そして誰も

 不可解なピアノの音楽で目を覚ますと、いつの間にか目隠しが外されていた。芽亜凛は部屋の明かりに目をくらましながら、痛む首をゆっくりと動かす。

 目の前にいたのは、お面を被った茉結華だった。芽亜凛の口からタオルを外して、人差し指を自分の口元に立てる。寝起きの頭は、いよいよ殺されるのかと他人事のように考えた。

 だが、茉結華が離れたことで視界が開けて、芽亜凛の頭は覚醒する。


 彼らを見て、すべてを悟った。

 ――あなたがしたかったのは、だったのね。


    * * *


 溺れた人間が水を吐き出すように、渉は意識を取り戻すと同時に咳き込んだ。鋭い吐き気に胃が痙攣を起こし、身体中が軋んで動くこともままならない。

 喘ぎながら瞼を開けると、傍らにしゃがんでいる誰かが見えた。ぼやけた視界のなか、人差し指で渉の頬を突いている。


「……お前……誰だ……?」


 掠れた声が舌の上に転がる。自分を襲ったのはこいつだというのに、渉は彼を見ても響弥と認識することができない。そのお面、その髪色は何なんだ。何のつもりでこんなことをする。脳髄は否定ばかり繰り返し、彼が親友そのものだという可能性を拒否する。

 男はビニールコートを着て、手に大きな鋸を持っていた。ハロウィンの街に現れたらホラー風味の仮装として溶け込めそうな風貌。だが今は空想じゃない、リアルだ。


 男はポケットから粘着テープを取り出し、渉の口を何重にも塞いでいく。――その後ろに、ピンク色の長い髪が見えた。

 渉は自分の置かれた状況を徐々に把握して、ゴクリと生唾を飲み込んだ。


 目の前にいるこいつは――誘拐犯。そしてその後ろにいるのは、芽亜凛、千里、小坂めぐみ。行方不明になっている三人だ……。

 芽亜凛は奇怪な椅子に座らされて、虚ろな瞳を床に向けている。千里と小坂は手足を拘束されて、片足は枷と鎖で壁際に繋がれていた。渉の状態も二人と同じ。ただひとつ違うのは、渉だけ口が塞がれていること。名前を呼ばれるのを恐れているのか。


 心を凍らせるには十分な光景のはず。なのに渉は、前にもこんなことがあったような、妙な既視感を募らせた。――その正体を考え抜いたとき、中央のテーブルに置かれたスマホが目に付く。ひとつは渉のもので、もう片方はおそらくこいつのもの。

 どちらかからピアノの音楽が流れていた。……間違いない。朝霧の演奏する夜想曲だ。デジャヴを感じるのはこの曲のせいか……。


「みんな順に殺していくよ」


 男は親友と同じ声で、嘘のような宣言をする。コンクリートの壁と天井に覆われた灰色の空間。支配された一室に、千里の噛みしめるような悲鳴がこだます。


「やだ……やだぁ……!」

「あんた……いったい誰なのよ! 私たちに何がしたいのよ!」


 小坂は涙を浮かべて強気に喚く。二人共、身も心もボロボロだった。相当乱暴に扱われたのだろう、服は汚れてところどころ傷んでいる。顔も手足も痣だらけだった。その反面、芽亜凛に目立った外傷はない。扱いに差があったのか、単に芽亜凛が無抵抗なだけかもしれない。

 気丈な態度に答えるように、彼は手にした鋸を小坂に向けた。小坂はぶるっと大きく身体を震わせて、激しく首を横に振る。千里は息を殺して怯えた。渉も自然と首を振っていた。


(やめろ……やめてくれ)


