雨降って地固まり

 肌寒さを感じるほど涼しかった今日は、三十度を大きく下回り、学校ではエアコン稼働の許可が下りなかった。気温は低くても湿度は高く、じめじめとした嫌な空気が肌にまとわりつく。雨で窓を開けられないのだから、除湿くらい許可してくれればいいものを。

 生徒の反抗心をカラオケ店にぶつけるかのように、響弥は個室のエアコンを除湿で稼働した。七人という大人数でソファールームに入り、ドリンクバーで注いだ飲み物をテーブルに置く。

 渉の対面に腰掛けたリキが、姿勢よく頭を下げた。


「昨日は僕の友達がいきなり、すみませんでした」


 彼と合流したのは藤北の校門前で、つい先ほど。杉野を加えたいつメンのグループトークに『リキが直接謝りたいって言ってる』とゴウが投下し、放課後会うことになったのだ。

 渉のカラオケ代は林原兄弟の奢りである。本当は全員分奢る気だったリキだが、いつメンの大喜びによってゴウが「やっぱなし。渉だけにしよう」と冷酷に告げたのだった。


「お前に謝られてもな……」


 今日は何かと謝られる日だ。望んでもいないし、謝られたところで怪我は治らない。


に代わっての謝罪です。いきなり殴るのはどうかと思うって、僕からも言っておきました」

「あ、そう……」


 唇の端が引きつる。

 リキはまるで侍のようだ。並ぶと双子の証明にもなるが、醸し出す雰囲気の違いも見えてくる。元気で茶目っ気があるのはゴウのほうで、弟は凛々しく落ち着いている。さながらゴウは、弟に守られる若様か。

 響弥たちはパネルを操作してアイドルのライブ映像を流した。いつもの観賞会である。杉野は緊張しているのか、借りてきた猫のように大人しい。


「お前部活はいいのかよ。日龍って厳しいんじゃねえの?」


 渉の隣に腰掛けて響弥が問う。


「厳しいですが、今日は早退しました」

「早退って……。俺らと一緒にいて大丈夫か?」

「平気です。兄貴がいるので」

「どういう信頼だよ……」


 たとえ知られても兄弟が揃っていれば、家庭の都合とでも言い訳ができる。他校の生徒に謝罪するべく部活を早退するなんて、本当に律儀な奴だ。


「てかお前、紫陽花って呼んでんのかよ」


 話題はキザキへと移り変わった。


「日龍ではそうです。藤北でのあだ名は、トキテルでしたっけ」

「トッキーとも呼ばれてたな」と柿沼が振り返る。

「読み間違いですか」

「じゃね? みんな呼んでるからそれで通してたよな」

「渉はちゃんとキザキって呼んでたけどね」


 ゴウに感心したように言われて、渉は目を伏せる。

 紫陽花あじさい刻輝きざき。目を疑うような、本当の名だ。

 教師だったか、クラスメートだったか。初見で、トキテルと読んでしまったことがあだ名のきっかけらしい。


「確か一年の頃、苗字が紫陽花なのをいいことに、お前んち金持ちなんだろって絡んだ奴がいて」

「それでトキテルがキレて、誰も苗字じゃ呼ばなくなったんだっけか」

「相手は三年だったって話だね」


 柿沼、清水、ゴウが口々に言う。

 キザキはほかでもない、大手企業AJISAIメーカーの御曹司だ。世界的なシェアを誇る大企業で、炊飯器や掃除機などの生活用品を中心に、新商品およびヒット作を次々と生み出している。紫陽花などという奇怪な苗字を聞けば、大抵は考えつくはずだ。

