第八話

血痕

 ネコメが藤北に来てはや二週間が過ぎ、夏休みまで残り一ヶ月となった。

 本物の教育実習ならばすでに期間を終えて単位と免許を得ている頃だが、怪しむ者はいない。それどころか、ずっといてほしいという声のほうが多く、あと一週間は平気でいられそうだ。

 早朝の職員室に顔を出したE組の谷村たにむら寿莉じゅり玉森たまもり和可奈わかなのコンビは、きょそきょそと首を動かしてネコメを発見し、デスクに駆け寄る。


金古かねこせんせー! 猪俣いのまた先生知らない?」


 彼女たちはいつもネコメに挨拶をしてくれる元気な生徒たちだ。だがこの日は違っていた。

 二人とも眉間をわずかにしかめて、余裕のなさが見て取れる。保健教諭の猪俣先生ならおそらく生徒会室にいるはずだが。


「何か急ぎの用ですか?」

「うん、猫さんがねー」

「登校中に拾ったのであります」


 谷村、玉森は口々に言った。


「怪我してるのー。でも保健室開いてなくて」

「廊下でユキリンが抱っこしています」

「放っておけなくて、連れてきちゃった!」

「助けてほしいです、せんせー」


 玉森は敬礼し、谷村は「お願い!」と手を合わせる。

 猫と聞いて頭をよぎったのは、現在行方不明中の長海ながみの愛猫。ネコメの後を付いて迷子になってしまった白猫のユキ。――でもまさか、違うだろう。

 ネコメは腰を上げて壁際から保健室の鍵を取り、二人と一緒に廊下へ出た。保健室の前で立っている美島みしま由希ゆきの泣きそうな顔と目が合う。


「せんせぇ……」

「……ユキさん」


 ネコメは、美島の抱える猫を見て呟いた。

 土埃が付いてもなお艶のわかる白い短毛、穢れを知らない青いビー玉の瞳、模様なきピンクの肉球。家猫なのに首輪をしていないところも、長海のこだわりだった。

 間違いない、あの日いなくなったユキだ。ネコメは肩の力を抜き、保健室を解錠する。


「猫さん……道で足を引きずってて」

「うちらに助けてって言ってきた」

「せんせー、なんとかなりそう? この子お腹空いてそうだよぉ」


 ネコメは水で薄めたアルコールで、ユキの足の傷を消毒した。ユキは痛そうにぴょこぴょこと片足を反応させるものの、大人しく美島に抱かれている。外の世界を知らぬまま、まる二日間彷徨っていたのだ。一度病院に連れて行ったほうがいいだろう。


「大丈夫ですよ。私が預かります」

「ほんと?」

「病院が開いたら行きましょう。今日一日保健室で預けてもらえるか、猪俣先生に掛け合ってみます」


 三人組は顔を見合わせてホッと息をつく。

 ネコメは九時に開く動物病院にユキを連れていった。傷の手当とノミ取り、不足した栄養剤を注射してもらって一旦学校へと戻る。猫のストレスを考慮するなら家に連れ帰るべきだが、さすがに合鍵までは作っていないのだ。


 昼休みに長海に連絡して保健室を覗くと、ユキはデスクの上で寝そべっていた。周囲にはユキを囲むように女子生徒らが、目を輝かせている。そのなかには谷村たち三人組の姿もあった。


