閑話 ネコメ

十年前のあなたへ

 夢は現実から遊離したものではなく、現実を再構成したもの。夢の定義は無意識の補償作用であり、何を補いたいのか知るには、記憶と夢の差を分析する必要があるとユングは言う。

 たまに見る夢はどれもセピア色だった。しかし目の前に広がるは色鮮やかで、懐かしさと現実味リアリティーの塊。これを夢であると感じない私と、夢だと認識している私がいて、総じて、夢だと信じたい気持ちを持っている。


 ここまで疑うのは、自覚ある『経験者』だからだろう。正常な人間であれば、過去の夢を見てそんな考えには至らない。夢だと気づくことはできても、夢だと疑うことはない。

 本当に、心的外傷トラウマというのは厄介なものです。戻りたくない、が百だと思っていましたが、この光景を見る限り、今は懐かしさに浸りたいようです。


 もしこれが夢でないとしたら――? その考えは現実という答えを導き出し、同時に、私の『死』を意味する。


 はてさて。

 私は文字どおり、十年前に戻ってしまったのでしょうか?


    * * *


 季節は初春。もうすぐ卒業式です。進級すれば二年生に上がり、クラス替えが控えている。

 藤北では毎年、特進クラスの志望調査が行われます。春休みを迎えるまでに志望表を提出する。むろん未提出者は自動的に非希望者に振り分けられます。

 私の机の上には、幾度も見た……懐かしの志望表が置かれている。


「そんなに悩むなら行けば? 流星りゅうせいは頭いいんだから」


 ネコメでもメテオでもなく流星と呼ぶ彼女の声は、まっすぐ胸に飛び込んできて、青空の下でキャッチボールしているかのような錯覚を起こす。

 舞耶まやは、私の初恋の相手だ。


「私も付いていってあげようか。そうしたら同じクラスになれるし、勉強教えてよ」


 にこりと口角を上げる舞耶は、「まあ、行けるかわかんないけど」と言ってセミロングの髪に指を通す。明るい茶色のヘアカラーは俺の髪よりも目立ち、そばにいても周囲の視線を散らしてくれる。優しくて若々しい髪色だ。

 夢というのはいつも不鮮明だった。しかし今日の視界は良好そのもの。教室に射し込む夕日の赤も、キラキラと輝く舞耶の髪もとても鮮明クリアに見えています。この視界が、夢か現実かを悩ませている原因のひとつだ。


「もしこれが夢なら私が適当なことを言っても、」

「え?」


 ……都合よく取り繕ってくれるはずなんですがねぇ。

 視界も意識もはっきりとした『夢』のなかでは通用しないようです。私の願望で構築された舞耶なら、眉間にしわを寄せて同級生を舐め回して見たりしません。SFホラーの宇宙人に向ける目です。


「流星、大丈夫?」

「大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば大丈夫ですよ」

「ですよ?」

「同級生とは言え女子高生と話すのは緊張しますね」


 相手が舞耶だからでしょうか。二十六歳の俺が同窓会で舞耶と会ってもこんなふうに話しそうです。

 時の流れは友達や同級生さえも他人に変えてしまう。離れている時間が長ければ長いほど。


「えーっと……流星の成績なら余裕でオーケーだと思うけど……?」


 あくまでA組に行くのを健気に勧めてくれる舞耶。言葉とは裏腹に、本当は寂しい。行ってほしくない。本心じゃない――

 そんな気持ちを期待して舞耶を見ますが、伝わってくるのは宇宙人に対する困惑だけです。脈なし、とも言うでしょう。ただ純粋に、俺のためを思ってくれている。


 当時、藤北の特進クラスは生徒の入れ替えが多かった。一年経てばクラスの厳しさを痛感し、他クラスにもその課題の量や授業スピードの噂は流れてくる。当然、付いてこれない脱落者も出てきます。

 けれど入れ替わりが多い理由はそうじゃなかった。


 


