
荒い呼吸を繰り返し、こちらを振り向く凛の横顔が「えへへ」と笑った。
花火はもう、打ち上がらない。
「まちがえ、ちゃったね……ごめんね……」
「……」
違う……。
これは演技だ。相手が望む言葉をかけて説得を試みる警察官と同じ手口――そう頭では認識しても、ナイフを持つ手が動かなくなる。
「私……渉くんを、助けたいの。……あなたのことも、助けたい」
「――――嘘だっ!」
自分の声帯のいったいどこから出たのか、そんな金切り声を上げて、茉結華はナイフを宙で振り回した。顔が真っ赤になるのを自覚する。羞恥心にも似た気持ちがこみ上げる。
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
茉結華は感情を暴発させた。
――助けたい? 嘘をつくな! 今までずっと忘れてたくせに! 何を今さら!
「凛ちゃんの嘘つき!」
――嘘つき! 嘘つき嘘つき嘘つき!
「私は信じない、そんな言葉!」
「私、ほんとは……ずっと前から、わかってたんだよ……。あなたが、あなたのことが……」
「――――」
気づくとナイフを放り投げていた。茉結華の両手は――凛の細い首に絡みついている。
「うっ、ぁ……」
「私のことなんか知らなかった。私のことなんか、覚えてなかった!」
「そんな、こと……ない、……」
パキン。何かが切れた音がした。
――凛ちゃんは嘘つきだよ。渉くんも、
みんなみんな、嘘つきだ――
「どけえええええええ――――っ!」
声のするほうを振り向くと、涙で濡れた渉の顔が見え、正面から強い衝撃が襲った。鼻骨を打たれ、茉結華は後ろ向きに転がる。
「凛! 凛っ!」
千切れた鎖を引きずって、渉は動かなくなった少女に近寄る。背中の数カ所を刺され、今も血を広げている凛の首には、茉結華の指の跡がくっきりと付き、変色を起こしている。
「凛……凛……?」
渉は凛の口元にそっと耳を近付けた。「あはっは」と、凛の代わりに吐息を漏らしたのは茉結華だった。
「……死んでるよ。聞こえなかった? 首の骨が折れた音」
「…………ない」
「うん?」
茉結華は鼻血を拭って見上げる。
「凛は、死んでない。殺したら、意味がなくなる」
「意味?」
「……ああ」
渉は枯れた返事を最後に、大きく肩を落とした。一粒の涙が顎を伝ってぽつりと落ちるが、それ以降は降らない。どうやら涙も枯れてしまったようだ。
横向きから正面に――ゆっくりと姿勢を変えた渉を見て、茉結華は目を見開いた。
ふたりを包む空気に、夜の帳が下りる。
「……何、その反抗的な目」
こちらに向き直った渉の目は、大切な彼女が倒れているにも関わらず、一切の震えを見せていなかった。ゾッとするほどまっすぐで、正しい瞳。
「前に言ってた、人は記憶のなかで生きるって言葉の意味。今、ようやくわかったよ」
「へえ、何?」
「お前は、俺や凛に会ってる。そして――忘れ去られたんだ。殺されたんだよお前は。だから執拗に凛を追い、その上で凛以外を狙う。俺や、凛を殺さないのはそれが理由だ。お前は――お前自身の存在を証明したがってるんだよ」
渉が言い終わる前に、茉結華の口は自然と開いていた。半開きになった唇がわなわなと震え出し、吐き気さえもが込み上げてきて、咄嗟に手で覆う。
――私が、殺された……? 渉くんと、凛ちゃんに……?
「は……何それ……何、知ったような口利いてんの」
――知らないくせに。
そうだ、何も知らない。渉は茉結華のことを、何も知らない。知らないくせに――どうしてわかってしまう?
茉結華は吐き気をこらえて言った。
「……渉くんに、わかってたまるもんか……渉くんなんかに」
顔を上げた茉結華の目に飛び込んできたのは、またしても渉の――――
「つっ!? うっ!」
首筋の血管が悲鳴を上げるのと同時に、茉結華は絶叫していた。
「痛いいいいいいいいっ! わたる、く、痛ぁあああいいいいいいっ!」
薄い皮にブチブチと歯が食い込む。茉結華は、首筋に食らいついた渉を引き剥がそうと必死に足掻いた。髪を引っ張り、肩を殴り、腹部を膝で蹴り上げる。それでも渉は急所に食らいついたまま離れない。ナイフは? スタンガンは? 腰のホルスターに手を回しても見つからない。どちらも床に放ったままだった。
茉結華は歯を食いしばり、渉の目に拳を叩きつける。ようやく首から離れた渉は、受け身を取るように横に転がった。その口から吐き出された肉片を見て茉結華は震え上がる。
「あ、あぁああああぁぁぁ……! 首……首、首ぃっ……首がっああああ!」
茉結華は首筋を押さえた。ぬるりとした感触に背筋が凍る。今自分がどういう状態なのかわからない。確認するのも恐ろしかった。
渉は軽快に飛び跳ねると勢いを殺さず、茉結華の腰めがけて体当たりした。患部への打撃をもろに受け、目の前が白と黒に明滅する。
視界に捉えた渉の表情はきつく強張っていて、暴力なんて何とも思っていない奴らとおんなじ目になっていた。
「がはっ!」
瞳が交差する前に、再び頭突きを受ける。馬乗りになった渉の額が振り下ろされるたびに、茉結華の頭のなかでキィンと甲高い音がした。
灰色の視界にノイズが生じる。抵抗する自分の腕が見えた。だが渉は、自らも額から血を流し、敵の抵抗に構うことなく頭突きをする。ふたりとも、鼻と口内には鉄の味が広がっていた。
気が遠くなりそうな痛みを我慢し、茉結華は首を必死にひねって、ナイフの在り処を探した。ぐらぐらと揺れる灰色のなか、扉の前まで転がっていたサバイバルナイフを見つけた。
その後ろに見えた、誰かの足。その人がナイフを拾い上げるのがスローモーションで映った。
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