「金古せんせー! 猫さん元気になったよ!」

「せんせーのおかげであります。敬礼」

「敬礼!」


 三人組は恥ずかしげもなくビシッと手を揃える。ネコメは微笑むことで返して、猪俣先生に目礼した。猪俣は立ち上がり、ネコメの前で腕を組む。


「すみません、ご迷惑をおかけして」

「まったくよ。……まあ、あたしはいいんだけど」

「何か別の問題が?」

「ちょっとね。あんたのその話し方怪しまれないの? 堅いわよ」

「すみません、癖です」

「謝るならアレルギーで倒れた奴に言うことね」

「猫アレルギーですか」


 猪俣は肩をすくめて肯定する。


「生徒ですか、そのかたはどちらに?」

「A組よ。まだ目は赤かったけどね、普通に授業受けてたわ。あんたは行かないほうがいいわよ、毛付いてるから」


 そう言ってネコメのジャケットに付いた猫の毛をつまむ。アレルギー持ちの生徒がいることなど考えなかった。よく保健室を利用する生徒だったのか、悪いことをした。


「飼い主は知り合い? いつ来るの」

「学校にはさすがに来ませんよ」

「……あれは何?」


 猪俣は廊下の先を顎で指す。振り返ったネコメは目を疑った。

 ちょうど職員室前の廊下を曲がってきたらしい、来客用スリッパを履いた長海が、視線を交差し息を呑む。


「な、長海さん……」

「迎えみたいね。ほら、あんたたちー、用が済んだら教室戻りなさい」


 猪俣が保健室から元気な生徒を追い出している隙に、ネコメと長海は合流を果たす。


「なんで来ちゃったんですか。連れて帰るって言ったでしょう」

「すまん。待てなかった」

「そんな子供じゃないんですから……」


 ネコメは背中越しに人の気配を察知し、長海の胸を指で突いた。


「長海さん、赤バッジ。付いてます」

「ユキは?」


 言いつつバッジを外してポケットに隠す。ネコメが潜入している以上、警視庁捜査一課の赤バッジは長海とて見せられない。


「保健室でのんびりしてますよ」

「後ろの女子生徒が凝視しているが、お前の生徒か?」


 ネコメは振り向き、こちらを見守っていた三人組に微笑んだ。


「ユキさんを見つけてくれた子たちですよ」


 長海は一歩前に出て、彼女たちに深々と頭を下げる。


「ユキの飼い主です。見つけてくれてありがとう」


 三人組は緊張気味に首を振って、「保健室にいるよぉ」と谷村が。「ほ、保護できてよかったです」と玉森が言って、美島は真っ赤な顔でうんうん頷いた。

 長海は保健室の扉をくぐり、二日ぶりの愛猫と再会する。長海が大きな手で頭を撫でると、ユキはごろごろと喉を鳴らして擦り寄った。


「ユキリン……同じ名前で顔真っ赤だねぇ」

「うむ。イケメンが二人、名前を呼んでいる」

「うわぁ、恋しちゃったかなぁ?」

「呼びかけても応答がない。屍のようだ」


 後ろでこそこそと内緒話をする谷村寿莉と玉森和可奈。その横で美島由希は顔を覆い、


「あの二人絶対付き合ってる……!」

「あっ」

「そっちか」


 心優しきE組の不思議ちゃんたちによって、長海の愛猫は無事保護されたのであった。




 そんな出来事から二日経った土曜の朝。ネコメと長海は、神永かみなが詩子ともこの住むアパート前を張りこんでいた。

 都内の大学に通いつつ、カフェ『リデル』で働く彼女は、今日は朝からバイトのシフトが入っている。彼女は背中まで届く長い髪を悠々と揺らし、サンダルの踵を鳴らして表に出てきた。アパート前を通り過ぎて五分経過するまで待ち、刑事二人組は車を降りる。

 神永詩子の住む部屋のネームプレートは『稗苗ひえなえ永遠とわ』だ。二人は頷き合い、アパートの大家さんに警察手帳を見せた。


「少しご協力よろしいですか――」


 部屋の鍵を開けてもらい、稗苗永遠の家宅捜索をはじめる。


「彼女……何か悪いことしたの?」


 玄関で大家さんが問いかける。それを見つけるために調べている最中だ。

 ネコメと長海は両手に白い手袋をはめて、慎重に部屋を見て回る。

 手前にキッチン、隣に浴室。中央の洋室では色鮮やかな座椅子とクッション、水玉模様のカーペットが目についた。奥の部屋は寝室として使っているようだった。一人用のベッドがどんと構え、甘い女性の香りが漂っている。

 長海は天井の四隅を見上げて、ネコメに目配せした。


「ここに住んでいる女性はタバコをお吸いで?」

「いいえ。見たことないわぁ。たぶん嫌いなんじゃないかしら」

「ではこの、壁の黄ばみは」


 ネコメが指差すと、大家さんは顔を傾けて覗きこみ、


「あぁ……叔父さんね。ヘビースモーカーって言うの? あの人タバコだけは酷かったから……そういえば最近見かけないわねぇ」

「ここの名義は彼女ではなく?」

「ええ、叔父さんのものよ。二人で暮らしてたのよ」

「その叔父はいつから不在ですか?」


 大家さんは頬に手を当てて考えこむ。


「そうねぇ、二月くらいだったかしら。急に見なくなって……あの頃広報が流れてたわねぇ。失踪だか、行方不明だか……」

「何かトラブルはありましたか? 些細なことでも構いません」

「いいえ。仲のいい親子だったわ。優しげな人で、いつもトワちゃんの心配してた。複雑な事情はわからないけど、本物の親子かと私は思ってましたよ」


 背後でカーペットをめくった長海が素早く立ち上がる。長海の苦手な死体を前にしたときと同じ反応だった。

 ネコメはテーブルの下を覗き見て、あるひとつの可能性に辿り着く。


「長海さん、鑑識の手配を」


 水玉模様のカーペットで隠されたフローリングに染みついていたのは、男の頭ひとつ分ある赤黒い血痕だった。

 叔父はすでに亡くなっている。殺したのはほかの誰でもない、稗苗永遠……。


 遺体は、どこに隠した?

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