 当時の藤北は、意地でもE組に行きたくない生徒がほとんどでした。

 運任せのクラス替え。教師と神に祈るくらいなら、逃げ場としてA組を希望する。

 二年時のA組希望者は、毎年のように定員オーバーした。そうなると、希望した生徒のうち成績のよい者が順に、最大で四十名選ばれる。

 友達と一緒のクラスになるために特進クラスを選ぶ。そんな遊びが許されるのは受験に合格した頃だけです。一年経てば再び争い合うことになる。

 一種の受験のようなものです。学年最後の期末テストで上位四十に入れるよう、意識の高い者は進級を見越して努力する。


 舞耶は、勉強も運動も何もかもが平凡な普通の女子高生です。特進クラスを希望したとしても、彼女の順位では厳しいでしょう。


「舞耶はもう提出しましたよね」


 普通の会話を試みる。舞耶はあっさりと頷き、先ほどの言葉が当然の冗談であったことを公にした。


「うん。あとは流星だけって言われたでしょ?」


 なるほど。『それまでの俺』は、今に至るまでだらだらと迷っていたんですね。

 特進クラスに行くか行くまいか。それもこれも舞耶が熱心にA組を勧めてくれるからです。頭はよかったので、希望すれば間違いなくA組に入れるでしょう。

 まさしくここが、私のリセット地点に相応しい場所。志望表に悩む放課後の教室。人生の分岐点です。


「舞耶、鏡を持っていますか?」

「あるけど」


 胸ポケットから手鏡を取り出した舞耶は不思議そうに首を傾げながら、「てか敬語ブーム? 急にどうしたの?」と苦笑を滲ませる。舞耶にとって俺は、突然敬語で話し出した同級生に見えているのでしょう。他人行儀かつ、夢でも仕事モードが抜けきっていない。

 夢は一人称視点と三人称視点で見る場合がありますね。現実と同じ視点か、はたまた幽体離脱のように俯瞰して見ているのか。

 今回は前者。現実とまったく同じ視点です。自分の姿は見えないから、どんな顔で舞耶の前に立っているのかわからない。藤北の学生服を着ていることは確かです、あと頭が少しばかり重い。


 夢のなかの俺は、はたしてどんな顔をしているのでしょう。花の女子高生、舞耶に借りた鏡で自分の顔をまじまじと見ます。

 鏡に映ったのは――十年前の私。

 童顔で今より小柄で、前髪と襟足が長めです。頭が重いのはこの髪のせいでしょう。警察官だったら怒られていますね。それにちゃんと食べているのか不安になる顔色です。

「ありがとう」お礼を言って鏡を返します。どこまでも明瞭に過去へ戻っているようなので、見たくない現実からは目を逸らしていきましょう。心がおじいちゃんの俺にこのリアリティーはきつい。


 さて。

 志望表の『しない』に丸を付ければ、俺は二年E組行きとなり、舞耶とは二年連続の同じクラスとなります。確定された未来です。『希望する』のルートを試したことがないので、一方の未来しか知り得ませんが、舞耶とは確実に同じクラスの二年E組になります。

 仮に私がA組に行ったとしましょう。舞耶はE組行きでしょうか? いいえ、そんなことはない。わかっているのは、俺がE組に行く道に限る未来です。


 A組に行けば少なくとも呪い人の輪からは外れる。

 けれど舞耶は? 舞耶はE組に振り分けられるかもしれない。

 このチカラは? 死のループから外れれば、このチカラを失うかもしれない。

 そうなれば舞耶を助けることができない。E組に振り分けられたクラスメートもみな、見捨てることになる。


 当時の俺にそんな正義感があったのか。俺だけが助かる未来を恐れ、自己犠牲するほど舞耶のことを愛していたのか。

 当時の心情は今考えられる憶測に過ぎません。これだ、と表せるひとつの感情を俺は持ち合わせていなかった。

 愛、喜び、怒り、悲しみ、恐れ、嫌悪、諦め、絶望。

 幾度となく壊れ、幾度となく壊された。


 最初に与えられたのは、困惑だった気がします。ほかならぬ初恋の人にです。俺が今舞耶にしていることと同じですね。

 元の私は、この一ヶ月後に舞耶に告白する気でいました。舞耶に殺される前の私です。

 私にとっては一度きりで終わった悪夢の告白。しかしそれまで巡ってきた舞耶にとっては……何度目だったのか。


 なんだ、夢か。三月に飛ばされた私は、そう思いながら舞耶と同じE組になります。しかし百年の恋も冷めると言いますか、その後すぐには行動に移せず、もたもたしているところにクラスメートから犠牲者が出た。隣の席の子だった。

 まあ結局、告白どころではなくなるのが俺の未来ですねぇ。クラスの担任が滅茶苦茶にしてくれましたから。身も心もすり減っちゃいますよぉまったく。


 たとえ俺を突き落としたルートがあったとしても、舞耶はいい子です。優しい子です。

 せっかくA組を勧めてくれたのに、それを無下にする俺のほうが悪いですね。これ以上彼女に面倒をかけないよう『しない』に丸を付けて提出するとしましょう。

 でももう少しだけ、舞耶の時間を奪ってもいいですか。


「舞耶」

「ん? あ、行かないの?」

「これ、職員室に届けてくれますか?」


 自分で行くのは、まだ少し怖いですからね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る