√6 安楽編

プロローグ

六月一日

 雨に濡れた身体を引きずって、洗面台に向かった私は、嘔吐反射でうなだれた。排水口に流れていく透明な胃液を見て、夕飯がまだだったことと、その買い出しに行っていたことを思い出す。手に提げていた買い物袋を思えば一目瞭然なのに、そんなことも忘れていたのか、私は。

 治まりつつある吐き気を堪え、嗅ぎ慣れた自宅の空気をゆっくりと吸うと、土で汚れた手で頭部に触れた。

 

 頭は潰れ、骨は折れ、いろんなパーツを地面に撒いて――以前の私は、即死したのだろう。身体の芯まで響いた衝撃が、まだ、残っている。

 これは死の余韻だ。まだ頸動脈を派手に斬り裂いた時のほうが、感覚はマシだったように思う。あのときは、急激な目眩で頭のなかが真っ白になり、後に残ったものは冷えていく感覚だけだったのだから――とにかく、飛び降り自殺は、二度とごめんだ。


 ぼーっとする頭で、誰かからの伝言を思い返す。

『いつか必ず、鮮明な記憶となってあなたの大切な友に深く刻まれるでしょう』

 ならば私はあと、何回死ねばいいのだろう。どんな死に方をすれば、誰かの記憶に残るというのだろう。

 ――などと、死に方を模索しはじめている私は、もうとっくに人間ではないのかもしれない。

 病室のにおい、薬品のにおい。

 倒れた彼から流れ出る、血のにおい。

 それらすべて、気づけば雨水をたっぷりと含んだ土臭さに変わっていた。

 六月一日の夜に――また、戻ってきてしまった。

 親友が殺人鬼と知った彼は、あの後どうなったのだろう。死んでしまったのだろうか。それとも一命を取り留めて、説得でも試みるのか。彼らしい、正義だ。

 水道の水を止めると、自然にため息が口からこぼれた。終わった世界の話をしても仕方がないというのに、思いを馳せずにはいられなくなる。


神永かみなが響弥きょうや……」


 胃液で荒れた喉から、掠れた声を漏らした。洗面鏡に映る目は、涙で腫れて充血している。まるで、みたいな、真っ赤な瞳。酷い顔だと、歯噛みした。

 明後日から学校がはじまる。きっとあの人は動き出す。人一人止めることができない私は、どうしたらいい?

 今ここにいる私は――何をするべきなのだろう。

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