 祈りが通じたのか、彼は二人が静かになったことに満足してスマホの音楽を止める。……ちらりと見えたのは響弥のスマホだった。

 自分の正体を隠す気がないのか、それとももうバレていると開き直っているのか。だがそんな小さな気づきで、渉の心は踏みつけられていく。

 響弥は渉のスマホで電話をかけはじめた。何度か操作して、ようやく相手が応答する。この場にいた全員が、息を潜めて聞き入っただろう。


『何の用?』と、スピーカーから聞こえたのは朝霧の冷淡な声だった。ハッとする渉と同じくして、今がチャンスだとばかりに小坂が叫ぶ。


「修! 助けてぇ!」


 愛しい恋人に向けて全身全霊で助けを求める――――彼女の首に、鋸が刺さった。

 渉は声にならない叫びを上げた。千里も狂ったように泣き叫んだ。


「嫌ああああっ! あああっ! ああああああ!」


 回転斬りの要領で喉笛が切り落とされ、帯状の血が噴水のごとく吹き出る。互いに触れられない位置にいるはずなのに、ガタガタと痙攣する千里の顔には真っ赤な血しぶきが降り注いだ。


「うっ、うううっ……うぅうううううっ!」


 現場はパニックと化した。吐き気が込み上げて、涙目になる。

 こんなこと……誰にも教わっていない。教えてくれない。学校の避難訓練でも街の防災訓練でも。犯人がいきなり友達を殺したときの対処法なんて、どこの教科書にも載っていないのだ。

 小坂はもう、絶命していた。


「やだ、やだあああ! なんで、あああっ! なんでええ!」


 千里は、嘆きと嗚咽を交互に漏らす。渉も野生動物のように息を荒げ、唸り声を上げた。


「うぅううぅう、うぅううぅうぅ、うっうっ……ううぅううぅ」


 ニ、ゲ、ロ。

 みんな、死ぬ……。なんで? なんでだ? どうしてだ? 夢なら覚めろと身体を縦に揺らす。覚めろ、覚めろ、覚めてくれ……!


「ううぅううぅうっぐ、ううぅうう……! うーううー! ううっ、ううぅうう、ううぅうう」


 朝霧ならわかる。朝霧なら伝わる。

 ――ALL KILL! ALL KILL! ALL KILL! ALL KILL!

 逃げろ。こいつは殺人鬼だ。次はお前のところに行く。全員……全員、殺される……。

 お面の殺人鬼は渉が信号を発していることに気づくと、大股で近づいて腹を蹴った。爪先が身体にめり込み、空気と胃液が逆流して窒息しそうになる。

 突き抜ける痛みと衝撃に渉は喘いだ。怒りと苦しみと絶望が、身体のなかで爆発的に膨れ上がる。

 ぽつり、と砂漠に雨が降ったのはそのときだった。


「神永響弥」


 と、今まで沈黙を貫いていた橘芽亜凛が、はっきりと口にした。


「私を殺しなさい、神永響弥。さもないと、舌を噛んで死ぬわよ」


 響弥はゆっくりと振り返り、親指でスマホの画面をタップした。通話終了の表示が黒い手袋を淡く照らす。


(響弥……?)