 杉野が下の名前を避けていたのと同じように、キザキは苗字で呼ばれるのを拒んだ。そして藤北ではトキテルという、キザキ本人も否定しなかった偽りの名前呼びが定着した。


「お前はあいつと友達なのか?」


 よく仲良くなれたな……と、渉は嫌味のように呟く。

 E組の問題児が群れを作るタイプならば、キザキは誰ともつるまない一匹狼だった。そんな彼が日龍では友達を作り、苗字呼びを許している。


「ああ見えて紫陽花は友達思いで、昨日も僕がリンチされてるんじゃないかと思い庇ってくれたようです。あ、もちろんそれは誤解で、非があるのは紫陽花ですが」


 キザキが目撃したとき、リキ以外は全員藤北の生徒だった。そこには望月渉という因縁の相手がいて――

 もし渉が彼の立場だったら――殴りつけたかどうかは置いといて――やはり迷いなく駆けていただろう。日龍の生徒と杉野の間に割りこんだように。

 渉は思わず、友達は選んだほうがいいぞ、と上から目線の悪態をつきそうになり、コーラと一緒に喉に流した。


「お前はなんであそこにいたんだよ。杉野に何かしてたのか」

「渉ぅ……僕の弟だよ?」


 じとりと目を細めるゴウの対面で、杉野が言う。


「あ、それはちがくて。林原の弟はあいつらに、何やってんのって顔を出してくれたんだ」


 あいつらというのは杉野に絡んでいた男子二人組のことである。


「はい。たまたま見かけて、店に寄るついでに声をかけたところ、ほぼ同タイミングでみなさんが来ました」

「彼女とのデートコースか」と柿沼がニヤける。

「そんなもんです」


 リキは手付かずの烏龍茶をひと飲みした。ようやく不信感が解けて安堵したのだろう。


「ていうことは……リキは俺ら側? 駆けつけた望月と同じだったってことか」

「はい」

「僕の弟がいじめなんてするはずないでしょ」

「でもそりゃあゴウがわりぃよ。なあ?」


 響弥が言うと、さも当然のごとく清水と柿沼が頷く。


「なんで!?」

「だって俺らに黙ってたんだからなあ。ドッペルゲンガーの真相を」

「なんで弟のこと言わなかったんよ? 双子だなんて聞いてねえぞー」と清水が間延びする。

「そりゃあだって、弟のデートを言いふらすのも悪いし、リキの恋路を邪魔したくないし……」

「ブラコンかよお前はよ」

「第一、双子の弟だよって言ったらみんな信じた?」

「…………」

「ほらぁ! みんな面白がってたくせにぃ!」


 全員が無言で目を逸らしたのち、


「……そりゃあ、まあ」

「ちょっとわくわくしてたな」


 と、今回の言い出しっぺである清水と柿沼は笑みをこぼした。

 渉はゆっくりと瞼を閉じて、ほっと息を吐く。


「誤解が解けてよかったよ」

「はい、僕も。いつも兄貴がお世話になってる人たちなので、悪い人ではないとわかってます」


 キザキの代わりというのは不服だし、リキではなく本人が頭を下げろとも思うが、友達の弟と対立するような真似はしたくない。とにかく誤解が解けてよかった。

 双子の弟とは言え同い年にも関わらず、リキは丁寧で礼儀正しい。あのキザキと友達というのが信じられないくらいだ。


「じゃあ、仲直りってことで歌おうぜぇ」


 ピピピッとパネルを操作して響弥は曲を追加する。その隙に「なあなあ、世戸っていつもああなのか?」と問うたのは清水だ。


「学校じゃつーんとしてる印象だけど、見たときかなりデレてたよな」

「優歌はいつも優しいし、可愛いし、甘やかしてくれます」

「ふーん。特に好きなとこは?」


 リキは一拍置いて答えた。


「……兄貴と同じ、泣きぼくろがあるところですかね」


 弟の隣で、兄は「うふ」と両手を頬に当てて赤らめる。

 呆れたいつメンの「お前もブラコンかよ……」という声が揃って個室にこだました。


    * * *


 タオルケットを身体に巻きつけて寝返りを打つ深夜一時。一昨日まで寝不足だった渉は、すっかり規則正しい寝息を立てていた。

 刻まれた遊園地の記憶と心の傷はまだ癒えない。それでも響弥たちいつメンと過ごすうちに、少しずつだが着々と回復に向かっていた。

 そんな安眠を妨害するのは、枕元に置いてあるスマホの着信音。充電器に繋がれたスマホが、軽やかなメロディとともに着信画面へと切り替わる。


「う、んん……?」


 渉は薄らと瞼を持ち上げ、画面に映る名前を霞む視界で捉えた。こんな時間になんだ、電話、誰だ……? 遅れる思考を巡らせているうちに着信は途絶える。

 寝ぼけ眼でパスワードを解くと、登録したばかりの朝霧のトーク画面に変わった。彼からの着信もメッセージもはじめてである。

 どうしたのだろう。疑問をそのまま打ちこむと、送信する前に新たなメッセージが追加される。


『たすけてもちづきくん』


 夢現だった意識が覚醒した。

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