第一話
転校生
端の曇った窓ガラスをバタバタと叩く梅雨の足音は、教室の喧騒よりもうるさい。
窓際最後尾の席に座る
六月三日。梅雨入りしたばかりの都内は小降りと大降り、強風や雷とを繰り返す安定しない空模様を広げている。
――梅雨なんて大嫌いだ。校舎に降りしきる雨も音も、肌に張り付く湿気も、陰鬱な空気も全部。
「朝からご機嫌だねえ、渉くん」
ベージュ色の膝丈ワンピースが、視界の隅でひらりと踊る。職員室から帰ってきたであろうクラス委員の
「……これのどこがご機嫌なんだ、どこが」
「なになに? なんか嫌なことでもあった?」
凛は、いつにもまして不機嫌な渉の様子を、梅雨のせいだけじゃないね、と悟る。幼馴染の彼女には、渉のちょっとした態度の変化もすぐに伝わってしまうのだ。
渉は、つんと口を尖らせて、「……トラックに、水跳ねられた」
凛は渉の足元に視線を落とし、「ぷっはっはっはっは!」と盛大な吹き出し笑いをする。
「あー、それでズボン上げてるんだ。暑いのかと思った」
目に笑い涙を浮かべる幼馴染に、渉はぐぬぬ……と歯噛みした。おかげさまで、朝から色濃くなったスラックスを脛までたくし上げ、素足でシューズを履く羽目になったのだ。なんとツイていないことだろう。
「ったく、こんな天気に……なんでみんな浮かれてんだ?」
渉は、朝練から戻ってきた教室の雰囲気を横目で窺う。席や端のほうで駄弁るクラスメートの姿はいつもどおり。だが、教室と廊下を行き来する生徒が多く、ホームルームをサボってばかりの不良生徒は驚くことに全員揃っていた。この賑わいの正体はいったい何なのだろう。
「そりゃ転校生が来るって聞けば浮かれるでしょ」
「え?」
「今日このクラスに転校生が来るんだよ」
「はあ!?」
柄にもなく大きな声を出すと、斜め前の女子がちらりと振り返った。渉は咳払いをして、すまん、と目礼する。
こんな時期に転校生なんて珍しい。しかも同じクラスに。目も覚めるような話だ。
「担任の
「へえー」
「美人らしいよ」
凛は内緒話をするみたいに、手のひらを口元に立てて言った。渉は「あっそ……」とそっぽを向く。道理で男子たちの鼻息が荒いわけだ。
「なーに、その反応、つまんなーい。男だったら興味津々で食らいつくとこでしょー?」
「アホらし……そんなんで浮かれるわけないだろ」
ため息混じりに首を振る渉に、凛は「何その言い方」と、じっと目を据わらせ、
「好きな人でもいるとか?」
「――!」
その一言に、煩わしい環境音がすべてシャットアウトされた。
渉は瞼を持ち上げ、ゆっくりと凛を一瞥する。こちらを見つめる卵型の丸い瞳。幼馴染の顔を至近距離で捉え、時の流れが停止する。
――好きな人。
そんな興味津々という顔で見られても、本人を前にして言えるわけがないだろう。渉は聞こえなかったふりをして、
(お前のことだよ……)
と心のなかで呟いた。ホームルーム開始のチャイムとともに、時が再び動きはじめる。
凛は「あ」とだけ声を漏らし、残念そうに自分の席へと戻っていった。立ち話をしていたクラスメートも速やかに着席して、教室中が静まり返る。
(……何が転校生だ)
窓と睨めっこを続ける渉は、ふんと鼻を鳴らした。
美人だか何だか知らないが、どんなに浮ついた空気になろうとも、渉は惑わされたりしない。それよりも早く保健室でスラックスを着替えたい。
教室のドアが開いて、石橋先生が姿を見せてもなお、渉の不機嫌は変わらなかった。それでも、時間は進み続ける。
「おはよう。今日は、みんなもう知ってると思うが、転校生を紹介する」
どこか冴えない、E組の担任教師。大きな眼鏡をかけたぼさぼさ頭の石橋先生は、挨拶も早々に本題へ入る。廊下に視線を向けて転校生に合図すれば、クラスメートはみな釣られるようにそちらを注目した。
机に頬杖をつく渉も顔を傾ける。そして、目を見開いた。
華奢な姿勢を天高く伸ばし、規則正しい足音を奏でながら、転校生は黒板前で止まった。腰下まで届く嫋やかな黒髪が、彼女の動きに合わせて揺れる。切り揃えられた前髪の下で、ぱちりと長い睫毛が一度だけ上下した。
「はじめまして。
凪いだ水面に落ちるしずくのような、芯まで澄んだ声だった。彼女はクラスメート全員を見渡し、なめらかに頭を下げる。
渉も一瞬だけ、その大きな瞳と視線を交えた。この世のすべてを見透かすような、憂いと蔑みを帯びた不思議な目をしている。
きっと、誰もが息を呑んだだろう。
姿をみせた転校生――橘芽亜凛は、紛れもない『美少女』だった。
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