 硬い床の上に倒れながら渉はその後ろ姿を見つめる。

 ――このイカれた殺人鬼が響弥だと? ありえない……信じたくない。響弥が人殺しだなんて認めたくない。

 渉は必死に首を振った。やめろ……。

 橘芽亜凛は、死ぬ気なのだ。彼女は最初から死ぬつもりでいる。そしてこれ以上誰も傷つかないよう、自らを犠牲にしようと誘導しているのだ。


 響弥は芽亜凛の前に立つと、弧を描くように鋸を振り上げた。「ううっううううっ!」渉は喉から声を振り絞り、思わず瞳をぎゅっと瞑る。

 ――やめてくれ……やめてくれ。もうたくさんだ。

 あとに続いたのは肉を断つ音ではなく、ヴーッというスマホのバイブレーション。

 渉のスマホに、一通のメールが届いた。


「…………」


 響弥は鋸を上げたままスマホの通知をタップした。渉と誰かのトーク画面が開かれる。送られてきたリンクを選択すると、画面が白いページに移動した。

 響弥は、目を凝らしてそれを見ていた。そして、何かに気づいた様子でいきなり音量を最大まで上げる。

 スマホから、女の悲鳴と男の唸り声が聞こえてきた。そして最後に、


『神永響弥。……私を殺しなさい、神永響弥。さもないと、舌を噛んで死ぬわよ』


 それは先ほど聞いた芽亜凛の声だった。音声はそこで途切れ、直後渉のスマホに電話がかかってくる。

『橘さん、まだ生きてる?』と、現場に似合わない朝霧の落ち着いた声が響いた。


『きっと彼は呪い人の仕業にするだろう。でもそれはたった今阻止された。掲示板に、きみたちの声を投稿したんだ。僕にできる最大の贈り物だよ』


 渉にはその言葉の意味がわからなかった。呪い人? 阻止された? 以前響弥から聞いたことのある話が、どうしてこの殺戮と結びつくのだろう。

 ただ朝霧が、行方不明の少年少女と犯人の名を世に放ったことだけは理解できた。

 芽亜凛は「……そう」と小さく返事をする。


とはもう会えないかもしれない。だけど彼の居場所もなくなった。という言葉はそこにいる彼にかける言葉だよ。死体の処理は大変だろうからね、捕まりたくないなら逃げるといい。まあ、僕には関係ないけど』


 朝霧はさらにこう続ける。


『あいにく僕は今機嫌が悪いんだ。悲鳴を聞かせたかったのなら相手が悪かったね。鳴かない鶏に言うことは何もないよ。――じゃあね橘さん。また会おう』


 プツリと切れた通話のあと、驚くほど静かな空気が押し寄せた。響弥は糸が切れた人形のようにガクンと腕を下ろし、ぶるぶると小刻みに震え出す。

 朝霧は響弥を諭し、残っている者を生きて返そうとしているのだ。これ以上罪を重くするなと、遠回しに告げている。

 誰かに告げた、もう会えない。芽亜凛に告げた、また会おう。その意図は、渉にはわからなかった。


(助かったのか……?)


 現実逃避に近い安易な安らぎが頭をよぎる。響弥はその場に佇んでいた。諦めたように肩を落として――

 けれど。

 殺人鬼の親友は、吹っ切れたように咆哮して鋸を握り直すと、目下の彼女に襲いかかった。

 芽亜凛の身体を引き裂いて、千里の首を、脚を。小坂の腕を、胴体を。闇雲に鋸を振り回し、ズタズタに斬り刻んでいく。みるみるうちに、地獄絵図が広がっていく。

 響弥は息を切らしてお面を外した。血の付いた両手で白い頭をぐしゃぐしゃと掻きむしる。充血した真っ赤な両目が別人のように吊り上がっていた。


「殺してやる」


 親友のものとは思えない唸り声に、渉は否定的に身体を震わせる。


「殺してやる……朝霧修……。殺して……殺して殺して殺して…………」


 呪うような言葉を吐きながら響弥は渉を振り返った。ただ一人無傷の渉に向けて、彼は鋸を突きつける。

 ――もう会えないって、そういうことなのか。


    * * *


『市内のとある民家から三名の遺体が発見、二名が保護されました。

 発見された遺体は今月はじめに行方不明となっていた女子生徒。保護されたのは同じ学校の少年と、男性警察官のようです。二人は意識不明の重体で、現在病院で治療を受けています。また、警察はこの家に住む少年一名の行方を、殺人容疑の疑いで追っており……』


 月曜日に停学が明けて、無事学校に来た新堂明樹は、教室に入るなり異様な空気が流れていることに気づいた。

 ――あの事件のことだろう。

 連日ニュースで報道されている、藤ヶ咲北高校の事件。亡くなった内の一人がE組の転校生だったことは、学校全体が知っている。噂だとその犯人はC組の神永響弥のようだが、その行方はいまだ掴めていない。


 新堂は誤った処分を受けたとして、特別にテストの続きをさせてもらえることになった。出席を済ませた後、空き教室に移動してテストを受ける。

 渉は休みのようだった。あいつが欠席するなんて珍しいなと、どこか落ち込みながらテスト三昧の一日に集中する。


 新堂は、渉が事件の被害者だと噂されていることをこの日の帰りにはじめて知った。病院は面会謝絶のようで、警察も詳しいことは話していないらしい。


 両手がないんだって。


 クラスメートの囁きに、新堂はどこよりも深い奈落の底に突き落とされた。

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